今度、山田晶の「どうして無の方が有よりも深いと言えるのか」という問いに、結局のところ、京都学派の誰も答えていないのはなぜか、について書きます。
京都学派を語るのであれば、彼らが主張し続けてきた「無の立場の深さ」を論じるべきですが、京都を語る人のすべてがこの問いから逃げています。
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