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ドアノブに手が届くようになったけど

横断歩道の信号がチカチカする。
『あ、急がな。』
時計を見た。少し遅れそう。急がないと。

すれ違う通行人からは灰色の雰囲気が出ていた。
みんな薄暗い、何かに疲れているような。

毎年クリスマスにだけ恋人と来るケーキ屋さんのガラスに映る自分。
なんだか老けた感じするな。
大人っぽくなってるだけかな。  


歩く。

目の前には手を繋いで歩く父親と子どもがいる。
おぼつかない足取りで歩く小さな子ども。
かわいいな。
パパと歩いていて楽しそう。なんかでも、転びそうだな。…おっと!気付けて!


ふと思った。

あんなに小さな身丈から見る映像ってどんなものだろう。どんなだっただろう。

きらきらした瞳で父親を見上げる子ども。

なんだかうらやましくなった。


あの頃見ていた映像って、ぶれていたけれど、虫眼鏡で拡大したような画角で鮮明だった。
少しずつ変化する何かをターゲットにしては息を止めてじいっと、見ていた。


花壇に咲く花のめしべ。

その下でぶつかり合う蟻。
キッチンの引き出しに残っていたキズ。
畳と畳の間に挟まったほこり。
歩道の模様。
転がる小石の形や凹み。



今見ている映像ってどんなだろう。


信号の色。時計の針。
スマホの連絡通知。
パソコンの画面。
少し疲れ気味な通行人の顔。
鏡に映った自分。

無機質で、色の無い映像。何かに追われているような、そんな感じがした。  


成長すればするほど、自分で身の回りのことをできるようになっていく。
生きていくために、こういう映像を見ながら生活するのは当たりまえだ。


けれど、やっぱり「成長」はさみしい。


いつからミクロな自分の世界だけで生きていけなくなったのだろう。
彩度が弱まっていったのは?
人の顔色を窺うようになったのは?
人から見た自分を気にするようになったのは?
なぜ?



成長するにあたって身長は伸び、触れることができるものは増えた。見える景色も大きく変わった。
あの頃知らなかったことも、今は知っている。

だけど、
小さな頃の映像や、当時できていた物の見方に関する記憶は薄らぐばかり。
消えていく。

まき戻して、繰り返し観るビデオテープみたいなものではないから。
でも私は、これからも思い出していたい。
あの映像たちを。  

そう思いまた、歩く。


雨の降った後、まだらなコンクリートの歩道。少しじめじめする。
葉や土のひんやりとしたにおいが風にのってやってくる。

到着。

ドアノブに手は届くようにはなったけど。
大人に挨拶できるようになったけど。
人の気持ちを考えられるようになったけれど。



やっぱり、あの頃の自分には敵わない。

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