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哲学、ここだけの話(無と存在)

京都学派と言えば、おおむね「無」を強調する事が特徴です。

西洋は存在を語り、東洋は無を語る。「自分は東洋人の伝統に従って、無を語るのだ」というのは、西田を始めとする京都学派の哲学者たちのセールスポイントと言って良い。

こうした京都学派の主張に対して、同じ京都大学の中で異を唱えたのが山田晶です。彼は、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの専門家ですが、彼らこそ京都学派が言う「存在の立場」を代表する思想家たちです。西田の弟子の中でもとりわけ「無」という言葉を前面に出したのが西谷啓治ですが、山田の批判は明らかに西谷の主張に向けられています。とはいえ西谷自身は、この山田の批判に正面切って答えませんでした。

「APPENDIX III」でも書いた通り、西谷の弟子である上田閑照は、この批判に言及しているものの、結果的に答えることはしていません。つまり西谷、上田といった京都学派の継承者たちは、「なぜ無が存在よりも深いのか」という山田の問いに答えていないのです。

ここで問題にしたいのは、どうして答えなかったのか、ということです。

結論から先に言うと、京都学派は「西洋は存在の立場だ」と言いましたが、そこから実は肝心の「西洋が考える存在とは何か」という問題を深く掘り下げることを怠ったのです。

もちろん言葉の上では、西洋は、存在をとても大切に考えます。「存在こそが究極だ」といった表現もよく見られる。それに対して東洋は、「無こそが究極だ」といった言い回しがよく見られる。

言葉だけを見れば、確かに「西洋は存在を重視し、東洋は無を重視する」と言って良い。そう、言葉だけを見れば。

では、東洋が語る「存在と無」は、西洋が語る「存在と無」と同じなのでしょうか。

同じであれば、両者の対立は、「事柄」の理解における対立となります。しかしもし両者が異なれば、それは事柄の対立ではなく、実は表現上の違いに過ぎないことにもなりかねない。

西洋の「存在と無」が、東洋が語る「存在と無」と、そんなに違うはずがない、と思う人は少なくないでしょう。しかしヨーロッパ近代を代表する哲学者と言って良いヘーゲルは、「存在と無は同一である」と述べています。存在と無が同一であれば、存在を強調しようが無を強調しようが一緒です。だって、存在も無も同じものを指しているのですから。

つまり同じものを犬と呼ぶか、dog と呼ぶかの違い。

したがって肝心の問題は、西洋が「存在と無」という表現で何を語っているのかをはっきりさせることです。それをはっきりさせずに、「西洋は存在を重視している」と言っても、それが意味する内容は分からずじまいです。それが分からないままで、「私達は彼らと違って無を重視する」と言うことに何の意味があるのでしょうか。

そもそも西田幾多郎が生きた時代を考えましょう。彼は、東大の学生でしたが、その頃の東大は、まさに黎明期で、哲学の教師もドイツ人が務めていました。つまり西洋哲学についての基本的な知識がまだない時代なのです。それを思えば、彼や彼と同時代の人々が、驚異的と言って良いほどのスピードで西洋哲学を吸収したのは、本当に賞賛に値します。値しますが、それでも、その時代の西洋哲学への理解が、まだまだ浅かったことは否めません。特に東大では、ドイツ人哲学者が教師でしたので、西田たちが学んだ哲学史も、当時のドイツ哲学のそれでした。

十九世紀のドイツで、どのような哲学教育が行われていたか。大学教育では、もちろんヘーゲルが最高の地位を占めていて、哲学史もヘーゲル的になります。そうなると、「哲学」も、科学的思考のルーツとしてではなく、「弁証法」こそが哲学だということになります。「論理」も、現在私達が普通に考える「論理」ではなく、ヘーゲルの考える「論理」になる。素人の皆さんは驚かれるでしょうが、ヘーゲルの「論理」は、現代の論理学とはまるで別物です。

では、西田が語る「論理」は、どちらでしょうか。ヘーゲル的な論理なのか、それとも現代の形式論理なのか。もちろんヘーゲルのそれです。西田の最後の哲学論文のタイトルは「私の論理について」というものでしたが(未完です)、「私の」という言葉がついている点で、それが形式論理ではないことが明らかです。

哲学の世界では、いまだに「誰々の論理」という表現が通用しますが、今日、普通に「誰々の論理」という言葉が通用するか。通用しません。特定の誰かの論理などというものは、そもそも「論理」の名前に値しない。論理はあらゆる人間に通用するから論理と言われる。

わかりやすく説明しましょう。論理が人それぞれなら、「あなたの議論は論理的ではない」という表現が意味を持たなくなります。誰かの議論に、「それは論理的である」「論理的でない」と言えなくなると、どうなるか。各人の主張に、他人は何も言えなくなります。言えたとしても、「あなたの立場からすると」という限定付きです。つまり「万人に通用する議論」がなくなる。

そう、現代の日本社会がこれです。今の日本では、哲学者の議論すら、多くがこれです。ヘーゲル的には、とか、ベルクソンの立場では、とかいう言い方ばかりです、どこにも「これが真理です」という言葉はない。

それは日本だけの話ではない、と言う人もいるでしょう。だとしたら、「もはや哲学などないのだ」と言うべきです。誰もが認める真理などどこにもないし、求めることも間違っていると言うべきです。

<もちろん現代世界に「誰もが認める議論」はあります。自然科学は、世界中どこに行っても通用します。そう、哲学の代わりに自然科学が、真理の探究を行っている。そして本家本元の哲学だけが、「普遍的な真理」の追究をやめている。なんと逆説的な状況でしょうか。>

本論に戻ります。「存在」という語は何を意味するのか。前述したようにヘーゲルも「存在と無は同一である」と言います。「原初の存在は、何物にも限定されていないので、無限定であるという意味で無」だからです。こうした言い方は、実はヨーロッパでは普通に見られるものです。いわゆる新プラトン主義の系譜(その多くは神秘主義と呼ばれる)では、基本テーゼと言っても良いくらいです。「究極の存在は、何物にも限定されないので、無である」。なぜ限定されないか。限定されると、そこには「限定するもの」「限定されるもの」という二つのものがあることになるからです。もしこの二つがあるなら、究極のものは、この二つをさらに含むもの(この二つがそこから出てくるそれ)でなくてはいけない。つまりいずれにせよ、究極の存在は、限定なきもの(多ではないもの=プロティノスの「一者」)である。

このように西洋でも、(少なからぬケースで)究極の存在は無です。ヘーゲルは、その伝統下にある。つまりそれを存在と呼ぶか無と呼ぶかは、事柄そのものの問題ではなく、問題への視点で異なるということです。

繰り返しますが、こういった表現は、ヨーロッパの思想家にとって周知のもの、自明のものです。山田晶が取り組んだアウグスティヌスやトマスの書いたものにも、これらの言い回しは普通に出てきます。アウグスティヌスは、キリスト教神秘主義においても重要な扱いを受ける思想家ですし、トマスも近年では、その神秘主義的性格が強調されるようになっています。「キリスト教の神」は、究極の存在ですが、それゆえに彼を限定するものなど絶対に存在しないので、端的に無限定であり、無限定(=無)であるがゆえに、それを私達は認識できない(不可知である)。私達の認識は、限定を認識するものだからです。

こういったアウグスティヌスやトマスの思想からすれば、西田たちの語る「無」は、彼らが語る「(究極の)存在」とどこが違うのか。山田からすれば、西洋を(無と対立する)存在の立場と決めつけること自体が、西洋思想への無理解の結果だと言うことになるでしょう。繰り返しますが、西田が生きた時代を思えば、この批判を西田に向けるのは酷でしょう。しかし西谷は? 上田は? 

上田は、もちろん山田の西洋哲学理解をよく知っています。つまりトマスやアウグスティヌスの「無=存在」の理解を知っている。エックハルトの無の理解が、彼らの無の理解よりも本当に深いのか、と問われても、彼には答えられませんでした。上田の無の理解は、西田たちのそれから進んでいなかったからです。

私達は、すでに山田の巨大なトマス研究を手にしています。それ以外にも、新プラトン主義の系譜がどれほどヨーロッパ思想の源流になっているかも知っています。そうした知識を持った今、私達は再度、「京都学派の無」は、「欧米の存在」よりも深いのか、を問わねばなりません。

それはさらに、自分たちを「無の立場」と呼んで、西洋のそれと区別することの意味を問うことでもあります。両者に実際の違いがないなら、dog を犬と言い換えているだけのことかもしれないのです。

<本論は、以前アップした「哲学、ここだけの話(「無」という言葉)」「Appendix III」の続編的な内容です。良ければそちらもどうぞ。)

**ちなみに、このトピックへの私自身の答えは、京都学派のそれでもなく、新プラトン主義のそれでもありません。興味のある方は拙著(のどちらでも)をお読みください。






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