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人生から試されている

ツイートのいいねの数や、誰にいいねされているかなんてことまで気にされるという事案が度々起こるのだが、そんなに他人からの評価が重要な指針になるのだろうか。いいねの数や誰にいいねされているかを基準に、その人のことを評価しなければいけないのだろうか。この人はウケてるぞだからすごいなんて今どき小学生でもやらないんじゃないか。一体、何を気にしているのだろう。

評価や賞レースなんて、あくまで大衆受けするかどうかくらいの基準でしかない。特に芸術なんて評価の外にあったほうがいい。例えばの話をしよう。個人的に好きなアーティストがいるのだが、その人はもうすでに亡くなっている。それがもし現代に「AI美空ひばり」ばりに復活したら、俺は個人的に「なんて最悪なことをしてくれたんだ、魂の冒涜だ」とさえ思うだろう。

死者は眠らせておいてくれと思う。俺の中に神聖な生き物として生きているんだ、売り物にしないでくれと思う。売れているものがよければカップラーメンでも信仰すればいいし、再生回数だけを稼ぎたかったらTikTokでもやればいい。自分が良いと思ったのなら良い、悪いと思ったのなら悪い。それくらいの判断基準は絶対に持っているべきだと思う。

のっけから鼻息を荒くしてしまったが、基本、自分が好きな人が売れるとむしろ遠くに行ってしまったとさえ思い、なんなら少し寂しくなるくらいだ。俺は別に、籠の中の鳥でもいいし、井の中の蛙でも構わない。あまりにノイズが多い社会にあって、自ら、率先して領域を守らないと、容易く死ぬ。芸能人の失言に対して、鬼の首を取ったようにツッコミを入れるなんてもってのほかだ。くだらない。目を覚ませよ。

人生から試されている

この頃、『夜と霧』のフランクルや『自由からの逃走』のフロムから多大な影響を受けているのだが、この、「人生から試されている」という感覚は事あるごとに思い出していきたい考え方だ。極限状態まで追い込まれたとき、人を救うのは、「愛してきた思い出」である。それは、人だけでなく物や活動に対しても当てはまる。

自らの人生を愛する覚悟はできているか。最近、幸せや不幸せなんてないと思うようになってきた。なんだか残酷な気がするのだ。そこに「不幸せな人(人生)」、「幸福な人(人生)」なんてあってほしくないのだ。あるとすれば、その瞬間の身構え(態度)だけで、自分自身が今、人生に対して、肯定的であれば幸福、否定的になれば不幸。そういう区分けでしかないと思っている。

「苦楽」という言葉があるが、苦しみと楽しさは表裏一体だと思う。大事なのは苦しみすぎないこと、楽しみすぎないこと。おかしな表現をしているかもしれないが、どちらかに偏りすぎると、その反動がやってくる。酒を飲みすぎれば、次の日は重たい二日酔いになるだろう。バランス感覚が大事だと思う。ほろよいくらいがちょうどよく、何事もほどほどにしないと簡単に綱渡りの状態から足を滑らす。

人生は綱渡りだ。どんなに仲の良いカップルでも、一度の喧嘩が尾を引き、やがて別れるという結末に至るかもしれない。よく、失言した人に対して、「本性があらわになった」と揶揄する現場を見かけるが、個人的に「本性」という言葉自体があまり好きではない。もし、新たに意味付けできるのであれば、「追い込まれたときの態度」こそを本性と言い表したいと思う。

人間生きていればいつバランスを崩してもおかしくない。暗く危ういルートを通らざるを得なくなったとき、どう行動するか。すべてを諦め、自暴自棄になり、人生を投げ出すか。それとも、歯を食いしばってでも「生きよう」とするか。その二択に迫られたとき、あなたの本性が現れる。愛するか、それとも突っぱねるか。「自分の価値観にそぐわない」と嫌うか。一定の光を見出そうと冷静さを取り戻すか。

常に、人生から問われている。愛するか、愛さないか。愛とは、すべてを受け入れることではないと思っている。時に指摘的にならざるを得ないときもある。愛するにも一苦労だ。そして、こそばゆい。しかし、苦の中にこそ楽があり、楽の中にこそ苦がある。愛さないことより、愛することのほうがずっと苦しく楽しいのである。恥ずかしくなるということは、愛そうとしたということである。

未来はもうすでに始まっている。そう聞くと、焦る。が、今、手持ちに何もなくても、このゆく先々に「待ってくれている存在」がいるであろうことはそれなりに確かなことなのではないだろうか。時に、世界で一番不幸で哀れな存在だと自分のことを嘆きそうになるが、改めて思い出したい。人生から試されているのだと。そして、自分の心に向かってこう投げかけたい。「ここはアウシュビッツか」と。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。