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明るく生きるためには意志の力を使う

睡眠がちゃんと取れたか、確認するには途中で目が覚めたときにフキゲンだったら不足、ゴキゲンだったら満足というふうにして分けている。noteをなるべく更新したいと思ってから、1ヶ月半をこえて、けっこう順調に続けられているが、フキゲンなときほど書きたいアイデアがわんさか湧いてくる。

でもあとになって感情に任せすぎたかもなと反省することがあり、繰り返していくにつれて、noteを書くときはゴキゲンなときにしようと思った。で、いまある程度、冷静だ。が、さっき買い物のレシートを見たら、そのショップの求人情報に、「年齢:不問(高卒以上)」と載っていて、この時点で中卒の私は漏れるんだなと絶望し、世と父を恨み直した。

だからちょっとだけ腹が立っている。「まあまあ」となだめられそうだが、自分の意志でそうしたわけでもないことで選択肢が限られている、その可能性のなさ(応募するかはともかく)を感じるだけで、「お前は不必要だから」と言われている、そんな気がしてしまう。そして周囲の現況を想像して、まるで自分だけ置いていかれているような、冷蔵庫の隅で腐るまで放置された野菜のような、フシアワセのニオイを嗅ぎ取ってしまう。

まあ、ある種の被害妄想のようなものだけど、そういう気持ちがあるということを書くために、俺はnoteを書いているゆえ、センシティブな部分を書かずにいるというのは方針とズレている。

哲学者のアランは「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のもの」と言っていて、いつかの記事でも同じ言葉を引用したけれど、まあきっとそうなのだろう。気分に任せていれば、その「波」に乗らざるをえず、すべてを引き受けなきゃならない。強く明るく生きるには、意志の力を発動させなきゃならない。悲観的になることはイケナイことではなく、その波の利用の仕方によっては価値を生み出すことも可能だろう。たとえば高卒以上という表記に苛立つことによって、それをnoteに書けるということ。

悲観”主義”と書くと、好きでそうしているように感じられるけれど、自分の場合、いやでも悲観的な態度から抜け出せないでいる。楽観的な人間に対しての憧れ(嫉妬)もある。何も考えないで羨ましいなと思うが、何かを考えることはべつに善行ではない。「考える」ということは己のコンプレックスに立ち向かうための手法のようなものだと思う。逆にいうとコンプレックスがあるから考えるともいえる。

パアッとマジックを使って、パアッと明るく生きることを取り戻せたらいいのになと思う。習慣の力というのは恐ろしい。キッチンのテーブルの天板裏側にパイプだけの収納スペースがあるのだけど、椅子に座って向かって左側面にティッシュケースをセットしてあったのを、引っ越しを機に手前で取れるようにしたら、無意識に何度も左側面に手をのばして空振りしてしまう。新しい住まいでは玄関土間の段差が高く、最初のうちは慣れずに踏み外したり、人の体は無意識に同じ動作を繰り返しているのだなと思った。

似たようなことが多発し、思考にも癖があるのだろう、簡単に楽観的にはなれないのだろう、そう想像をした。アランの言葉のように、意志の力を働かせ、「そうする(今回の場合、明るく生きる)」と決めなければ、あらぬ方へ流されていく。勝手な憶測、完全な偏見だが、脳内ホルモンの異常によるうつ病と、エゴによるうつ病、その二種類があると思う。エゴによるうつ病ならば、肝要なのは、意志の力を上手に働かせること、なのではないかと思う。

ネガティブであることよりポジティブであることのほうが優れているとは思わないが、ネガティブにはどこかでポジティブ要素をはさんでいかないと無限に続いていくと思っている。放置してそれで苦しむのは自身だから、人生のあらゆる局面において、意志を頼ることは挑戦といえる。いや、結果はどうあれ、それ自体(意志の発動)が、明るく生きる態度そのものである。そう考えたほうが、明るく生きられそうだ。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。