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血のつながり① (創作小説)

リストカットとブラック企業をテーマにして書いた話です。
血が流れる場面が多数あるので、苦手な方はご注意ください。

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深夜の十二時近くにパンプスの音を鳴らしながら、駅に向かって歩いている。いつも何かに追われているような気がして、気持ちばかりが焦って、気が付くと歩くスピードが速くなっている。 

どんなに足を速く動かしても、速くすればするほど、何かに遅れているような気がして、もっと速く足を動かさなければならない気持ちになる。
そうやってさらにスピードは上がっていくけれど、ついに体が気持ちに追いつかなくなって、私の足はもつれて、立て直すこともできないまま、コンクリートの上に膝をつく。

ネットで二十足でまとめ買いをした一足百円のストッキングが無残に破ける。街灯の下で破けたストッキングを眺めていると急に叫びだしたいような、笑い出したいような気持ちになった。

このストッキングをもっとちぎって、めちゃくちゃにしてやりたい。そんな子どもじみた衝動が湧いてきて手を動かそうとしたところ、視界に誰かの革靴が入った。

コンクリートに膝をついたまま視線を上げると、こんな時間だというのにこの街にはまだ人は残っていて、みんな駅に向かって歩いているところだった。
その歩き方はひどく似ていて、みんな目まぐるしいスピードで足を前に出す。私はその人達と一緒になって、駅に向かって歩いていくことが嫌だと思った。
私は立ち上がると駅とは反対の方向に、お酒も飲んでいないのにふらふらとした足取りで歩いて行った。


ゆっくりゆっくり駅から遠ざかりながら、こんなことをしていいのだろうかと不安になってきた。

明日も七時までに出社しないといけない。明日は大事な商談がある。商談の資料作成がまだ終わっていない。このあと帰ったらやらなきゃいけないのに。

この商談を失注したら、上司に二時間は怒鳴られる。
とっとと成果出せよ、役立たず、仕事しているフリだけは得意だよね、お前が取れなかった分誰が取ってくると思ってんの、こんな仕事もできないなんて頭おかしいんじゃない、医者に診てもらったら、次失敗したらただで済むと思うなよ――。
上司に言われたことのある言葉が、上司の声で頭の中に蘇ってきて、とっさに耳を塞いだ。
けれど、耳を塞いだら頭の中で響く上司の声が余計に大きくなった。

やっぱり一分一秒でも早く帰って資料を作らなくちゃ。体の方向を変えて駅に向かって歩き出す。再びパンプスをコツコツ鳴らして……。


歩こうとしたけれど体は全く動いていなかった。膝の力が抜けて、その場に座りこんでしまう。破れたストッキングが目の前にあって、気が付いたら手がストッキングを引きちぎっていた。

安物だからかストッキングはどんどん破れて、ただの布切れになってしまった。ただの布切れになってしまったストッキングを私は執拗に引きちぎる。細かく、さらに細かく。まだ足りない。もっともっと粉々にして……。

小さい布を引きちぎってばかりで、だんだんと指が痺れてきた。
でも、ストッキングをちぎるのを止めてしまうと、その瞬間に考えたくないことが頭の中に思い浮かんでしまうから、手を止めるわけにはいかない。
手を止めないためにはどうしたらいいのだろう。
そうだ新しいストッキングだ。新しいストッキングをコンビニで買ってきて、またそれを一から粉々にしていけばいい。

私は辺りを見回して、コンビニを見つけようとした。

そのとき、街灯の下にうずくまっている人の姿が目に入った。

そこはブランコとベンチがあるだけの小さな公園で、街灯も一つしかないから、他の場所と比べて一段と暗かった。
街灯の下はベンチもなく、その人物は砂の上に座っていた。ホームレスかと思ったが、よく見ると、違った。

何となく気になって、私はその人影のもとに近づいていった。


街灯の白い光のもとで、白くて細い腕が浮かびあがった。

すぐ近くにはカッターの刃が鈍く光っていた。
刃が吸い込まれるように白い肌の中に沈み込み、刃が肌の上をすべる。
まるで職人が作品を作っているようにカッターを握る手は滑らかに動いた。

数秒後、刃が通った部分から赤い血がゆっくりと出てきて、肘から地面へと流れていく。

腕を切った人物は腕を掲げて、自分の腕を見た。流れていく血を恍惚とした表情で眺めている。その様子は会心の出来の作品を眺める芸術家のようだった。

私は立ち上がって、その人物へと近づいた。
蜜を塗られた木に集まる虫のように、足が自然と動く。
近づけば近づくほど血の赤はくっきりはっきりしてきて、夜の闇の中に鮮やかに浮かび上がった。興奮しているのか心臓の鼓動が速くなって、呼吸も大きくなっていく。

気が付けば腕がすぐ近くにあった。
手を伸ばせばすぐにでも届くほどの距離。触れてみたいと思ったけれど、触れるのがためらわれた。そもそも触れるべきものじゃない気がしてきて、そのまま見つめていた。

「気に入った?」

声をかけられて、驚いた。
普通に考えれば、話しかけられて当たり前の状況だったのになぜか驚いてしまった。

私は腕の持ち主の存在を忘れてしまうほど、腕に気を取られていた。一瞬だけ、この世界には私と腕しか存在しなくなった。

「すごくきれい」
私の声は吐息まじりだった。

「そっか」
応えた声はハスキーボイスで、女性にしては低く、男性にしては高かった。

視線を腕からその持ち主の顔に移すと、鋭い目と出会った。

睨みつけられているように感じたけれど、どうもそうではないらしい。目の形が少し吊り気味で、そのような印象を与えるようだった。

顔の肌は腕と同じくらい白かった。
唇の端はわずかに持ち上がっていて、私に対して敵意を感じていたりするわけでもなさそうだった。
顔を見ても男性か女性か判別がつかなかったが、年齢は私より七歳ぐらい若い、高校生なんじゃないかと思った。

「こんな時間にこんなところで何してるの」
 私が尋ねると、急に不貞腐れた顔になった。
「おんなじこと聞くんだね。残念」

今日初めて出会ったこの子に失望されてしまうことが、なぜか耐えられない出来事のように思えた。
呼吸が苦しい。一気に思考が現実に戻ってしまいそうで、私は現実のことなんか少しも考えたくないから、この子の誤解を解かなくてはならないと思った。
なんて言えば、私を見下すようなその視線を止めてくれるだろう。

つまらない大人。かわいそうな大人。お願いだからそんな顔して私のことを見ないで——

「ごめん、ごめん」
私の動揺に気が付いたのか、すぐに態度が柔らかくなった。その態度にほっとした。

高校生に気遣われる社会人。なんて情けないんだと思ったけれど、その情けなさが自分にはよく似合っていると思った。

「だって、お姉さんさっきストッキング、びりびりに破ってたじゃん。めちゃくちゃ気持ちよさそうで、僕もやりたかったもん。そんな人に注意されるなんて思ってもみなかったからつい」

見られていた。
みっともない姿を。

あの時は一心不乱にストッキングを破って、その衝動を止められなかった。

恥ずかしい思いに襲われながら、その姿を肯定的に受け止めてくれる人がいることに安心感を覚えた。

目が合うと高校生は微笑んだ。表情は柔らかくて、そんな表情を向けられるのは本当に久しぶりのことだった。

次の瞬間には私の目からは涙が溢れ出して、激しく泣いていた。
小さいころから私は涙をコントロールするのが苦手だった。

一度泣きはじめたらスイッチが入ってしまって、涙を止めようとすればするほど涙があふれ出てくる。
こんなことで泣いてしまう自分が悔しくて、涙さえも止められない自分が情けなくて、余計に泣いてしまう。

私は人前で泣くことが嫌いだった。
自分の弱みを人に曝け出しているようで、どんなに辛いことがあっても上司の前では絶対に泣かないと決めていた。

でも、本当はずっと求めていたのかもしれない。この人の前なら泣いてもいいって思えるような相手を。

しゃくり上げる私を高校生は抱きしめた。
腕の中は温かくて柔らかくて、もうこれ以上は出ないだろうと思っていたのに、涙がさらに溢れてきた。背中を撫でられていると、気分は落ち着いてきて、実家にいる母を思い出した。

部屋で一人で泣いていると、母はいつの間にか入ってきて、私を抱きしめてくれた。
反抗期に入る前、小学生の頃のことだけど、そのことが急に思い出されて、母に会いたくなった。


一体どのくらい時間が経ったのだろうか。

涙は止まって、呼吸も落ち着いてきた。私が泣いている間、高校生は私のことをずっと抱きしめてくれていた。

「もう、大丈夫」
耳元で声がした。その声が落ち着いた低い声だったので私の返事は子どもっぽくなる。
「うん」
答えてから自分は高校生相手に何をしているんだと思った。

「そういえば、あなたは男性? 女性?」
高校生から身体を離しながら、尋ねた。
「どっちだと思う?」
男性か女性か区別のつかないハスキーボイスで高校生は答えた。

「僕って言ってたから、男性?」
私がしばらく悩んだ末に、やっと出した答えを高校生は
「教えない」
と言って、片付けてしまった。

「ルカ」
不服そうにしている私に高校生は言った。

「名前はルカだから」
唐突に名前を伝えられて、ぽかんとしている私にルカは続けた。
「それなら教えてもいい」

名前を教えてもらっても、やっぱり男の子なのか女の子なのか分からないままだった。

ただ、ルカという名前がこの子にはすごく馴染んでいて、私は心の中で呼びたくなって何度か呼んでしまった。
ルカ、ルカ、ルカ――
名前を心の中でつぶやくと、なんだか恋する高校生みたいで、恥ずかしくなった。

スマホを出して時間を確認すると、いつの間にか二時になっていた。

「ルカはまだここにいるの」
心の中で何度かつぶやいたせいか、名前を呼び捨てで呼んでしまった。
呼び捨てにしたことをルカは少しも気にかける様子はなく、むしろ呼び捨てで呼んだ方が自然な感じがして、私はルカと呼ぶことに決めた。

「もうちょっといるかな」
「そっか。私は帰るね」

立ち上がるとルカが片手をあげて軽く手を振ってくれた。
出血した血はすっかり乾いて、茶色く変色していた。
切ったばかりの息を呑むような美しさはすっかり失われてしまっていて、残っているのは痛々しい自傷の痕だった。

私はこれ以上その傷を見つめていたくなくて、ルカに背を向けると駅に向かって歩きだした。

タクシーは捕まるだろうか。そんなことを考えながら、ヒールを鳴らして、私は駅に向かって歩いていった。


血のつながり② へ続く
本作品にはリストカットの描写がありますが、決してリストカットを賛美しているわけではありません。

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