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「他者評価は自己評価とイコールではない」という結論

今日の診察で色々と勉強になったのでメモがわりにまとめておく。

●自分の評価は他者からの評価ではないとわかれば立ち直れる

●人の言うことを妥当だと思い過ぎているのでは。⇒人の意見を飲み込みすぎ?

●人の意見に対して0か100かしかないように見える。人の意見と自分の意見をすり合わせて、例えるなら天秤にのせてバランスを取るという「配慮」は必要だが、私は天秤に自分の意見をのせていない。
自分が納得しないまま他者の意見で物事を進めているので、「そもそも自分で自分の人権を認めていない」から「人から人権を認めてもらっていない」ように思うのだろうと。

●まず、天秤なり土俵なりに自分をのせる訓練をすること。のせるものがなんなのか自分でわかっていないだろうから、それを意識するところから。

●のせられないのは私についている何らかのおもりがあるから。他者の評価=自己評価のこと?

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休職が二カ月延びた。正直ほっとしている。

他者評価である社会的にという目線で復帰しなくてはと焦り、自分の中のしんどい声を押し込めてしまっていたので、その反動がきて具合が悪くなっているのだろうと。
この感じを覚えて、復帰してもこういう状態になったらセーブすること、無理しないこと。
確かに、休職前も

世間(と思っているもの)
  →もう転職できない年齢・職歴。ここでやれなきゃ、
   このくらいやれなきゃ人としてダメ。皆我慢してる。
自分
  →無理。苦痛。悲しい。つらい。

というのの世間の声を優先して自分の声を無視したからパンクしたんだ。
うおー、謎がとけてくるみたいでちょっとワクワクする。

他者評価=自己評価になってるこのおもりをつけたまま坂道を登れないのではずしていかないといけない。

いつからこうなったかと考えると、他者評価で職のありなしが決まってしまう派遣してた頃からかなあ、やっぱり。自分の意見が必要ないと思って押し込めていた。天秤に意見をかけるなんてできなかった。

他人がどう思おうと自分を認めてあげないといけない。これは本当に本当に難しい。

宇多田ヒカルのShow me Love(Not a Dream)を最近よく聞いていたけど、これはまさにそんな歌だ。

私は弱い だけとそれは別に 恥ずかしいことじゃない

実際、どんなに深い愛も完璧じゃない
自分でしか自分にしてあげられない 自分を認めるcourage(勇気)

10年も前にこんな歌を歌ってた宇多田ヒカルの成熟度とは一体……。

あと二カ月もある。大丈夫。きっとよくなる。
一度にたくさんのことを考えられないけど、頭あまりよくないけど、ちょっとずつ進んでいるような気が、多分、する。

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