日直

 今日から日直かぁ……。

 晴美はため息をついた。

 プリントを職員室まで取りに行って、それをみんなに配ったり、授業の号令をかけたり、黒板を消したり、日誌を書いたり。日直の仕事はかなり大変だった。

 特に面倒だったのが、黒板を消すことだった。休み時間がくるたびに、次の授業に備えて黒板をきれいにしておかなくてはならない。もし消し忘れていたら、日直は誰だ、と授業中に先生に怒られることもある。叱られながら急いで黒板を消すときの恥ずかしさといったら、二度と経験したくないものだった。

「晴美、次の授業実験だよ。早めに準備室行ったほうがいいんじゃない?」

 そう言ったクラスメイトはすでに教科書を持っていた。

「ちょっと待って。すぐ準備するから」

 黒板消しに伸ばしかけた手を引っ込め、授業の準備をする。黒板には英語の板書が残っていたけれど、理科の授業が終わってから消せばいいだろう。

「お待たせ」

 クラスメイトと共に晴美は準備室に向かった。

 やばい。次の授業まであと三分しかない。

 晴美は廊下を走っていた。

 晴美の班は実験がなかなか上手くいかず、時間がかかってしまった。片づけとプリント提出が終わって、時計を確認すると授業が終わってからすでに七分が経過していた。

 準備室を飛び出し、廊下を走る。ちょうど向こう側から先生がやってきて、怒られないよう早歩きに切り替える。

「授業、遅れるなよ」

 すれ違うとき、先生が声をかけてきた。

 授業に遅れないだけなら余裕なのだ。けれど、ここに黒板を消すことが加わると、到底間に合わない。しかも、次の授業の鍋島先生だった。厳しいことで有名な鍋島先生には、日直のとき黒板を消し忘れてひどく怒られたことがある。

 息を切らしながら教室へとたどり着くと、急いで国語の教科書とノートを準備した。

 それから時計を確認すると、授業まであと一分しかなかった。

 これだとぜったい間に合わない。叱られるの決定だと諦めながらも黒板を消そうとすると、なんとすでに黒板の四分の三ほどがきれいになっていた。

 黒板を消しているのは坂本くんだった。

 日直は出席番号順で男女の組み合わせが決まるのだが、男女の人数が同じでないので、毎回相手が変わる。今まで晴美とペアになった男子は仕事をほったらかすような人ばかりだったので、日直が二人いるということを晴美はすっかり忘れていたのだ。

 坂本くんの長い腕は晴美がいつも苦労する黒板の一番上まで楽々届いた。黒板消しをすぅーとスライドさせると、先生の筆圧の濃いアルファベットがみるみるうちに消えていった。その魔法のような手つきに目を奪われているうちに、黒板はすっかりきれいになっていて、ちょうど鍋島先生が教室に入ってくるところだった。

 黒板がいつもよりきれいなせいか、授業中、鍋島先生は少し機嫌がいいようだった。

 坂本くんが黒板を消してくれることになり、晴美は放課後にまとめて書いていた日誌を授業の間の休み時間に書けるようになった。

 眠気のせいでなにをやったか覚えていない英語の授業の感想を必死に絞り出す。なにをやっていたのか思い出そうとしていると、ふと板書が残ったままの黒板が目に入った。

 黒板消すの忘れてない?

 次の授業まであまり時間は残されていなかった。

 窓際の席を確認してみると、坂本くんは教科書を開きながらノートになにかを書いているところだった。それが授業の予習なのか、それとも先週出された宿題なのかはここからだと判断できない。

 坂本くんの手が止まり、ノートが閉じられる。すっと席を立つと、坂本くんは黒板に向かった。

 坂本くんが黒板消しをスライドさせると、文字が黒板消しに吸い寄せられるように消えていった。晴美が三回力を入れてスライドさせても跡が残ってしまうような濃い文字も、一瞬にして消えてしまった。坂本くんの黒板を消す様子はとても気持ちいいものだった。

 坂本くんが黒板を消し終わるのと同時に授業開始のチャイムが鳴った。坂本くんは手のひらについたチョークの粉をぱんぱんとはたきながら、自分の席に戻ると再びノートと教科書を開いてなにかを書き始める。

 坂本くんの様子を眺めているうちに、休み時間が終わってしまった。

 あ、さっきの授業の感想書いてない。

 机の上に感想欄が空白のままになっている日誌が開かれていた。

 この授業が終わったらまとめて書けばいいやと、晴美は日誌を閉じた。

 相手の男子次第で、これほどまで日直の仕事が楽になるとは。

 いつもは過ぎるのが遅い日直の一週間が、あっという間に過ぎて、もう金曜日になっていた。

 金曜日になると、いつもなら日直という役目から解放される嬉しさでいっぱいになるのに今回はそうでもなかった。

 むしろ、終わってしまうのが残念なぐらいだった。坂本くんが黒板を消すところを、次の学期まで見られないのは少し寂しい。

「坂本くんが黒板消すところ、ずっと見ていたいな」

 思っていたことがつい口から出てしまった。

 放課後の教室には二人しか残っておらず、晴美は日誌の今日の感想の欄を、坂本くんは黒板を消しているところだった。

「なにそれ?」

 黒板に向かっていた坂本くんの身体が回転して、晴美へと向けられた。

「ううん、なんでもない」

「終わったら、日誌渡しに行こうか」

「うん」

 ただ担任の先生に渡すだけなのだから、職員室へはどちらかが行けばそれで済むはずだった。けれど、二人はわざわざ一緒に日誌を担任へ届けに行った。

 日誌を先生に手渡すと、流れで二人は一緒に帰ることになった。

 日直が終わってからも、ときどき二人は一緒に帰るようになった。

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