SNS鍵垢と研究者倫理(その2)

私は今年3月20日に、本連載の初回記事「SNS鍵垢と研究者倫理」(以下、「初回記事」と略す)を公表した。
その後、数は多くないけれどいくつか無視できない反応(質問や誤解)があったので、続篇として本記事「SNS鍵垢と研究者倫理(その2)」を執筆公表することにした。

なお、本記事の公表と同時に、初回記事を改題して題目末尾に「(その1)」を追加した。

鍵垢とブロック

私は初回記事で、

正々堂々と議論すべき研究者が他の研究者を陰で批判し、反論させないということは悪質だ

鍵垢で何をTW/RTしているのか確認できなければ、〔日本学術会議「科学者の行動規範――改訂版――」にある…引用者註〕「誠実な態度で意見を交える」「相互の評価に積極的に参加する」もクソもない

と主張した。
これについて、「ではブロックの是非はどうなのか」という声があった。

研究者の垢が他の研究者の垢をブロックすることの是非は、場合によるだろう。
いくつかに場合分けして検討したい。
以下、研究者Aと研究者Bがそれぞれヒで実名公開垢を利用していると仮定する

第1に、A垢がB垢をブロックした(つまりB垢からはA垢のTWを閲覧できない状況にした)後、A垢が「Bはゴミクズだ」などと誹謗中傷したとする。
この場合は明らかに、相手を反論困難にさせて誹謗中傷したAに非があり、卑怯で不誠実だと私は考える。

ただし後述するように、この場合、BからAへの反論は困難なだけで
不可能でない。

第2に、A垢がB垢をブロックせずに「Bはゴミクズだ」などと(ある意味堂々と)誹謗中傷し、誹謗中傷されたB垢がA垢をブロックしたとする。
A垢からTWを閲覧されない状況にしたB垢は、その後AについてTWすべきでないかと言うと、私はそうは考えない。
B垢が「私をゴミクズ呼ばわりしたAは不当だ」という批判を(A垢をブロックした状況のまま)TWすることは、原則として許容されるべきだろう。

もっともこれは、どちらが先にブロックしたかという前後関係だけでなく、頻度や程度にもよる
今述べた第2の事例で、A垢をブロックした後のB垢が毎日延々とA批判をTWしたら、それはもしかしたら過剰かも知れない。
また、Bが批判の域を越えて「ゴミクズなのはAの方だ」などと誹謗中傷をTWしたら、Bに全く非がないと言い難くなる。

以上が、研究者の垢が他の研究者の垢をブロックすることの是非についての私の考えだ。
かなりありきたりで、退屈だったのでないだろうか。
ただし強調しておきたいのは、ブロックの問題はそれなりに大きいものの鍵垢の問題に比べれば遥かに小さい、ということだ。

前述した第1の事例だと、A垢による「Bはゴミクズだ」などという誹謗中傷TWはB垢から閲覧できないだけで、全世界に公開されている。
なので、第三者はBに「もしかしたら気付いてないかも知れないけれど、Aがヒであなたのことを誹謗中傷していますよ」と知らせることが容易だ。
それを知ったBは、ブロックされているB垢からログアウトしてA垢を閲覧し、誹謗中傷の有無などを確認することができる。
魚拓取得などで動かぬ証拠を押さえることも容易だ。

厳密に言えば、Bは事実確認のためにログアウトする必要もない。
常用しているウェブブラウザ(例えばGoogle Chrome)でログインしたまま、
いつもは利用していない別のウェブブラウザ(例えばMicrosoft Edge)で
事実確認すればよい。
そうすれば、A垢によるB垢ブロックは障碍でなくなる。

もしBを誹謗中傷するA垢が施錠されていて、しかもBにフォローさせていなかったら、話は全く違ってくる。
まず、ヒ利用者は「鍵垢をフォローする者は、(たとえどんなに悪質なものであったとしても)閲覧した鍵TWを絶対に漏洩させてはならない」という謎の信念に囚われていることが少なくない。
なので、Bに「Aが鍵垢であなたのことを誹謗中傷していますよ」と知らせる第三者が現われにくくなる。

そして何より、「魚拓取得などで動かぬ証拠を押さえる」ということが不可能になる
スクショは加工されている危険があるので、証拠能力を過信すべきでない。
動かぬ証拠を押さえ得ないままBが「Aは鍵垢で私を誹謗中傷している」などと告発しようものなら、Aから「臆測による主張で名誉が毀損された」として反論や提訴をされかねない。

なので、鍵垢とブロックは異なる次元の問題として考えるべきだろう。

鍵TWと居酒屋談義

私は初回記事で、

学術論争は対等かつ公開されたものでなければならないため、SNSの非公開アカウントで「自分がどう言われているのかを知る権利」や「それに反論する権利」を奪って非対称に他の研究者(の研究)を批判することは悪質であり、研究者としてあってはならない

と主張した。
「SNSの非公開アカウントで」と明記してあるのに、これを「森は居酒屋談義のような、批判対象者に届かない批判はすべて悪質だと主張している」と誤解している人がいた。
この問題についての補足説明は長くならざるを得ないので、いくつか小見出しを立てていくことにする。

当然ながら、鍵TWするためには鍵垢を利用しなければならず、
鍵TWを閲覧するためにはその鍵垢をフォローしなければならない。
なので、以下の説明では鍵TWと鍵垢が密接に絡み合ってくることになる。
「居酒屋談義」という言葉にしても、その行為とそれを行う場の両方を
指し得るだろう。

どうか誤解しないでほしい

これは私にとって予想外の、完全な誤解としか言いようのない荒唐無稽な解釈だと感じられた。
しかし改めて考えてみると、呉座が大炎上した昨年3月以来ずっと、物分かりの悪い一部の人たちは「鍵TWは居酒屋談義のようなものなのだから、鍵TWを理由に糾弾することが許容されれば居酒屋談義を理由に糾弾することも許容されてしまう」みたいに言い続けていた。
なので、私の主張がそのように誤解されてしまう危険は予測しておくべきだったかも知れない。
何れにせよ、結論から言えば鍵TWと居酒屋談義は明らかに別物だ

本記事における「居酒屋談義」の解釈や、鍵TWと居酒屋談義がどのように別物なのかは後述する。
その前に、この誤解が私にとってどれほど脅威だったかを想像してほしい。

昨年3月の記事「呉座界隈問題と私のTwitter夜逃げ(その1)」で書いたように、私は呉座が鍵垢で私について「本業に差し障りそうな感じ」の鍵TWをしているらしいと知った後、(「呉座から誹謗中傷されている」というのはガセであるかも知れないという可能性を考慮しつつだが)呉座への報復を決意した。
なので、もし「森は鍵TWと居酒屋談義を混同している」と誤解されたら、そこから「森は居酒屋談義されただけで報復を決意するような奴だ」と誤解される危険まであった。
そんな誤解は堪ったものではない。

誹謗中傷や不当な悪評はご免蒙りたいが、私について居酒屋談義したければすればいい
「森の最新論文はここがダメだ」とか「森の研究姿勢には問題がある」とか「森のnote記事はやりすぎだ」とか、したいだけ居酒屋談義すればいい。
実際、私は他の研究者についてそういう居酒屋談義をしたことがあり、今後もすることがあるだろう。
居酒屋談義は学問の発展のために必要なことでもあり、どの研究者だってしたことがあるに違いない。

なので、「森は居酒屋談義されただけで報復を決意するような奴だ」という誤解は、「森はとんでもなく非常識で厄介な奴だ」という誤解に直結し得る。
私の名誉や信用などに深刻な悪影響を及ぼしかねないということを、どうか理解してほしい。

「居酒屋談義」とは

物分かりの悪い人にとって有利にもなるよう、本記事で「居酒屋談義」は、文字通りの居酒屋での談義よりもかなり広く解釈する

場所は居酒屋だけでなく、喫茶店でも定食屋でも、公園のベンチでも誰かの自宅でもよい。
酒以外のものを飲みながらでも何も飲まずにでも、座ったままでも立ったままでもよい。
対面する必要もなく、オンライン通話でも電話でもよい。
談義する人数はとても重要な問題だが、多くてもテーブルを囲める程度(つまり1桁台)が常識の範囲内だろう。
ただし当然、談義の対象(の少なくとも一部)はその場にいない人物などであるものとする。

「居酒屋談義」をここまで広く解釈すると、会話能力がありながら居酒屋談義したことのない人はほぼ誰もいなくなるだろう。
世界中を探しても見付けられないかも知れない。

どこがどう違うか

以上のような条件で行われる居酒屋談義は何故、SNS鍵垢と別物だと考えられるのか。

第1に、居酒屋談義は少数(前述のように普通は1桁台)の人が(オフラインまたはオンラインの)場に集まって談義し、普通は長くても2、3時間で解散するため、そこにコミュニティは形成されない。

仮に、特定の4人が毎週金曜の19時から21時まで特定の居酒屋で飲み会を
定例開催していると、その居酒屋談義はコミュニティにやや近くなる。
だがそれでも、参加者は(トイレや電話のため)中座できて当然で、
(仕事や体調を理由として)途中の20時から参加したり退出したりできる。
「今週は無理だけど来週からまた参加します」みたいなことも普通だ。
「この飲み会への参加は苦痛だな」と思ったら、何か当たり障りのない理由を
告げて縁を切ってよいだろう。
あるいは、毎週開催される飲み会への参加頻度を月1にするとかの選択肢も
ありそうだ。

ヒの鍵垢はこれと大きく異なる。
他の垢が鍵垢にフォロー申請して承認されれば、その状態は解消しづらくなり、コミュニティが形成され易い
一度フォロー申請して承認された後でフォロー解除し、翌月またフォロー申請して承認された後でフォロー解除し、などということを繰り返すのはほぼ不可能だと言ってよい。
技術としては完全に可能だが、実際には心理抵抗が極めて大きい(簡単に言えば極めて気まずい)。
そのため、鍵垢をフォローした後で「この垢による鍵TWはどうかしているな」と思っても、なかなかフォロー解除しづらくなる。

鍵垢が匿名で中の人がどこの誰だか分からなかったり、中の人が赤の他人で
自分の今後の人生に全く関係してこないと分かっていたりすれば、
心理抵抗はかなり小さくなる(簡単に言えば後腐れがなくなる)。
だが、お互いに顔見知りや同業者だとそうはいかない。

第2に、鍵垢相手には思いを伝えづらくなる。
もし面と面を向き合わせての会話であれば、他者のある発言を不快に感じた時、それを表情で伝えることができる。
音声だけの通話でも、間(ま)や声調によってそれとなく不快感を伝えられる。
だが文字だけで遣り取りするSNSでは、内心不快に思っていてもそれを伝えづらく、悪質なコミュニティが形成され易くなる。
昨年12月5日の記事「余滴あれこれ(前篇)」で書いたように、「実際には苦々しく思われつつもなかなかフォロー解除されないだけなのに、当の鍵垢は「自分はこれだけの数のフォロワーから支持されている」と思いやすく、他のフォロワーも「これだけ多くのフォロワーたちが沈黙しているから物申しづらい」となる」。

そして第3に、昨年11月2日の記事「呉座勇一と国際日本文化研究センター(その4)」で書いたように、「声による発言は音速で消えてしまうが、SNSでの発言は削除されない限り(目立たなくなるだけで)いつまでも残存するため、やはり比較にならない」。
たとえ草木も眠る丑三つ時に鍵TWしたとしても、鍵垢のフォロワーはその鍵TWを同日正午にも翌日にも翌年にも閲覧できる。
実際に呉座の場合、何年も前のTWが発掘されて糾弾の対象となった。
居酒屋談義で、どうやったらそんなことが生じ得るだろうか。

突飛な考えだと思われてしまうかも知れないが、ヒでのTWを
「つぶやき」という日本語で表現することが問題の本質を分かりづらくしている
のでないだろうか。
「ヒで「つぶやく」ことは無人島で「つぶやく」ことと同じだ」と
勘違いしている人は、探せばいるだろう。
それは、「全世界に公開されている5ちゃんねるに「書き込む」ことは
自分の手帳に「書き込む」ことと同じだ」というのと同じくらいに、
とんでもない勘違いだ。

田中辰雄の提言

以上の問題と関連して、ある新著を取り上げたい。
計量経済学を専門とし、今年2月23日付で『OPINION』に記事「呉座・オープンレター事件の対立軸――キャンセルカルチャーだったのか?」を公表した田中辰雄(慶應義塾大学 経済学部 教授)は、4か月後の6月に『ネット分断への処方箋――ネットの問題は解決できる――』(勁草書房)を刊行した。
この田中新著は、私の考えをある程度まで補強してくれるものだが、同時に私にかなりの不満を覚えさせるものでもある

田中は同書で、今後あってもよいSNSについていくつか提言している。
その一環として、第7章第3節第2項「すぐ消えるSNS――ロッカールームトーク」でこう書いた。

現状のSNSは発言がずっと残っており、後から検索して発言を探すことができる
その際文脈から切り離れると印象が切り代わり、これが後問題を引き起こすことがある。
一般に発言はそのときの文脈で含意が大きく異なる。
〔…〕
文脈から切り離して言葉だけとると、印象が変わる。
そして現状のSNSは書いたものが原則としてずっと残っているため、文脈からの切り離しが起こる。
〔…〕
悪口や陰口は良くないことである。
しかし、悪口と陰口をまったく言えない社会はもっと良くない社会である。
〔…〕
ロッカールームトークあるいは飲み屋の話は、その場限りで消えていき、記録に残らない
記録に残らないからこそ価値がある。

pp.212-213

ここまでは私も賛同できる。
「現状のSNS」と「ロッカールームトークあるいは飲み屋の話」は別物だという、私と同じ主張だからだ。

「悪口と陰口をまったく言えない社会はもっと良くない社会である」
という箇所には思うところもあるが、それは後述する。

私が不満を覚えるのは、その先だ。
田中はこう続ける。

ネットにもそのようなコミュニケーション〔「ロッカールームトークあるいは飲み屋の話」…引用者註〕の場があってもよい。
そこですぐ消えるSNSを考える。
発言は表示後に10秒くらいで消えていき、その人の前には二度と再現されることはないSNSである。
たとえばAさんがこのSNSに書き込むとする。
Bさんは1時間後、Cさんは5時間後にこれを見るがいずれも見た後10秒で発言は消えてしまう。
〔…〕
ネットの良さの一つはこのように時間差があってもよいことなので、それは最大限利用する。
しかし、同時にその場限りで記録に残らない気楽さを実現するのがこのすぐ消えるSNSである
すでにいくつかのメッセンジャーアプリにはこの「すぐ消える」機能がついている。
それをSNSに拡大しようというのがこの提案である17)。
ロッカールームトークの場と言ってもよいし、飲み屋の軽口が叩ける場所と言ってもよい。
スクリーンショットをとれば残せるが少なくとも第三者が後から遡って発言を見つけることはできない18)
書き込んだことが数年後に誰かにまったく異なる文脈で切りだされて使われて非難されるということはなくなるので、気楽なトークができる。

p.213

スパイものの映画やドラマで昔からある「なお、このテープは自動的に消滅する」みたいなSNSだ。
また田中は、同頁の脚註18でこうも述べる。

仮にスクリーンショットをとったとしても、SNSのサーバーに記録が残らないので、法的な証拠能力はない

これはかなり危険な提言だろう
仮に、田中の「すぐ消えるSNS」で私の垢が4桁台のフォロワーを擁していたとする。
そして私が他者について、住所とかクレジットカード番号とか、「双極性障碍がある」とか「生殖能力がない」とか、当人が公表しておらず公表したくない情報をフォロワー数千人に発信し、何も証拠が残らないとする。
そんな社会がどうして健全だと言い得るだろうか。

この田中新著には他にもいろいろ不満があり、その一部は次章で議論することにする。

問題根絶と詭弁

田中は、この「すぐ消えるSNS」に危険があることを全く分かっていないわけでもない。
そのため新著でこう付け加えている。

すぐ消えるSNSの問題点は、そこが陰口・悪口、そしてさらには誹謗中傷の場とならないかという点であろう。
記録に残らない気楽な場となれば言いたい放題にならないか、というわけである。
確かにその恐れはある。
しかし、陰口も悪口も昔から人間社会についてまわっていたものである。
ネットだけでそれを完全排除することに意味があるだろうか
現在、ネットは人々のコミュニケーションのかなりの部分を占めるようになっており、社会そのものの縮図になりつつある。
社会そのものであるネットを無菌化することが良いことかどうかはあらためて問う必要があるだろう。

p.214

また、私が今年4月4日の記事「反応への応答(第3回連載「あれから1年」)」で紹介したように、初回記事についてこういう反応があった(以下、この反応者をXと称する)。

本人不在の悪口とキャリアのリスクについて、SNSの利用方針などでは根本的な問題は解決しないと思います
鍵垢が可能なtwitterというSNSの存在が問題の規模に影響にしたとしても、twitterがなければ呉座事件(あるいはそれと同種の事件)が生じなかったとは断言できないです
研究者に公開垢を強制しかつそれが徹底されたとしても、twitterでは無難な発言に終始し、別のより閉鎖的な(もしかすると匿名性の高い)プラットフォームで本音を吐き出す状況になることが想像できます
大学の能力にも限界があるため、何れそういったコミュニティの存在さえ認識できなくなり、本人不在の悪口が生産され続けます。
ついで言えば、ネットがなくなったとしても、対面の飲み会などに場を移すことが可能です。
SNSの利用に制限が掛けられれば、瞬時に情報が拡散する範囲は狭くなるかもしれません
しかし、肝心なのは本人が反論する機会もないまま人事権を持つ人間に悪口が伝わってしまうことのはずなので、本質的な問題は残ります
そもそも本人不在の悪口がキャリアに影響する事象を防ぎきることは困難です
〔…〕

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田中にしてもXにしても、誹謗中傷が大好きだから詭弁を弄しているとは思われない。
どちらの文章からも善意が感じられる。
だがそれでも私は、両者の意見は詭弁だと考えざるを得ない

例えば、自動車同士の衝突事故によって負傷者や死者が生じることは明らかに好ましくない。
そのような問題を回避するために、シートベルトやエアバッグは存在する。
しかし、シートベルトやエアバッグが存在してもなお、自動車同士の衝突事故による負傷者や死者は後を絶たない。
仮に私が「自動車同士の衝突事故による負傷者や死者という問題を根絶できないため、シートベルトやエアバッグは無意味だ」と主張したら、これが詭弁でなくて何だろうか
「あらゆる人間はいつか必ず死ぬので、あらゆる医療行為は無意味だ」というのと同じような詭弁だ。

SNSの設計や運用を改善したところで、それが問題の根絶にならないことくらいは私も分かっている。
だから昨年4月10日の記事「呉座界隈問題と私のTwitter夜逃げ(その2)」でこう書いていた。

陰湿な陰口などというものは、人類が言葉を得た昔から存在していただろう。
だから、教員による非公開SNS垢の利用を禁止したところで、メールなど別の媒体を用いて陰湿な陰口は存続するだろう。
しかしこのまま何もしなければ、第2、第3の呉座界隈問題が起こってもよいと言っているも同然になる
これは言論の自由とも関連する極めて繊細な問題だが、私としてはこのように言わざるを得ない。

「非公開SNS垢の利用を禁止したところで、陰湿な陰口を継続したい連中はより機密性の高い通信アプリ(Telegramなど)に移行するかも知れない」とか「伝書鳩を使うかも知れない」とか、そんなことを言い出したら切りがない。
しかし、切りがないからと言って野放しにするわけにもいかないだろう
Xの言う「SNSの利用に制限が掛けられれば、瞬時に情報が拡散する範囲は狭くなるかもしれません」とは、そんなに小さな問題だろうか。

なお、Xは「キャリアのリスク」や「キャリアに影響する事象」について
問題にしている。
これは、私が当初から鍵垢を若手研究者問題と絡めて論じてきたからだろう。
しかし、事は若手研究者問題に止まるものでない。
「定年までの在職が保証されている研究者については、根も葉もない誹謗中傷を
拡散してよい」ということにならない。

まぁ、もし「第2、第3の呉座界隈問題が起こってもよい」と考えているのであれば、このまま何もしなくてよいのかも知れない。
私にとって、そんな考えはクソ食らえであるけれども。

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