![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47231972/rectangle_large_type_2_1d98642f18d5aa75fef46e4dabce6de3.jpeg?width=1200)
恋とピアノと私 #1
ピアノを習い始めたのは小学校に上がる少し前だから6歳の頃で、
「あなたがやりたいって言ったから連れていってあげたんだけど?」
母は恩着せがましくそんなふうに言うが、当の本人はまったく覚えていない。記憶の片隅にもない。
はて、そんなことをわたしが自発的に言うだろうか? 疑問が残る。でも母が言うのならそうなのだろう。
音楽に縁のある家庭ではなかった。
母がピアノの先生だとか、親戚に音楽家がいるとか、そんなお洒落な事情はない。農村出身の両親は、ピアノやその他の楽器、あるいは歌なども含めて音楽の素養は皆無だ。人生で触った楽器は学校のリコーダーとかそれくらいのものだと思う。楽譜だってろくに読めやしない。
そんな家にあって、自ら「ピアノをやりたい」と言ったなら、どうせ幼稚園の先生が弾いているのを見てあこがれたとか、そんな陳腐な話だ、たぶん。鍵盤ハーモニカに触る機会もあったろうから、そちらがきっかけかもしれない。
「あなた、幼稚園の先生のこと大好きだったもんね」
「……へぇ」
言いつつ、頬をかく。
それはうっすらだが覚えている。若くてかわいい先生がいたのだ。それこそ二十歳をいくらも超えていなかったはず。
ませガキだ。
*
家から歩いて5分の距離に、個人宅で教室をされているピアノの先生がいた。ご近所さんで、当然顔見知りでもあった。だからこそ、母もそれほど気兼ねなく通わせる気になったのではないか。
ある日の夕方、母と一緒に出かけていった。手を引かれながらおずおずと歩く子どもが目に浮かぶ。ちょっと人見知りの傾向があった。
ピアノの先生は、うちの母と同年代の女の人。ウェーブのかかった豊かな黒髪、ロングスカート、そしてちょっと濃い目の化粧が、今思えば、実に音楽家然とした先生だった。
教室用にあつらえられた部屋には、グランドピアノが1台、アップライトのピアノが2台置かれていて、本棚には大量の楽譜やCDが整然と並んでいた。壁際にソファ。そこに母と座る。ローテーブルには小さな観葉植物が置かれ、窓から夕日が斜めに差し込んでほのかに照らす。
木材、金属。それに本。いろんな匂いの混じり合った、音楽室特有のあの独特の芳香を、自分は緊張とともに嗅いだ。
「じゃあ、弾いてみようか」
最初はそんなふうに案内されて、初めての鍵盤に触ったはずだ。足のつかない椅子に座って、冷たい鍵盤をそっとなでる。
少年は、52の白鍵と36の黒鍵、そして五線譜に出会う。神秘的なモノクロの世界だ。
これがド。ここがド。ピアニカと同じよ。ドを鳴らす。右手、それから左手の親指で叩く。人差し指で弾く。初めてでも、不器用でも、ピアノは叩けば音が鳴る。
ポーンと長く、ポツポツと短く。部屋をドの波が満たす。続いてレ。ミ。
先生は優しい方だった。よく褒めてくれた。
お世辞だとしても、そういうのは本当に、心の礎になる。
*
小学校に上がってからはひとりで教室に通うようになった。自宅には本物のピアノもやってきた。
30分のレッスン。どう思って通っていたのか。覚えていない。つまらなかったとか、つらかったという記憶はないから、それなりに楽しんで通っていたのだと思う。
バイエルからブルグミュラー、ツェルニー。
練習曲を経て、しだいに名の知れた作曲家の有名な曲を弾けるようになると、ピアノは、音楽は、その深遠でカラフルな世界の一端を見せ始めた。
しだいに音符が密になり、黒さの度合いを増していく楽譜。見るからに難しそうな楽曲に、はじめこそ「げ」と怖気づくけれど、ひとつひとつ丁寧に追っていけば、必ず自分に寄り添ってきてくれると知ったから、練習にも身が入った。
うまく弾けると楽しかったし、褒められたらうれしかった。
上達のスピードが早かったのか遅かったのか。人と比べてどうだったのかは分からない。ピアノの天才少年になるようなこともなかった。
でも、先生からの宿題に真摯に向き合い、一定の時間練習し、ときに自分から新しい曲を探すような子どもが、そうそう下手くそだったとも思えない。
じきに、学校での合唱のピアノ伴奏などを任されるようになる。
(続く)