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みっつ通信

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慣れ親しんだ日々を、日々、書き換えようと模索しています。
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#人間関係

しぶとく人と付き合っていく

大前提として人間不信である。トイレで生まれ、義務教育を受けず、虐待を受け、10年以上家に閉じこもった。つらいのはみんな同じだよと言いたいけれど、弱気になると「どうせ不利なスタートなんだから人並みになれなくてもしょうがない」と卑屈になる。人を信じるのは難しい。疑う癖がついている。「この人は俺を無知として扱っているな」。そういうことを頻繁に思う。逆の立場で目の前にこのような生い立ちの人間がいたら、接し方に迷いが生じるのかもしれない。しかし、自分から好きになる人の共通点には、フラッ

まずは自分

部屋にミツバチがやってきた。調べたら、一説には神の使いらしい。良いことがあるかもしれない。この前はアパートの前にフクロウがやってきた。15年近く同じところに住んでいるがハチもフクロウも見たことがなかった。昨日は弟の30歳の誕生日。家族総出でお祝いし、楽しいひとときを過ごした。先日横浜へ移動し、疑似一人暮らしを開始したのだが、自分でも驚くレベルで早々に退屈してしまい、即座に帰りたくなってしまった。昨夜は母親に、「なんだ!やっぱり寂しいんじゃん!」と謎に嬉しそうに言われた。横浜か

会って数日後の余韻がその人との相性

Mさんに奢っていただく形で海鮮料理をご馳走になってきた。お通しでウニが出てきて、自分の普段の生活は道端で百円玉を拾って歓喜レベルなのに、どうしていま俺は個室でこれほどまでに美味い飯が食べられているのだろうかとぼんやりと思った。「なぜ俺はいまここにいる?」という謎の症状に脳が支配されつつ、楽しく雑談を交わして帰路についた。 会って数日後の余韻がその人との相性――友達もいて、終始和やかな空気だった。余韻。最近、余韻についてよく考える。会っている間はそつなくそれなりに楽しい会話が

人間関係は距離感が10割

家族だから恋人だからという理由で、本当に相手のものを漁ってもいいのだろうか。「信じる」という言葉は、そこに明確な根拠がないからこそ使われる。信じられないから、信じるために相手のことを探ったり、プライバシーを侵したりしても、また新たに疑いが生まれ、結局、負のループに陥る。「そっとしておくこと」ができる人は距離感のとり方を知っている人だ。 私は、一緒に住んでいる弟の敷地(個人スペース)には絶対に入らないし、弟も私のスペースには一歩たりとも近付かない。そして、そこにそうと決めたル

主役になろう。

主に生きることが虚しくならないようなことだけについて書いていきたいと思っている。基本的に自分の頭の中を開示しているだけで誰かに押し付けたいと思っていることはない。「普段から俺はこういう風に物事を見ている、感じている」ということだけを言葉にしていきたい。不幸の根源は「暇」にある気がしている。人間、暇を持て余すと余計なことを考えるようになり、考えなくてもいいことまで考えてしまうように思う。 最初、聞いたときはあまり信じられなかったのだが、普通の人はどうやら、「物事を考えようとし

君に入っては君に従え。

生きていると傷つくことが多い。「傷つく」というより、「失望する」、「理解されない悲しみ」とも言い換えられる。礼儀の欠如であったり、単純に失礼だと感じることがあったりと、相手にとっては自然な行為だとしても、そのノリが自分とは合わないで苦しみを抱えるということもしばしばある。このnoteに関しては極力、「他意」は込めていないつもりだ。文字通りに読んでほしいと思う。含みはない。遠回しに批判をしているつもりもない。ただ、自分の気持ちに素直になるという場にしたいと思っている。 純粋な