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自分がいなければいいなんて思うなよ。

日本は不思議な国だなと思う。黙っているほど支持が得られる。つまり、何もしないほど得をする。言い方を変えれば、「余計なことをするな」という国民性があるのかもしれないと勝手に思う。あくまで個人的な目線に過ぎないが。嫌われないよう、無難に過ごしているほうがよっぽど幸せになれるのではないかと思う。勉強だって下手にやり込むと疎外感が生まれるように、出る杭は打たれるという諺があるように。島国であることが関係しているような気もする。

本来、自分の意見を言えることは立派なことのはずなのだが、少し勇気を出しただけで「人と違うことしている」という謎の劣等感に苛まれる。空気が壊れることを極度に嫌う。動きたくても動けないような、何か見えない空気に縛られているような気にさせられる。今までは自分がおかしいんだと誤魔化してきたが、こういう風に世界が見えるのだから仕方ないと諦めるようになった。むしろ長所なんじゃないか。そういった開き直りで、どうにか今は前を見ることができている。

生きづらさを感じている人は無限にいるんじゃないか。一体全体、何がそうさせているのだろう。「常に誰かは誰かの目を気にしている」、そんな風に思う。「誰もが誰かの尻を追いかけている」ような気もする。長く続く天皇制が影響しているのだろうか。この感覚は一体何なんだろう。自分の育ちが悪いからとか、色んなことのせいにしていた。でも、隠し切れない疎外感のようなものが自分の中で蔓延し、心まで食い尽くそうとしている。

今までは「言わないほうがいいこと」があると制限してきた。たしかにそれはある。が、規制し過ぎていた。依然、他人に対して言えることは何もないなと思うけれど、自分の世界の見え方を書き留めることならできる。ここを我慢してしまうと、そもそもの生きている醍醐味を感じられなくなりそうだと思う。勇気を出すことを恐れずにいたい。

「ああなっちゃだめ」なんて人はいない。

はみ出すことを恐れると何もできなくなる。正直者は馬鹿を見る。そういう空気が醸成されていると思う。とりわけ10代までは親の庇護下にあることが多く、父と母もしくはどちらか片方が絶対的権力者として存在する場合も多い。俺の場合は散々だった。親が親の役割を全くと言っていいほど機能させておらず、何もかもを独学でやる必要があった。独学という言葉自体はかっこいいが、見方を変えれば、誰も教えてくれる人がいないから全部自分でやる必要があったということだ。「生き方」なんて到底わからず、日本語の勉強でさえインターネットを通して一人でやってきた。理解できない漢字と出会うたびに辞書を引き続けた。何千回辞書を引いたかわからない。

その間、つらかった。孤独で、希望もなく、誰かを期待することもできず、助けを呼ぶ力もなく。今だって一歩一歩だ。一個一個失敗してはその中でのちょっとした成功体験をものにするように訓練している。次は同じ過ちは繰り返さないぞ。しかしそう思うにはその前に挑戦して失敗する必要がある。その傷を癒やすのにも何ヶ月もかかる場合だってあった。もっと親に甘えられたら良かったのだが、もういい歳になってしまった。今更甘え方もわからないし、甘えようとすると余計にしんどくなる。甘え慣れしていない。

とにかくまずはやってみて自分にできそうなことを探している。永遠の発展途上だ。いわゆる毒親と呼べる存在だって、その子供と同じような系譜があるはず。俺と同じようにしょうがない経緯があり、親もそうなりたくてなった訳じゃないこともあるだろう。否定するのは簡単だ。まずは肯定できる部分を探さないことには物事を進展させる方法はない。

相手のイヤなところにツッコミを入れ続け、相手が自分の思い通りになったとして、自分のクローンが出来上がるだけだ。それの何が多様性と呼べるだろうか。「自分だってああなっていた可能性だってある」というのも些か傲慢な考え方だと思う。完全に見下しているし、「ああなっちゃだめ」なんてポリシーを持つこと自体が差別に近い何かを感じさせる。この世にああなっちゃだめなんて人なんていないでほしいと願う。

毒親は犯罪者。

便宜上、「毒親」という言葉を使わせてもらうが、毒親に育てられると散々なことを言われ放題になる。「普通」なんてものはないが、普通、そんなこと言われる?というくらいのことを平然と言われる。無論、傷つく。お前なんていなくていいと言われれば、誰だって傷つくだろう。毒親の庇護下でいるうちは逆らうことを想像するだけで身の危険を感じざるを得ず、安易に抵抗することはできない。「抵抗」とは信頼関係によって成り立っている。その日々が続いていくと、嫌でも自分の存在を疑うようになる。

普通、どうなのだろうか。自分なんていないほうが世のためだと思うことがデフォルトなのだろうか。そんなはずはないと信じているが、凄まじい境遇で育った話を聞くと、つい反射的に「それはあってはならないことだ」と思わざるを得ない。キツい言い方になる。毒親は人によっては犯罪者である。毒親なんてそもそもで生易しい言い方だ。人が人を殴れば、傷害罪だろう。子を殴る蹴るなんてこと日常茶飯事の家庭もある。なぜ捕まらずに許されているのか。脳みそに傷がつく子がいても保護されないのは社会構造なのだと言ってしまえばそれで終わりなのだろう。

すぐに壊れる国。

日本はマナーの国だと思う。規範に従うことが尊ばれる。個々の意思が尊重されるというより、集団の中にいるボスの頭脳が中心になる。誰かが誰かを嫌えば、みんながその人を嫌い始めるという構図がある。トップダウンの効率の良さも当然あるだろうが、親や先生や組織のトップの言うことが絶対なのではない。君主制によって生まれるものが、「空気を読む」という概念なのだろう。尊敬する人から学ぶことは大切だが、一切の疑いを捨ててしまうと、それは信者になる。宗教や神や死人を信じる以外で信者になると必ず裏切られる。生きている者は常に移り変わるからだ。

学校でどういう教育が行われているのか、どれだけ地域差があるのか、皆目見当もつかないが、学校を休もうとするだけで面倒や厄介事がありそうに見える。第一に「我々」とか「私たち」とか「俺ら」とか、そういう言葉を使う人が多い。その後に続く言葉が否定の類だと、お前と一緒にするな、と思う。どこまで自分を殺す気だよと思う。ネガティブに巻き込まれるこっちの身にもなれよと思う。お前の自己肯定感の低さに俺を巻き込むなよと思う。

地震が多い国だ。どんなに努力して歴史的建造物を作ろうと一発の震災で壊れる。だから、インスタントラーメン発祥の国なのだろうと思う。すぐにぶっ壊れる国。それが日本だ。すぐに壊れる前提で成立している国だ。立体より平面、映画よりアニメの国だ。はみ出れば、即、否認。殴り倒される。沈むときはみんな一緒だよと心中しようとする。すぐに腹を切ろうとする。日本生まれ日本育ちだが、異質な印象を持つ。それくらいヤクザな国だ。ヤクザの国のくせに彫物には批判的だ。誰が誰と戦っているのか見えてこない。

自分がいなければいいなんて思うなよ。

自分がいなければいいなんて思うなよ。お前が生きているということが多様性を膨らませるんだ。自己肯定感が低くなると、「自分はみんなから嫌われている」と思い込むようになり、全世界は敵になり、人間不信に陥り、鬱になり、最悪、自殺する。生きていればいつかいいことが起こるよなんて言わないし言えない。ただ、生きていなけりゃそれでお終いだ。そこが終着点になる。生きているから希望がある。生きることそれ自体が希望だよ。人生の時間がストップしているようでも、世界は動き回っている。動き回っているということは、自分もその列車に乗れるかもしれない。

生き抜くには個人としての感受性を守るしかない。人だってすぐに壊れる。刹那的。儚く美しいが、他人と合わせようとする脆くも崩れる。人と違うことに許可はいらない。誰の認可も必要ない。違って当たり前なのだ。君は今どう思っている。何を感じている。「売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンだよ」と甲本ヒロトが言っていて、本当に共感した。みんなが揃って売れているものを目指すと、みんな同じような形態になる。自分がイヤだと思うものを排除していくと、いつか自分も排除の対象になる。

自分のことを無価値だと思うほど悲しいことはない。認められて価値ある存在になるのではなく、認められなくても価値がある存在。それが人間だ。自分の命を守れるのは自分だけだ。とにかく自分に元気を出してほしくて、これを書いている。元からある気と書いて元気なら、やっぱり思い出さないといけない。元から神聖な存在であることを。望まれて生まれてきたことを。どんなに不格好でも、気持ち悪がられても、否定されても。自分のことを肯定するしかない。そうしてあげられるのは自分だけだ。愛がないなら探しに行こう。今宵、愛のかけらを。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。