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英国のコレラ騒動

 前の記事では、幕末は安政5年(1858年)に日本にまでコレラのパンデミックが及び庶民が不安から神仏にすがった様子や、流言飛語が噂された様子について素描した。そもそもコレラはインドの風土病だったものが英国による植民地支配に伴ってパンデミックとなったものであった。

 見市雅敏による「コレラの世界史」では、主に1830年頃から始まったコロナ・パンデミーをめぐって英国で引き起こされた騒動について調査研究した結果が述べられている。本稿では、その中で特に流言飛語に焦点を当てて取り上げる。

 1830年はフランスでは七月革命が勃発した結果、反動的なブルボン家が逐われオルレアン家が推戴されて立憲君主制が布かれた。ナポレオン後のヨーロッパ世界の秩序であったウイーン体制に綻びが生じたことで各国政権や国際関係が流動化する兆しが垣間見えた時代であった。

 言わば世情に不安が見え隠れするような時に英国からコレラのパンデミックが始まったのだった。で、オルポートとポストマンの定式が言う、流言が流布する量は、状況の曖昧さと問題の重要さの積に比例することは当時の英国にも当てはまり、噂や流言が飛び交ったのだった。

 ただし、英国ではすでに産業革命が経験され、一定の科学技術の普及があったし、一神教であるキリスト教の影響もあって、日本のように狐がついたなどという迷信にもとづく流言や、神仏にすがった除災儀礼は行われなかった点は大いに異なる。

 とは言え、英国でもオルポートとポストマンが指摘したように、流言は平準化強調化同化という3つの心理プロセスを経て変化していく点は同様かと思われる。日本のように狐などの迷信がなかった分、具体的に人間の悪意によって引き起こされたという流言が広まった。

 人がたくさん死ぬのは誰かが毒を撒いているせいだという流言から、井戸を覗き込んでいた不審な男、コレラ予防のために持ち歩いていた樟脳を毒薬と誤解されたユダヤ人などがリンチに遭って落命した。よそ者や異質に見える者が疑われたのである。

 しかし、しばらくして人がたくさん死んでいるらしいという曖昧な状況から、具体的にコレラに罹患して死亡していく人を実際に見聞するようになると、これは新たな疫病のせいであって、誰かが毒を撒いているせいではないことが理解され、毒殺説は霧散しリンチもなくなったのだという。

 ところが、1832年の「貧民の擁護者」なる書誌に掲載された「コレラ!」という記事には、マンチェスターとその周辺の労働者階級の間でコレラは作り話で、実は貧民を虐殺する計画が進行中という流言が囁かれていたことが記されているそうだ。

 この流言の背景には、コロナの感染経路がはっきりしなかったことや、19世紀から開始された政府による人口調査への反発があったとされるが、先の流言に関する3つの心理プロセスを経て、疑心暗鬼に囚われた人心は陰謀論に陥ったものらしい。

 かいつまむと、政府が人口調査を行いターゲットを絞った上で医師が貧民に毒を盛っているのだとか、コレラ騒ぎは嘘でコレラ病院に収容された患者は殺され、医師は解剖材料を確保し、金持ちは貧民が減ると食い扶持のための税金が軽減されて喜ぶという具合である。

 およそ疫病のような自然現象を説明するのに自然そのものに動機があると言ってもナンセンスであり近代人・現代人はそんな話を信じまい。だが、疫病が嘘だとか「ただのカゼ」だとか、疫病を利用して自分の利益を追求する人間がいるとかの流言は案外受け入れられやすいものらしい。

 その背後には一般的には不安な世情があるのだろうが、加えてエスタブリッシュメントに対する疑心や妬みがあると、目的や動機の整合性がとれているように見えるストーリーは裏づけがないままに受容され拡散されるようだ。わかり易い分、陰謀論的な物語には注意が必要である。

《参考図書》
「コレラの世界史」見市雅敏(1994年、晶文社)
《関連する拙文》
「幕末のコロナ・パンデミー」https://note.com/mshr3033/n/n233464f0f277


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