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しぶとく人と付き合っていく

大前提として人間不信である。トイレで生まれ、義務教育を受けず、虐待を受け、10年以上家に閉じこもった。つらいのはみんな同じだよと言いたいけれど、弱気になると「どうせ不利なスタートなんだから人並みになれなくてもしょうがない」と卑屈になる。人を信じるのは難しい。疑う癖がついている。「この人は俺を無知として扱っているな」。そういうことを頻繁に思う。逆の立場で目の前にこのような生い立ちの人間がいたら、接し方に迷いが生じるのかもしれない。しかし、自分から好きになる人の共通点には、フラットに接してくれること、が前提としてある。

でもどんな風に思われたとしても、人のせいにしないことだ。大抵、怒りに流されるままになったら、決まりの悪い結末になる。感情は本当の自分ではない。人間が人間である理由。それは理性があることだ。それは光を見る強さを持っているということだ。感情に振り回されると闇の中を生きることになる。人のせいにすれば、つらいのは自分自身だ。生い立ちを憂うのは自己否定だ。どんな環境にあっても、健気に生きることはできるはずだ。

「いろいろあった」と書くと忙しいアピールをしているようで回避したくなるのだが、いろいろあった。喜怒哀楽を舐め尽くした気分でいる。横浜滞在も明日で終わりになる。寂しいか。まったく寂しくない。たぶん生き切ったからだと思う。やることはやった。行けるところは行った。人生で初めて送別会を開いてもらったし、みんなとわいわい遊べて本当に楽しかった。どん底まで落ちた気分になったときもあった。でもすべて引っくるめて人生だ。

今までの自分は、「自分のことを理解してくれる人とだけ付き合っていけさえすればいい」というある種の開き直りを見せていた。だが感覚が変わった。それはわかってくれない人たちとの関係の断絶を意味するし、自分が傷つけた人たちを無視するということでもあると思った。つまり自分にとって都合のいい判断でしかない。わかってくれないからといって、それは相手が理解をしようとしなかったとか優しくなかったとかじゃない。単純に自分に非があることに自分が気付かなかっただけかもしれない。

そういう弱さからくる開き直りはダサいなと思った。もっとしつこくしぶとくコミュニケーションを取ることでわかり合える可能性だってあるのに、自分のだめさを受け入れてくれるだけの相手と付き合う。もっとちゃんと生きたいなら、向かう道は自分のだめさと向き合い、克服しようする意志じゃないかと思った。開き直りは、相手のことを考えているのじゃなく、自分のことしか考えていない証拠だ。相手に好意を寄せていると見せかけて、自分のことが好きなだけだ。

してもらわなかったことではなく、してもらったことに目を向けるだけで世界が変わる。してもらわなかったことを恨み続けても、その恨みという毒に飲まれるのは自分自身。相手を自分の恨みに付き合わせても、誰も幸せにならない。何が何でも許したほうが前に進める。悲しいことが起こると、すぐに闇の中に引きずり込まれ、目の前にあるはずの光を見失う。体調も悪くなりやすい。でもどうだろうか。生きているということ自体が愛の力によって成り立っていると思う。生きていること、それ自体が愛だ。常に立ち直る可能性が与えられている。損得勘定に飲まれると自分にとってマイナスだったかどうかばかりに目が行き、結果的に不平不満が多くなる。

一緒に生きていきたいと思える人たちがいるなら、それは光だし、やっていて楽しいこと、夢中になれることがあるなら、それも光だし。光は愛だし、生きることだし、その光の中ではとっくに人間不信を越えている。本能は自分を許さないかもしれない。でも、現に見てよと。光に支えられているじゃんか。きたじゃんか。だから恩返しができるとするなら、それは生き続けようとすること、諦めないで光を見ようとすること、人生を楽しもうとすることだよ。

どんな境遇にいようと、人間不信を乗り越えている瞬間はある。本能的な劣等感によって自分なんかいないほうがいいと思ってしまう瞬間もある。でもどんな人間も知っていることと知らないことがある。劣っているとか優れているとかじゃない。これからますます知っていくことができる。頭の良さは物知りであるということではない。人の気持ちを知っていこうとすることを諦めないことだ。問題なのは無知であることではない。無知の知を知らないことだ。生まれてきた場所に不利も有利もない。むしろ不利な状況に見える場所からのほうが知るという楽しみがたくさん残されている。それを先天的な理由のせいにして諦める理由は今のところ自分にはない。

八景島にて
生田緑地にて
みなとみらいにて

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。