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電球とおにぎりが気づかせてくれた

トイレの電球が切れた三日前の夜、しぶしぶ雨のなかドラッグストアに行くと、売っていなかった。あれ?電球ってどこで買えばいいんだ…?インターネットでの買い物に慣れすぎて、どこに何が売っているのかすらわからなくなってる。落ち込んでいたら、コンビニに売っていた。便利なだけじゃなくて落ち込んだ気分にも24時間寄り添ってくれるコンビニはすごい。もし俺が小学校1年生だったら「将来は優しくて頼もしいコンビニになりたい」と言って親と先生を不安にさせてただろう。

売っていることがわかると満足して、電球じゃなくておにぎりを買った。トイレが暗くてどうしようもなく不便になったら買えばいいし、それよりも腹が減っていることのほうが緊急で大問題だ。変な時間にお腹が空いたらリンゴかバナナを食べる生活を何日かやってみたけど、ゴリラの気分になれる意外の効果を感じないからやめた。俺は炭水化物が好きだし、将来はエネルギーを与えてくれるおにぎりになりたい。

家に帰っておにぎりを眺めていると、嫌な予感がした。もしかして、いや、そんなはずない。

「あらびきソーセージのおにぎりに海苔が巻かれていない」


ひとくち食べると、嫌な予感は確信に変わった。食べるたびにずれるソーセージ、崩れる米との黄金比。つまり、以前まで巻かれていた海苔はソーセージと米を繋ぐ役割を果たしていたのだ。巻かれていた海苔は極細で、磯の風味を感じるほどじゃない。無くても気にならないし、コストを削減したい生産側の意図もわかる。だけど、前のほうがよかった。変わらないでいてほしかった。上京した好きな人が夏休みに帰省して、ひさしぶりに再会したら茶髪で標準語をしゃべるようになっていた時に感じたアノ気持ち。こんなことなら会わなきゃよかった。変化を成長と捉えられない自分勝手で幼い恋心にサヨナラ。

三日後、つまり今日、トイレの電球を買った。生まれてはじめてコンタクトレンズを入れて世界がパァッと明るくなったみたいに、どこに何があるのかハッキリと見える。少しも怖くない。自分のやるべきことが明確にわかる。それなのに、「明るくて落ち着かねぇ」と思った、思ってしまった。気がつくとトイレの電球を外していた。

いつだってそうだ。失くしてしまうと憂いて、どうにかして元に戻そうとする。"当たり前"を疑わずに、自分ひとりの考えを正解だと思いこんでしまう。明るいトイレを使える人を羨んで、しまいには攻撃したりする。でも実は自分にとってそれほど大事なことじゃなかったり、持っていなくても困らないことだったりするんだ。後になってから思い返すと、あの時なんで必死に執着していたんだろうと不思議になることすらある。

おにぎりだって。「海苔がなくなって食べづらくなったけど、マヨネーズが増えて美味しくなった」とポジティブな面を見たほうがよかった。美味いのは間違いないわけだし。余裕がない時は悪いことばかりに目が向いて、変化を受け入れらないことが多い。勝手に期待して勝手にガッカリしたのは自分なのに、棚上げしてしまう。正直、Twitterで「あらびきソーセージのおにぎりに海苔がなくなって食べづらくなった最悪」と書こうとした。手軽だから。でも、そんなことをして何になる。いいねをもらってどんな気分になる。やるべきことは企業の問い合わせページで「海苔がある方が食べやすいです」と伝えることだろう。「マヨネーズが増えて美味しくなったんで、前みたいに海苔を巻いてくれると食べやすくて満足度200%です」って書けばいいし、外したけど「電球が売ってて助かりました」だって伝えたい。しかるべきルートで、伝えたい人に届くように。必要なものが買えて言いたいことが書けるインターネットは便利だ。嫌なこと不満なこと納得できないこと理解できないこと、どこに書いたっていい。いいんだけど、何のため文章力だろう。誰かをちょっと笑わせたり背中をそっと押せるようなモノのために使いたい。きっとそのほうが気持ちいいから。



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