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関係が深くなる怖さ


ぼくは仕事においてもプライベートにおいても、
「浅い関係」を築くのは得意な方だと思う。


ただしそれは、挨拶を交わし、
笑顔で他愛ないやり取りをして、
なんとなく「害のない」人物だと
思わせる程度の関係性である。

これは「表面的」に初期抵抗を軽くする
という意味もあって、
仕事では意図的にそういうキャラで接している。

ぼくの職場は小学校メインであるため、
子どもを意識した「第一印象」を
悪くしない努力は怠りたくない。

このことは、幼い子どもほど
「若いから」「優しそうだから」
「笑顔がいいから」「清潔感があるから」
という、人間性とは無関係の理由で
好き嫌いを判断するという
「残酷な事実」を知っているからである。



問題はここからである。ぼくの場合、
どんな相手であっても、関係が深くなってきたり、
関わる歴が長くなってくると、必ず相手の中に
「嫌な面」が見えるようになる。

<なにを当たり前のことを。お前は臨床心理士の
くせに、まさかそんなことも知らなかったのか?>

という声が聞こえてくるが、
そこは心配無用である。
「ぼくの場合」という限定的な言い方をしたのは、
ぼくはそのことに気付いている
という意味である。

臨床心理士として、
最低限の内省はしていると言えるだろうか。


プライベートの場合は、仕事と違って「枠」が
ないから、自分でその「枠」を意識的に
設けるようになった。

どういうことかと言うと、
ある程度仲良くなってきて
「相手の中に嫌な面」
が見えそうな予感がしたら、
距離を取るようになったということだ。


それ以上、関係が深くなるのが怖いのである。
相手がどうこうというよりも、
自分の中に棲む「嫌なもの」が顔を出すのが怖い。



通常、関係性が築けてくると不信感が減るため、
関係性は安定しやすいものだが、
ぼくの場合はそうではない。だから
「相手の中に嫌なものが見える」という言い方は
適切ではないかもしれない。

「関係が深くなってくると自分の中に潜ませていた嫌な面が、相手との関わりの中で
這い上がってくる」という方が感覚的に近い。


おそらく、他人と関係が深くなるということは、
その他人が「自分の心身の一部になる」
ということなのだろう。

瀬戸内寂聴の「自分を嫌いな人間を、一体だれが
好きになってくれるでしょうか」
という言葉を覚えているが、
あれは、対人関係的に言えば
「相手は自分を映す鏡だから、自分を嫌いだと
相手の中にも嫌いな自分を見出してしまうように
なる」ということの意味も含まれているだろう。

だからぼくは、「自分の一部」になる人物を
求めている一方で、
恐怖心の方が勝ってしまうから、
意識的にそれを避けるようにしている。

そのためか、ぼくはもう、
結婚はおろか、彼女も作らない派になっている。
もう若くはないため、昔のように
「泥沼」状態にはならないかもしれないが、
異性のことを考えると
必ず心身に「不快感」や「不安感」
を覚える。

また、それよりももっと嫌なのは、
「自分の血を分けた子どもを作る」ことだ。
ぼくはずいぶん前から「他人の子の方が可愛がれる気がする」と口にするようになったが、
それは上に述べた理由から来ている。

表面的には優しいと思われる自分がいる一方で、
掘れば実は根深い攻撃性を備えていることを、
ぼく自身もはや疑わない。

だからせめて、カウンセラーという
「仮面」と「枠」に守られている職場では、
ぼくは表面上の自分を保っていきたいのである。

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