恋とピアノと私 #6
「小3から」と自分は答えた。
彼女に伴奏の経験を問われたのだ。
彼女は「あぁ、それで」と、納得したようにうんうんうなずいた。
「それで伴奏、うまいわけだ」
そんなふうに言われたら、ちょっと照れる。
*
「うん、いいね。じょうずに弾けてるよ」
いつものレッスン室に、先生の声が静かに響く。
密閉度の高い部屋は、ふつうのセリフもどこか異質な音調で、じんわりと耳に残る。少し硬い先生の声も、丸みを帯びて自分の鼓膜を震わせた。
「でも」
先生は言って、表情をくもらせる。
その瞬間、首のあたりに冷やっこい風が吹いた気がして、心の温度が下がる。覚悟する。ネガティブな言葉――それは指導してもらう上で避けられない大事な言葉――が飛んでくる前の緊張感を覚える。
やさしい言葉で厳しい指摘をする先生だった。笑顔で言うのだ。そんなの簡単じゃないよということを。平然と。のちに出会った、何人かの芸術家肌の先生たちはみなそうだった。そういうものなのだろうか?
先生は言う。「ちゃんと弾けてる。ニュアンスもいい」
ニュアンスって何だろう、と自分は思った。
小学生にはレヴェルの高い言葉だった。
「でもね、伴奏はそれじゃダメなんだ。ちょっといい?」
先生は楽譜を取って、隣のピアノの前に座り、さっと譜面に目を通すと途中のフレーズをさらった。
鍵盤の上をダンスする先生の指。いかにもピアニスト的な、細くしなやかな指だった。細いけれど力強かった。力強く、かつ繊細だった。
先生が、演奏をしながらこちらをちらりと見やる。それはときおり先生が見せる仕草で、「分かる?」とでも言いたげな、挑戦的な雰囲気を伴っていた。
自分は唇を引き結び、耳を澄ます。
感じて。
考えたらうまくいかないものだ。よく聞いて、感じて。そうして言語化する。
ふいに歌が聞こえた。伴奏に載る歌。歌声と歌詞が、耳をかすめた。
「伴奏するの、初めてだったよね」
先生は演奏を止めると、こちらを振り向いて微笑んだ。
うなずく自分に、先生は言った。
伴奏を弾くときは、自然と、主たるパートの音声が耳に聞こえてくるように弾かなければならない、と。
そのためには、テンポを守る。そして大事なのは左手。
ピアノの左手。すなわちベース(低音)だ。右利きの自分にとって、左手の旋律はいつも難関だった。練習もおろそかになりがちで、いいかげんに済ませていたところがあった。
痛感する。全然だめだ。左手を、もっともっと鍛えないと。やりたいことができない。
初めての経験は、自分の弱みや課題を浮き彫りにするものだ。バッハが大切だという意味に気付く。
「テンポ。左手、きわ立たせて。ちがう。乱暴はだめ。ひとりで弾いてるんじゃない。曲を支えないと」
先生はやさしく、何度もそう指摘した。
指摘してから、実際に弾いてみせてくれた。
ベースがにわかに浮かび上がる。主旋律が、絶え間ない川の流れのように、よどみなく聞こえ始める。
そんなにうまくできないよ。
自分はその言葉を呑み込んだ。呑み込んで、練習したのだ。
*
小学校で経験した合唱の伴奏。あれが、自分の伴奏の原点にある。
学校単位で出場する県の合唱発表会があって、それに小学校3年生で出場するのが、自分の出身校の毎年の行事だった。NHKのコンクールのように勝負を伴うものではなかったし、伴奏者も各学校の児童が務めていた。2曲演奏するうちの1曲の伴奏を、自分が担当させてもらった。
クラスメートが自分のピアノ伴奏で歌う。
これほど衝撃的な初体験も、そうはないと思う。
振り返ると、どうして自分が弾くことになったのかあまり覚えていなかった。オーディションのようなものがあったに違いないが。
「ピアノ弾ける人」
学校の先生にクラスで訊かれて、臆面もなく手を挙げたのだろう。
遠慮や、周りの目を気にするという感覚がなかった。
うらやましいと言えばうらやましい。
*
「頭のとこ、もっかい合わせてもいい?」と彼女が言う。
もちろん。
彼女が楽器を構える。自分も手を掲げ、そっと鍵盤に触れて待機する。
静寂の音楽室。
彼女がすっと息を吸い、ほんの少し楽器を揺らす。
彼女の出す、その自然で合わせやすいアインザッツ(合図)に、自分はいつも感心していた。そういうところはさすが吹奏楽部だと思った。
「パン!」と冒頭、二人の音が重なる。アルペジオを勢いよく繰り出す彼女に、自分はリズムを刻んで応える。遅れず、かつ前に出ず。いつもそうするように、ベースを特に意識する。
彼女のすがすがしい音に寄り添う。支える。
「なに?」
彼女自身のような、おひさまが照らすみたいな元気な音色が心地よくて、合奏が楽しくて、なんだか嬉しくてにやにやしていたら、あとでしっかり見とがめられてしまった。
伴奏、うまいわけだ、か。
中学に入ってからサクソフォンを始めたっていう君のほうが、よっぽどすごいと思うけど。
そんなことを思いながら、「何でもない」と首を振ったら、
「なによー」
と彼女が笑顔を見せるから、それで自分は、ますますにやけてしまう。
(続く)