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まずは自分

部屋にミツバチがやってきた。調べたら、一説には神の使いらしい。良いことがあるかもしれない。この前はアパートの前にフクロウがやってきた。15年近く同じところに住んでいるがハチもフクロウも見たことがなかった。昨日は弟の30歳の誕生日。家族総出でお祝いし、楽しいひとときを過ごした。先日横浜へ移動し、疑似一人暮らしを開始したのだが、自分でも驚くレベルで早々に退屈してしまい、即座に帰りたくなってしまった。昨夜は母親に、「なんだ!やっぱり寂しいんじゃん!」と謎に嬉しそうに言われた。横浜から帰るよと伝えたときは「えー帰るの」とか言うくせに、まったく何を考えているのかわからない。横浜は五日間しか滞在しなかったが、その割には濃かった。noteに書くようなことでもないのかもしれないが、友達とバトったり(?)した。しかし思う。バトると書くとネガティブな印象を与えるけれど、実際、人類はこういう深いコミュニケーションを求めているのではないかと思った。私は家族とよくバチクリやっているので慣れている面もある。が、さすがに友達とバチクリやったことはなかった。その日は一人で家に帰ってから、感動めいた気持ちになり、終始、目がウルウルしていた。

千葉ではまだやることがあり、横浜へはいつ行くかはわからない。気が向いたら、ということになるだろう。さきほど、「すみやかに生長するものは早く枯れ、徐々に生長するものは永存する」という言葉を発見し、なんだか納得させられた。生き急ぎたくなるときもあるが、焦っても大事なものを見落としている気にもなる。私の場合、亀のように動かないとストレスが昇華し切れずにぶっ倒れてしまうので、弟の誕生日を言い訳にせっかく帰ってきたわけだし、数日間は体験を体に落とす時間にしたいと思った。別にnoteに書くような内容があるわけでもないが、書くために書きたい。言いたいだけのことなら沢山ある。これを読んでいる中途半端な諸君にもお伝えしたい。私と弟はいくらか母の彼氏に疎まれているような感覚がある。一度も会ったことはない。なので陰ながら、母を経由する形でマウントを取っておいた。「母よ、君の彼氏より俺の今月の月収は二倍だぜ」。なんと醜いマウントなのだろうかと自分でも自分を「お前……」と疑うが、最近はとことん醜くなってやろうじゃないかと決めているので良しとする。からの、母にいくらかお金を渡して気持ち良くなった。

巷では嫌われる勇気が一時期流行ったが、私は醜くなる勇気を実践しようと思う。たぶん、実際には醜くはならないのだろう。醜いな自分と思うくらいで諸々のバランスが取れるような気がする。「私は」などの主語を入れないと「で、どころで誰に向けて言っているの」と誰かを不愉快にさせそうで怖いのでちゃんと「私は~」とか書きたいのだが、そんなところに気を遣うより好きなように書いてしまったほうが何かと清々しい気がするのでどんどんいこう。友達と話しているときに「自分に集中する」という言葉を聞いていて思ったことがある。他にも、「自分と向き合う」という言葉もある。これらはたしかにそうしたほうが良い面もあるのだが、この辺に思考の罠があるなと思った。友達がどういう意味合いで言ったのかは本人にしかわからないので、あくまで私の今までの色々な経験値と合算しての意見になる。たとえば、友達がわいわいやっていて楽しいそうだなとか、お金を稼いでいてあの人が羨ましいなとか、いわゆる嫉妬めいた感情を持つことは人間なら一度はあるのだと思う。ここにちょっと矛盾があると思うので、どういうことか少し考えたい。

人に嫉妬し、たとえば「自分に集中!」となる。だから、仕事に励むとか。でも、それは自分にいくらか嘘をついているのではないか。こういう括り方をしてしまうが、世の中の人はみんな真面目過ぎるのではないだろうか。ちゃんと働いている人たちはめちゃくちゃ偉いと思うが、どこか空虚で忙しそうで、一歩間違えたら虚無に落ちてしまいそうな気配がある。偉そうなことを言う。「逸脱の可能性」をもう少し広げておいても良さそうな気がする。お金がないならばしょうがないのだが、毎日毎日働かなくてはいけない義務という存在自体は無い。義務があるならば人生を全うすることであったり、幸福になることの追求であったりと、そちらのほうが優先されてほしい。最近、知人が仕事を辞める決意をした。実家に帰って都会から離れると伝えてくれた。とてもいいなと思った。別に、都会に縛られる必要もないし、嫌な上司の顔色を窺いながら、やりがいを搾取される義務はない。大事なことなので繰り返す。義務を持つのであれば、自分が幸福になる義務だ。

自分に集中するのと同じように、「自分と向き合う」のも同じように罠がある。たしかにそういう静かな時間は大切なのは誰よりも分かっているつもりだ。散々、自分と向き合ってきた過去がある。が、本当の意味で(とか言っちゃうが)自分と向き合うというのは他人と向き合うということだと思う。それこそ感情的になってバチバチやってしまってもいい。一見、ネガティブに見えることが必ずしも本当にネガティブな事柄ではないと断言できる。いろんな言葉に手垢が付きすぎて、もはや"ある"言葉を使うだけでしかめっ面をされる可能性さえある。そうじゃない。新たな意味を与えていく。たとえば私は「葛藤」が好きだ。しかし、葛藤してるねと誰かに伝えたら、迷っているとか悩んでいるとかそういう意味に取られかねない。しかし私は嬉々として葛藤を賛美している。後で聞いたが、弟は私が友達とバチクリやったことを聞いて、「素晴らしいことだ」と言っていたそうだ。普通なんてないのだが普通だったら、「喧嘩してしまったの?」となるだろう。が、私はそうはならない。「喧嘩バンザイ!」だ。

そもそもで弟と何百回と喧嘩してきた過去があるので、喧嘩それ自体に負のイメージがない。一般的に言えば、「喧嘩したら今生の別れ」みたいなニュアンスを持たれるかもしれないが、私にとって喧嘩とは「仲を深めるための儀式」くらいのイメージしかない。とにかく喧嘩とは分かり合えないことを嘆き合う手段ではなく、どうしたら分かり合えるかを解き明かすための手段なのだ。目的が全然違う。別れと仲良くではあまりに方向が反対だ。自分にとって良い意味での発言も、一般的にはあえてネガティブなことを言っているように読まれてしまうのかもしれないと思っている。前回、「夢も希望もない皆様~」みたいな一文を書いたが、夢も希望も持たなくていいと思っている。もちろんこれは自分の考えであって誰かに押し付けたいわけではないのだが、希望を持ったらおしまいだ。そういう風に思う。希望は今この瞬間だ。一般的に希望とは未来を見ることだ。今の否定といったら言葉が強いけれど、無理して夢や希望を持たなくても、今を楽しむことはできる。

私事だが、過去を振り返ればトラウマばかりで、未来を見れば嘆くしかないような日々を送ってきたので、否応なしに今と友達になるしかなかった。深く考えてしまえば思考の罠にハマる。ドロドロの沼にハマる。人間関係もそうだ。言いたいことが言えず、家で一人になったときに「あいつのあそこが悪い!」なんて嘆いていても道は開けない。言いたいことがあったら直接本人に伝えなければ伝わるものも伝わらないままだ。自分と向き合いながら、徐々に負の感情を消化していく道もあるだろう。しかし、今の時代に足りないのは裸でぶつかっていくことだと思う。この前、「心が全裸だね」と言われた。それは言われて嬉しかった。もちろん全裸でぶつかることには恐怖がある。それでも、恐怖があるということは「やりたい」がその先にあるからだと思う。本当は仲良くなりたい。そのためには一度くらいぶつかるかもしれない。ぶつかるためのぶつかりではなく、仲良くなるためのぶつかり。それなら良くないだろうか。

ドロドロの状態では自分が不幸だ。この前、敬愛する坂爪さんと話したときに印象に残った会話がある。「向こうが楽しくてこっちが楽しくないより、向こうが楽しくなくてこっちが楽しいほうがよくない?」。もう少し丁寧な言葉遣いの会話だったような気がするが文章力が乏しく上手く表現できないのでこのくらいで勘弁してほしい。そうなのだよ。一番上はWIN・WIN。一番下はLOSE・LOSE。中間に二つある。こっちがWIN、向こうがLOSEか。向こうがWIN、こっちがLOSEか。「選べるなら思い切って前者じゃないか?」と思った。自分に集中するのは良いことだ。しかし、それが本当はやりたいがその先にあるのに向き合いたくないから、避けて自分の殻に閉じこもるというニュアンスでは勿体ない。思い切って思いを成就するためにぶつかってみる。その結果が破綻ならしょうがない。ぶつかったこと自体が輝く。ぶつかった後、清々しい気持ちになる。そうするとさっきまではドロドロだった相手が、今では一輪の花のように美しく見えてくる。そうしたら、相手を許せて、自分も清々しくなって、相手の幸せを祈ることができるようになる。

相手よりも自分を優先するのは気が引ける面もある。が、まずは自分なのだと思う。自分の状態を優先しないと相手を受け入れるスペースがなくなる。感情でドロドロになった心をまずは放出しないと、愛するものも愛せない。出すのには勇気がいるし、タイミングがバッチリ合わないと自分の思いを相手にぶつけるのは難しい。相手を打ち負かすためではなく、お互いがWIN・WINになることを目指してぶつかる。無理してそれをやる必要もないが、そうなってしまったときに起こった(怒った)出来事を受け入れる準備にはなる。生きていれば後悔もするし、間違いも犯すが、それは絶対悪なんかではない。悪影響という言葉もあるが、悪かどうかなんてその時々でコロコロ変わっていく。その時点では悪いように思えたことも後になってなれば、あの出来事によってこんなに生長できたと思える体験になり得る。逆に、良かったことが悪いほうへ転がることだってあるだろう。しかしながら、それを決めるのは全部自分自身だと思う。起きたことは全部良いのだ。そういう心構えで生きていくことができれば、これからも壁を越えていくこともできるだろう。私は過去に虐待を受けたが、それがなかったら、今の人間関係もなかったと思う。だとしたら、過去の自分に言えることは「うむ、ご苦労であった」である。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。