呉座界隈問題と私のTwitter夜逃げ(その2)

>>必読事項<<
ここを読み飛ばしたい方は以降の文章も読まないでください

この記事は急いで書きましたので、誤字脱字や説明不足、不適切な表現、リンクの張り間違い、時系列の混乱、事実の見落とし、誤解などがあるかも知れません。
それらは見付け次第、修正していくつもりです。
文章が何度か変化していくだろうということです。
こういうことをすると、分野に関係なく物書きとしての信用が地に墜ちそうですが、それでも今回ばかりは仕方ないと思っています。

文章を比較検証したい方は、お好きにスクショを取るなどしてください。
ですが、そのスクショを拡散したり魚拓を取ったりすることについては、くれぐれも慎重になってください
あなたのその行為によって、文章を公開した私こと森新之介だけが不利益を受けるのであれば、それは仕方のないことかも知れません。
ですが、もしその拡散されたスクショや取られた魚拓によって他の人が不利益を受けるようなことがあれば、あなたは私の加害行為に加担することになってしまうかも知れません
そういう危険を、どうか深く重く受け止めてください。

読んで、よく考えて、URLなど最小限の情報を拡散してくだされば、ただそれだけで結構です
それ以上のことは何も求めていません。
何もです。

この記事の読者には、私のメールアドレスや住所を知っている人もいるでしょうが、そっとしておいてください。
一つ一つに「今後とも宜しくお願いいたします」などと返信することも、私にとって負担になるでしょう(かと言って、無視するのもそれはそれで心苦しくなるでしょう)。
疫禍のため、誰と次にいつどこで対面できるようになるか分かりませんが、その時に一言「何だか大変だったみたいだね」くらい言ってくれればそれで十分有り難いです。
何事もなかったかのように、今まで通り接してくれても有り難いです。

ただし、このページ末尾のGoogleフォームからでなら、誹謗中傷でも罵詈雑言でもお好きにどうぞ。
すべてに目を通すつもりはないと明言しており、見なかったことにしたい内容は見なかったことにできますので。

凡例

前回記事参照)

導入

前回の記事「呉座界隈問題と私のTwitter夜逃げ(その1)」では、最後に

この問題では呉座の存在が非常に重要であるが、それがすべてでない。
呉座界隈には、呉座の意を汲んでファンネル攻撃する悪質な研究者の(ほぼ)実名垢がいくつもあったが、そのようなネットリンチを快く思っていないだろう研究者たちも呉座界隈には存在した。
それでも呉座界隈が存続してきた理由は何か、またそもそも呉座界隈は何故、どのようにして形成されたのか

という問題を提起した。
この「呉座界隈」を、私は呉座勇一のヒの鍵垢をフォローしていた垢(とそれら垢と行動をともにしていた垢)くらいの意味で用いている(前回記事参照)。

呉座はヒの垢(@goza_u1)を2013年8月に開設し、当初公開していた同垢を2015年11月に施錠し、つい先日解錠した。
現在は呉座の過去TWがほぼすべてそのまま公開されているが、私はそれらをほとんど読んでいない
読んだのはごく一部だけだ。
前回と今回、そして次回の記事を書くために必要最小限のTW/RTを読んだだけでも、すでに肥溜めに頭を突っ込んだような気分を味わっている。
これ以上は無理だ。

また、過去のTW/RTを読んで当時の雰囲気を追体験しようと試みることにも、限界がある。
当時その界隈にいなかったら分からないことが、どうしてもあるだろう。

なので、今回と次回(特に今回)の記事では私の推測が多くを占めることになる
話半分か、それ以下のものと思って読んでもらいたい。

呉座は、どこだったかで「面白い話は疑え」と言っていたように記憶している。
あれは名言だと今でも思う。
だが前々から、「だから私の話も面白かったら疑え」と言わないところが
呉座のダメなところだな、と思っていた。
それとも、私が知らないだけで呉座はそういうことを言っていたのだろうか。
何れにせよ、読者には私の話も疑ってほしい。

呉座ヒ垢の施錠と研究者のSNS垢利用

前述のように、呉座がヒ垢を開設したのは2013年8月のこと。
当時の呉座は、最初の著書となる『日本中世の領主一揆』(思文閣出版、2014)もまだ刊行しておらず、researchmapや日文研(国際日本文化研究センター)の教員紹介によれば肩書きも東京大学大学院人文社会系研究科研究員(2012年4月-2014年3月)で、この次の肩書きも同大学院総合文化研究科学術研究員(2014年4月-2016年3月)だ。
つまり2013年8月当時の呉座は、(実際はどうだったにせよ)傍から見ればほぼ無名で駆け出しの、どこにでもいるポスドクの一人でしかなかったろう
最初期の呉座公開垢のフォロワーは、呉座のただの友人や(出身校であり当時の所属先でもあった東大を中心とした)研究仲間などでなかったかと推測される。

私は呉座界隈にとっての画期を、呉座がヒ垢を施錠した2015年11月だろうと見ている
この推測を提示するためには、本来であれば2015年11月の前後でヒにおける呉座の人間関係や言動などがどう変化したのか、または変化しなかったのかを綿密に調査しなければならないが、前述のように私の精神と時間にそのような余裕はない。
だから、これはあくまで推測だ。
しかし一般論として、もし呉座のヒ垢が施錠されていなければ、呉座界隈が如何に悪質かは何年も前に広く知れ渡って潰滅していただろう。

呉座も、当初は後に呉座界隈(と私から称されるもの)を形成しようなどという意図はなかっただろう。
では、何故呉座はヒ垢を施錠し、呉座界隈を形成していくことになったのだろうか

業界の常識から考えて、それは求職活動と関係していたに違いない(以下、この段落は前回記事とほぼ重複)。
若手研究者が、当初実名だった垢名を後に匿名にしたり、当初の公開垢を後になって施錠し鍵垢にしたりすることなどは珍しくなかった(今もそうかも知れない)。
当初は若く青くて将来の求職活動などにあまり現実味が感じられず、実名垢や公開垢で気軽にTW/RTしていたが、だんだんと現実味が感じられてくると、自分は過去にあまり好ましくないTW/RTをしていたのでないか、それが教員公募の選考過程で掘り返されるとまずいのでないか、と不安になってくるからだ。
この問題については、私がヒ夜逃げした理由とともに別の(多分最後の)記事を書くつもりでいる。

呉座が施錠した2015年11月当時のTWを見ても、施錠したくてしたというわけではないようだ

魚拓

researchmapや日文研の研究者紹介によれば、呉座は同2015年4月に同研の客員准教授となり、翌2016年10月に助教となっている。
つまり、呉座は日文研の客員准教授となってから同研の助教になるまでの期間にヒ垢を施錠したことになる。

日文研の客員教員は
「委嘱期間は、一の事業年度の範囲内とし、3年を限度として更新することができる」
https://www.nichibun.ac.jp/uploads/files/regulation/kh-12-2.pdf
とされ、謝金や研究環境などについても規定されている。
助教は
「任期は、3年とする」
「任期満了後、所長が特段の必要を認める場合は、再任することができる」
「再任の期間を2年とし、1回を限度とする」
https://www.nichibun.ac.jp/uploads/files/regulation/kh-5.pdf
https://www.nihu.jp/sites/default/files/regulation/kh-15.pdf
とされている。
ただし、このような規定は普通何度も改定されるものであり、私は最新版しか確認できていない。

私は日文研の内部事情などについてほとんど知らないのでやはり推測となるが、
客員准教授は特定の研究事業に従事するための職位で、
待遇などにある程度の制限(個人研究室がないとか)があったのでないだろうか。
つまり、客員准教授から助教へという職歴を見ると降格のように思われなくもないが、
実際には助教になったことで呉座の研究者としての地位や生活は
ある程度向上し安定したのでないだろうか。

ただし何れにせよ、日文研助教の任期は最長5年(3年+再任2年)なので、
呉座は助教着任後も依然として求職活動しなければならなかった。

(2021430日 午後230分ごろ追記)
呉座は卓越研究員制度のテニュアトラック助教として雇用されていた。
https://www.jsps.go.jp/j-le/voice_eyr/backnumber_h28.html
通常の任期付き助教として雇用された、という私の記述は事実誤認だった。
ただし、テニュアトラック制でも
「一定の任期(5年程度)を付して雇用すること」
https://www.jsps.go.jp/j-le/data/1-1.pdf
になるため、前後の記述に大きな支障はないと考えられる。

ちなみに、2019年に日文研が出した卓越研究員制度のテニュアトラック助教の公募では、
「5. 採用予定日及び任期
2019101日~2022930日(予定)
再任審査により再任可。
ただし再任期間は2年とする。
再任期間を含めた最長5年間をテニュアトラック期間とし、テニュアトラック期間が
満了するまでに審査を行い、可とされた者については定年制を適用される教員とする」
となっていた。

余談だが、2019年にこの公募が日文研から出た時、私も応募しようとしたものの断念した。
所定の応募書類(恐らく日文研独自でなくすべての機関共通)で
「研究室主宰者としての研究体制の構想(ポストドクターや大学院生の配置等も含め、
どのような体制で研究を実施することを想定しているか。
企業の場合には、プロジェクトのマネージャーとして、どのようにチームをつくり、
どのような体制で実施することを想定しているか。)」
「研究主宰者やプロジェクトマネージャー等の研究リーダーとして、
機関やセクター、国等を超えて活躍でき、
それぞれの機関で自身が魅力的であることを示す裏付けや自己のエピソード」
などを書くように求められ、個人研究が中心の私にとってはあまりに書きづらかったためだ。
多分、私だけでなく同業者の多くにとっても書きづらいだろう。
研究室などを単位としたグループ研究が中心の、自然科学系を想定した書式に
なっているのでないだろうか(とはいえ、たとえ自然科学系でも、
助教がポスドクや大学院生を配置するなどということは有り得るのだろうか)。
もし呉座があの応募書類を見事に書き上げて応募し、選考の結果採用されたのだとしたら
素直に感心する。
(追記ここまで)

先日以来、何人もが「呉座はヒ垢を非公開にしたことで何をTWしてもよいと勘違いし、それで言動がどんどん過激になっていったのだろう」という趣旨の分析をしていた。
そういうエコーチェンバー効果は当然あっただろうが、私は正反対の意味でも、ヒ垢の施錠は呉座の精神に悪影響があったのでないかと考えている。

内容の是非などがどうであれ、呉座には明らかに、声を大にして言いたいことや伝えたいこと、訴えたいことがあった
呉座がこれまでに書いた本すべての発行部数(含む電子版)を合計すれば、100万部くらいになるのでないだろうか。
出演したNHKの歴史もの番組なども、それなりの視聴率を獲得しただろう。
そうやって出版社や放送局を経由すれば、呉座は極めて多くの人々を自分の言葉に酔い痴れさせることができた。
だが、自分が直接管理しているヒ垢は施錠しているため、たとえ「今日は天気がいい」というような当たり障りのないものだったとしても、自分の言葉を広く届けることができない。
ヒの規約により13歳以上であれば誰にでもできることが自分にはできない、というもどかしさを感じていたのでないだろうか
もっとも、だからと言って情状酌量すべきだとは全く思わないが。

少なくとも私は、施錠してフォロワー数を0にした現在、そういうもどかしさを感じている。
10年間続けてきたヒ生活には断ち難い思いもあるが、これはもう慣れていくしかないだろう。
公開垢と鍵垢を併用すればよかったでないか、と考える人がいるかも知れない。
だがそんなことをすれば、公開垢ではできないような危険なTWを鍵垢でしている、と
宣伝するも同然になってしまう。

呉座(というか私以外)がどう考えているのか知らないが、教員公募の選考過程でのみヒなどSNS垢が調査される、というのも変な話だ
もちろん、公募を出す側の大学などとしては、採用後にハラスメントなどの問題行動を起こしそうな危うい応募者を採用したがらないのは当然だ。
だから、取り繕われた履歴書などの応募書類からは見えてこない、応募者の裏の顔を探ろうとする。

だが、大学などが応募者を任期なしで雇用してしまうと、後はもう本人にSNS垢の利用を任せてしまうようだ。
任期なし大学教員による、「いや、あなたそれを武勇伝か何かのように語ってますけど、ただのアカハラですよね」と言いたくなるようなTWは、稀によくある(そして何故か人文系に多い気がする)。
よほどの炎上騒動などにでもならない限り、大学は教員のSNS垢利用に介入しないように見える。
無茶苦茶なTWは雇用前であれば許されないが雇用後であれば許される、というのは変な話でないだろうか。

もちろん、大学がすべての教員のSNS垢を常に監視するなどということは不可能だ。
そのようなことをする余力は、どこの大学にもないだろう。

呉座界隈では、呉座と近い年齢(含む年少)の任期なし大学教員がヒの公開(ほぼ)実名垢で(呉座ほどでないにしても)イキっていた。
近い年齢の研究者たちがヒの公開(ほぼ)実名垢でイキっているのに、自分にはそれができない、というもどかしさも感じていたのでないだろうか。

何れにせよ、今回の件から大学業界が得るべき教訓は、教員に非公開のSNS垢を利用させるべきでない、ということだろう
百歩譲って非公開のSNS垢を利用させるにしても、勤務先大学の垢(公式垢でなく匿名垢でもよい)にフォローさせておくべきだ。
そうしておかないと、たとえ内外から通報があったとしても勤務先大学は調査しようがない(前回記事で書いたように、調査の動きを見せれば証拠隠滅されてしまう)。

陰湿な陰口などというものは、人類が言葉を得た昔から存在していただろう。
だから、教員による非公開SNS垢の利用を禁止したところで、メールなど別の媒体を用いて陰湿な陰口は存続するだろう。
しかしこのまま何もしなければ、第2、第3の呉座界隈問題が起こってもよいと言っているも同然になる
これは言論の自由とも関連する極めて繊細な問題だが、私としてはこのように言わざるを得ない。

呉座界隈の構成

話を本筋に戻そう。

先日の解錠時点までに呉座の鍵垢をフォローしていた垢たちの構成は、良くも悪くも複雑で多様だった
匿名の垢たちの多くは年齢性別などが不明なので除外するとして、研究者の(ほぼ)実名垢を見ていくとほとんどが(性自認などはともかくとして)男性だ。
「ボーイズクラブ」と批判されるのも理由がないことでないが、界隈には有力な匿名/実名の女性垢もあった(匿名垢はあくまで自称女性ということになるが)。

また、女性蔑視そのものは深刻な問題であるものの、呉座界隈が女性蔑視を共有するために形成維持された集団だと考えるのは誤りだろう
例えば、呉座界隈の有力実名垢だった研究者の亀田俊和は、つい先日の2021年3月19日に

とTWしており、断言できないがこれは事実らしく見える。
だが、それは亀田が悪質でなかったかどうかとは別問題である(次回記事参照)。

また、呉座の主義主張は右か左かで言えば明らかに右だろうが、しかし呉座界隈には右か左かで言えば左にしか見えない研究者垢もいた

研究者の専門分野を見ていくと、やはり所謂「文史哲」の史すなわち史学が多かった。
ただし、呉座が専門とする(はずの。後述)日本中世史学だけでなく、日本近代史学や、東洋史学や西洋史学の研究者も少なくなかった。
「文史哲」の残り2つである文学と哲学の研究者は少なかったが、それでもいたことはいた。
その他、「文史哲」のどれにも分類しづらい人文科学(芸術学や文化人類学など)の研究者も探せばいたかも知れないが、見出し難い。

無視できないのは、政治学や法律学、経済学、社会学などを専門とする研究者も呉座界隈にいて、呉座とかなり親密だったということである。
これは、呉座が政治などの時事問題に強い関心があったこととも関係していようが、それだけが原因だったとは考えられない。
もしそれだけが原因であれば、相手は呉座を無視しただろう。
そのため、呉座界隈問題とは日本中世史学の問題であるが、日本中世史学だけの問題でない

呉座界隈の2つの共通項

良くも悪くも複雑で多様だった呉座界隈には、呉座の時事問題などについてのTWには全く関心がなく、ただ純粋に日本中世史学などについてのTWを見たかっただけだ、という研究者垢も存在しただろう。
しかしそれでも、呉座界隈に属して呉座と親しくしていた研究者たちの多くは、2つのものを重んじていたように見える。
それは、本音と業績だ。
この2つは全く別々に作用することもあれば、互いに関連して作用することもあったようだ。

前者の「本音」は、ある程度まで「鬱憤」と言い換えることもできる
例えば、自分たち研究者(含む院生)は必死に研究しているのに、周囲(家族や親族、友人、社会など)からは好きなことをしている道楽者としか見られない、という鬱憤は広くある。
このような本音であれば業界のどこで公言しても問題ないだろうが、公言しづらい本音はいくらでもある。

別の例として、実務家教員を嫌悪する研究者はかなり多い。
そんな非研究者を大学教員として雇用するくらいなら、すでに雇用されている研究者の待遇を改善するなり、未だ雇用されていない研究者を雇用するなりすべきだ、と。
だが、このようなかなり共有されている本音も、自分の勤務先大学が実務家教員を雇用していたりすると、勤務先大学の人事方針を非難することになるため公言しづらくなる。

私としては、実務家教員もピンキリであり、是々非々であるべきだと考えている。
かなりよく知っているある実務家教員は、長年勤務した企業を定年前に退職し、
某大学に任期付きで採用された。
教育に非常に熱心であり、為人も非常に良好だ。

なおその実務家教員は、私に
「自分は一切研究せずに教育だけするということで採用されたが、
教育のための予算は大学から一切支給されない。
だから仕方なく、すべての専任教員に一律に支給される個人研究費で授業準備している」
と語っていた。
それもそれで変な話だ。

このような「本音」は、ある程度まで反ポリコレでもあった。
だが前述のように、呉座界隈には右か左かで言えば左にしか見えない、むしろ親ポリコレらしき研究者垢もいた。
そのため、呉座界隈が反ポリコレを共有するために形成維持された集団だと考えるのも誤りだろう。

私は、呉座界隈とは(昔の2chのようなものでなかったかと考えている
いろいろな本音があるから、当然自分にとっては賛同できない不快な本音もある。
だが、公言できないような本音も、そこではある程度までぶちまけることができる。
そういう居心地のよさがあったのでないだろうか。

呉座界隈で垢を施錠していたのは呉座など少数だけだったが、それでもフォロワーたちは
呉座の鍵TWにイイネしたり「私もそう思います」などとリプすることができた。
呉座の垢が施錠されている限り、どの垢がどのような鍵TWにイイネしたのか
呉座フォロワー以外には分からない。
また、呉座のTWが非公開になっている限りそれに「私もそう思います」とリプしても、
どのような意見に賛同したのか呉座フォロワー以外にはやはり分からなかった。
言わば、呉座界隈は半密室のような空間だった。

後者の「業績」もまた、ある程度まで「鬱憤」と関連している。
自分たちは必死に業績を出してきたのに、ろくな業績もない研究者が大学で安定した収入を得ていたり、そもそも業績がなく研究者ですらない者が世に憚ったりしている、と。

呉座界隈とは、これら本音と業績を2つの中心とした楕円形のような界隈でなかったか、と私は考えている。
そしてその楕円形を強いて一言で表現するなら、それは反老害の(研究者)界隈でなかったろうか。
私はこの「老害」という言葉がそもそも好きでないが、呉座たちの感覚からするとこう表現すべきように思われる。

この「老害」は誰にも定義できない。
そのため、たとえ高齢であっても「若い世代の味方」と認定されれば「老害」でなくなる。
実際に、呉座界隈の研究者には若手中堅が多かったが、2021年現在で還暦過ぎの研究者もいた。
また、たとえ若年であっても「老害の味方」と認定されてしまうこともある。

つまり、自分たち研究者の業界には、大学で任期なし教授などの安定した地位を得ながらろくに研究業績を出さず、中堅や若手の研究者を虐げ、搾取し、顧みない連中がいる。
研究者でなくなった、またはもともとそうでない売文屋もいる。
そういった連中への鬱憤は偽らざる本音であるものの、公言できないから呉座界隈などで吐き出すしかない、ということでなかったろうか。

呉座界隈には、「自分はかつて(指導教員や学界の重鎮から)悪質なハラスメントを受けた」とか「自分は不遇だ(った)」とか公開TWする研究者が少なくなかった。
呉座本人も2019年3月25日付「八幡氏への忠告① 評論家に歴史研究はできない」で

昨今の人文系の大学院生はたいへんな就職難に苦しんでおり、一般企業に就職するなど別の方法で生計を立てつつ研究を続ける人も少なくない。かく言う私も日文研着任前は非常勤講師などを少しやったりする程度でフリーターのようなものだったから、字句通りに解釈すれば「在野の研究者」である。

と語っており、これは(少なくとも呉座の主観において)事実だったように見える。
また、亀田が国立台湾大学に赴任するまでの苦労話は、無料公開されている「[回想録]亀田俊和の台湾通信:第1回」(『中国史史料研究会会報』準備号、2019)で読むことができる。

なお、この『中国史史料研究会会報』の版元は志学社(後述)であり、
同誌への寄稿者には呉座界隈の研究者が少なくない。

呉座界隈は当初、そのような鬱憤を抱え不遇を託つ研究者たちが集まり、互いに慰め合い励まし合う界隈として出発したのでないだろうか
少なくとも、もし呉座たちがまともであれば、呉座界隈もまたまともな界隈として発展していったように思われてならない。

だが残念ながら、そうはならなかった。
呉座たちはあまりに拗らせており、界隈にも自浄作用が(少なくともほとんど機能し)なかった。

2014年当時の呉座評価への明暗

時期は前後するが、前回記事で書いたように私は2014年に1度だけ、ある研究会で質問する生の呉座を見たことがある。
もう7年も前のことなので記憶が明瞭でなく、そもそも私の受けた印象でしかないが、その研究会に同席していた若手研究者たち(含む院生)の呉座への反応は、「明」と「暗」が3:1くらいの割合で混ざり合ったものだったように記憶している(長机を口の字の形で配置していたため同席者たちの表情がよく見えた)。

後者の「暗」については、説明しなくても読者は何となく想像できるだろう。
成功は人を変えるというが、呉座の場合はどうだろうか。
2014年当時すでに、他者を威圧して、異を唱えづらくするところがあったのでないだろうか。

ただし、そういった「暗」だけでなく前者の「明」にもまた注意する必要がある
当時の呉座は著書『日本中世の領主一揆』(前掲)だけでなく、新潮選書『戦争の日本中世史――「下剋上」は本当にあったのか――』(2014)をも刊行した直後だった。
また、呉座は良くも悪くも現代サブカル文化などに染まっていたため、年少の若手研究者たちにとっても親しみを覚えやすい存在だったろう。

当時の同分野の若手研究者たちは少なからず呉座のことを、ちょっと気難しいところもあるけど優秀な、きっとこれから自分たちの世代を代表していくだろう新進気鋭の研究者、として期待や羨望の目で見ていたのでないだろうか。
言うなれば自分たち新世代の旗手として。
呉座さんは自分たち若い世代の苦境も理解してくれる、きっと出世して自分たち若い世代の本音を代弁してくれるだろう、そしてきっと現状を改善してくれるだろう、と。

本章の、2014年当時の同分野の若手研究者たちが呉座をどう見ていたかという話は、私の曖昧な記憶に依拠した推測でしかない。
だが何れにせよ、結果として呉座がそのような期待に応える存在にならなかったことは確かだろう。
私としては、希望を託す相手を間違えたとしか言いようがないが。

平林緑萌と志学社

いつからか呉座界隈は、前回記事で書いたようなネットリンチを始めるようになった。
その最初の被害者が私、ということはないだろう。

呉座界隈における有力実名垢だった平林緑萌は、「金銭的な問題で博士課程進学を諦め」たものの大学院修士課程を修了しており、編集者であると同時に研究者でもあると自負していたようだ(それ自体はもちろん結構なこと)。
その平林は、2018年9月に新徴組・中澤琴(望月うさぎ)氏という垢(以下、「望月うさぎ」と略す)とレスバしたことがあった(以下、垢名はすべて当時のもの)。
この垢は某研究者の匿名垢だったらしく、本人が実名公表を望んでいなかったようなので、この記事の地の文では実名を伏せる。
だが、後掲の平林TWなどで実名が曝露されてしまっており、問題の平林TWを望月うさぎ氏の実名が分からないように引用することは、残念ながら不可能だった

当時作られたtogetterがこれだ(平林も「お気に入り」していることが確認できる)。

(2018年9月8日付)@Hashi_wh「9月7日夜の平林緑萌さんと新徴組・中沢琴(中国古代研究者・●●●●氏)さんのやり取りまとめ」(伏せ字引用者)

権利者(恐らくその多くは望月うさぎ氏)によって削除されたTWが多くて議論を追いづらいだろうが、この場合はあまり問題にならない。
なお、削除されたというのはtogetterから削除されたということであり、ヒにはまだそのTWが削除されずに残っているのでないだろうか。

ちなみに私は、この前年の2017年7月中旬にしたあるTWが平林から引用RTされ、
軽いレスバに発展したことがあった。
その時はどちらが勝った負けたということはなく、平行線のまま議論は終わったが、
私は平林について「おかしな編集者だ」という好ましくない印象を持つようになっていた。

『墨子』の成書時期などについての議論は、難解で私にはよく分からない(もともと同書は諸子文献でも特に難解なものの一つとして知られている)。
だが、査読などについての平林の意見は明らかにどうかしていた

今読み返しても完全にどうかしている。
勝敗は兵家の常だ。
どんなに優秀な研究者でも、査読付き雑誌に投稿すれば通ることも通らないこともある
何故平林はそんな当たり前のことも理解できなかったのだろうか。

なおこの時期の同月8日、呉座界隈に属していた東洋史の院生bot(次回記事参照)は匿名の質問(もちろん私のものでない)にこう回答していた。
当時の界隈の雰囲気が窺い知られるだろう。

魚拓

翌8日、平林は「援軍」は不要だと宣言する

当時の私は「何を言ってるんだ」としか思わなかった。
だが今から考えれば、当時すでに「援軍」という名のファンネルたちが一斉に襲撃するネットリンチが繰り返されていたのでないだろうか
少なくとも平林は2014年6月から呉座にリプしており、早くから呉座界隈に属していたことが確認できる。

https://twitter.com/search?q=from%3Amoegi_hira%20%40goza_u1%20until%3A2018-09-30&src=typed_query&f=live

また同8日、平林は、望月うさぎ氏の所属学会は同氏を調査すべきだという趣旨の根拠不明なTWをする。

もしかしたら、2人にはこれ以前から因縁というか前史みたいなものがあったのかも知れないが、外野である私にはそれが何なのか全く分からなかった(今も分からない)。

このレスバで、平林は自分の論文2本について望月うさぎ氏に「東方書店東京店に在庫があります」「なんでしたら着払いで出力したものをお送りしましょうか?」とリプしていたが、それら論文2本は当時ネットでPDF公開されていたことが翌9日に指摘される。

なお、平林の立命館大学大学院修士課程時代の査読付き論文2本
平林緑萌「墨子説話諸篇考」(『立命館文學』5892005)
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7675917-00
平林緑萌「墨子救宋説話考」(『中國古代史論叢』32006)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008134455-00
のうち前者は、現在もネットでPDF公開されている。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/589.htm
後者については不明。

前掲のtogetterは前8日の平林のTWで終わっている。
だが同月14日、平林は一転して謝罪TWする。
もっとも、この謝罪TWでも相変わらず望月うさぎ氏の実名を曝露しており、数々の暴言を「些か礼を失する発言」としかしていない。
また、望月うさぎ氏とのやりとりによって「当事者でない皆様に多大なご迷惑をおかけしたことをお詫び」しているだけで、同氏本人への謝罪になっていないようにも見える。

魚拓(何故か3年前当時のものがあった)

魚拓(何故か3年前当時のものがあった)

魚拓(何故か3年前当時のものがあった)

あれだけイキリまくっていたのに一転して謝罪した理由を、平林は説明しなかったようだ。
しかし社会常識から考えて、当時の勤務先だった星海社から怒られが発生したのでないか、と私は疑っていた(魚拓)。

半月後の翌10月1日付で、平林は研究者の山田崇仁とともに合同会社志学社を設立し、4か月後の翌2019年2月11日付で、それが現代ビジネスで記事になる。

現代ビジネスの記事で平林は、見出しに「36歳の編集者が、市川に「小さな出版社」を立ち上げたワケ 「知の衰退を食い止めたいから」」とあるように、同社設立について

根底にあるのは『自分の作りたい本を作って出版したい』『真面目に研究している人たちの支援をしたい』という純粋な気持ちです。

などの崇高な理念を語っている。
これは当時、呉座界隈内外の研究者垢たちの間で美談義挙として話題になった。

だが、前述の望月うさぎ氏への醜悪な言動を見ていた私は、(そういった崇高な理念すべてが嘘ではないにしても)勤務先からの怒られを気にすることなくヒでイキリたいから自分の会社を設立したのでないか、と疑っていた。
これは下衆の勘繰りだったかも知れないが、何れにせよ、この前後で平林のヒでの言動が変化したようには見えない。
なお前回記事で述べたように、この時期の私はまだ平林の属する呉座界隈の存在に気付いていなかった。

西村玲氏の自殺と業界のタブー

5年前の2016年2月2日に急逝した研究者の西村玲氏の死が、実は自殺だったことが2019年1月25日付で両親が編んだ『西村玲遺稿拾遺――一九七二~二〇一六――』(私家版。以下『遺稿拾遺』と略す)によって明かされた。
このことは同年4月に朝日新聞でも報道されたので、研究者でなくとも知っている読者は少なくないだろう。

この一件について、私は翌年、つまり昨2020年2月14日付で「西村玲氏と『西村玲遺稿拾遺』」という文章を公表した。
ここでは、今までどこにも書くことができなかった、そして死ぬまで書くことができないのでないかと思っていたことを書きたい。
それは、業界におけるタブーの一つである大学教員公募の問題と関連しており、呉座界隈問題とも関連していないようでいて関連している。

私は西村氏の両親から『遺稿拾遺』を郵便で贈られた2019年1月30日以降、何枚かの画像をヒに掲載した。

魚拓

同日掲載した数枚のうちの2枚が以下のものだ。

2019年01月30日_1

(父の茂樹氏「あとがき」、p.365)

2019年01月30日_2

(「年譜」、p.402)

これら画像で、遺族となった西村氏の親は

今日の大学が求めているのは知性ではなく、使い易い労働力だという現実を認識せざるを得なかった。
大学教職の"公募"について、本人が憤懣やるかたなかったのは、ほとんどの場合、採用者がすでに決まっていながら、"公募"の体裁を整えるために行なうものであったこと、しかも応募書類をほとんど見もしないのにやかましい書類、資料、書式を求めた。定価数千円、数百ページの著書を六部要求して、その返却を前提としてもいない例、仕方なくコピーして送ると、クリップの位置が提出時のまま、ということもあった。応募大学は二十余校。

と明記している。
私はこれら画像をヒでTWして、流石に各大学も自分たちのこれまでの理不尽な公募方法を反省するのでないかと思ったが、残念ながら私の知る限りそのようなことはなかった。

実は、私のこれらTWが朝日新聞の小宮山亮磨記者の目に入り、私は同年3月上旬に早大某所で小宮山記者からの取材に応じた。
その時に私は、「背景として理不尽な大学教員の公募方法がある。これが西村さんを疲弊させ、結婚という「非常口」に追い詰めたのだろう」と説明した。
その教員公募の問題については、翌4月10日付で朝日新聞デジタルに掲載された小宮山記者の記事2本でも言及された。

文系の博士課程「進むと破滅」 ある女性研究者の自死」(無料公開)
「家族と安定がほしい」心を病み、女性研究者は力尽きた」(有料会員限定公開)

余談だが、後者の有料会員限定公開部分にある次の記述は私のこと。
「平安期の日本思想を研究する30代男性は、私立大講師の任期が今年3月で切れた。
次の職のあてはない。
「研究職への就職活動は続けるけど、失業保険をもらって、
その後しばらくは派遣かパートかな、と。
コンビニで40~50歳くらいの店員を見ると、『研究者なのかも』と思うようになってきた」」

取材当日、私は「失業保険が切れたらUber Eatsでもやろうかと思っています」と言い、
小宮山記者から「えっ、それは経営する側ですか」と聞き返され、
「もちろん配達する側です」と答えて引かれた記憶がある。
ただ、結局は何だかんだ言ってUber Eatsなどを今のところやっていない。

前者には

研究職に就こうと20以上の大学に応募したが、返事はいつも「貴意に添えず」だった。読まれた形跡のない応募書類が返ってきたこともあった。
父(81)は、「今日の大学が求めているのは知性ではなく、使いやすい労働力。玲はそのことを認識していた」と語る。

とあり、後者には

研究職に就くことを望み、20以上の大学に応募した。資料として、数千円する自著を6部も求められ、仕方なくコピーをとって送ったこともあった。だが、「貴意に添えず」と書かれた紙とともに返送されてきた書類は、クリップを動かした形跡すらなかった。不採用の理由は説明されなかった。

とある。

だがそれでも、この理不尽な公募方法についてはほとんど話題にならなかった
西村氏の一件を知った東大かどこかの自然科学系の教員が、「何でこんな非合理な方法で公募を出しているんだ」とTWしたのが目に入ったくらいだった。
ほとんど話題にならなかった理由の1つは、無料公開の前者ではそのことについての記述が少なく、後者では記述がやや多いが有料会員でないと閲覧できなかったためだろう。

だがもう1つの、恐らくより大きな理由は、西村氏の一件が女性という属性に回収されてしまったためだろう。
記事2本の本文では西村氏が女性だったことは強調されていないものの、どちらの見出しにも「女性研究者」とあって、そこが良くも悪くも注意を集めてしまった。

今回の問題も、やはり呉座という男性研究者の女性蔑視という属性の問題に
回収されてしまいそうだと、私は感じている。
前述のように、女性蔑視そのものは深刻な問題であるものの、
呉座界隈が女性蔑視を共有するために形成維持された集団だと考えるのは誤りだろう。

このセックス/ジェンダーは業界においても極めて繊細な問題であるため、私はこれまで「西村さんの悲劇を女性という属性の問題として議論すべきでない」と公言できなかった
そんなことをすれば、「性差別主義者」の烙印を押されかねなかったからだ(結局は今回の記事でそういう烙印を押されてしまうのだろうか)。
業界における、別のタブーだと言ってよいかも知れない。

西村氏と長年同居しており仲が極めて良好だった両親は、『遺稿拾遺』などで、娘の玲は自分が然るべき研究職を得られないのは性差別のせいだと言っていた、などということを全く書いていない。
そもそも、女性研究者には女性研究者であるからこその不利や不遇があることは私も当の女性研究者たちからある程度よく聞くが、理不尽な公募方法は女性研究者だけに課されるものでない(次章参照)。
セックス/ジェンダー以前の問題だろう。

翌5月21日付で、小宮山記者は朝日新聞デジタルに

(取材考記)ある研究者の死・その後 彼女は役に立ちたがっていた」(有料会員限定公開)

という記事を掲載した(紙面では同日夕刊所載)。
そこにはこうある。

西村さんの記事が掲載された後、両親から手紙をいただいた。「玲は役に立ちたがっておりました。仏教の教えがどんなに人を楽に生きさせるものかを、伝えたがっておりました」とあった。
〔…〕
両親の手紙には、こうも書かれていた。「記事を通じて、死後、ポスドクの人たちにいくらかでも役に立つことができて、玲は苦笑しながら喜んでいると思います。"苦笑"というのは、生きている限り、ポスドクは大学に物を言うことはできない(言えば大学から永遠にしめ出される)からです」
大学政策を担う人々に、この声が届くことを願う。

ただし、この箇所も朝日新聞デジタルでは有料会員でないと閲覧できなかったため、ほとんど話題にならなかった。
「人々に、この声が届くこと」はなかったようだ。

私と西村氏には違うところがいくつかある。
その1つは、西村氏は憤懣を抱えながらそれを公言することなく自殺し、死後に遺族がその声を私家版によって発したが、私は生きている間にその憤懣を公言することにした、ということだ。
西村氏の両親が言うように、こうすると私は永遠にどこの大学からも雇用されなくなりそうだが、もう我慢の限界だ。

大学関係者(何故か特に人文学者)の多くは、正気を疑いたくなるくらいに察しが悪い。
一を聞いて十を知るどころでなく、十を聞いて一を知るほどだったりもする。

西村氏の一件で、多くの大学関係者は震え上がるべきだった
西村氏は、遺書でそれまで世話になった人たちの名前を挙げ、感謝や謝罪、気遣いの言葉を綴って自殺した。
だが、西村氏のように追い詰められた研究者が、遺書でそれまで理不尽な公募方法で自分を苦しめた大学の名をすべて挙げ、呪詛の言葉を綴って自殺しても不思議でなかった。
そうなった時、名指しされた大学は延焼を免れなかっただろう。

この記事の読者には大学関係者もいると思う。
あなたは明日、あなたの勤務先大学の正門前で、理不尽な公募方法で追い詰められた研究者が白昼堂々、抗議の焼身自殺をしないと断言できるだろうか(焼身自殺なんてことは有り得ない、と思った読者は2018年9月の九大元院生放火自殺事件を思い出すべきだ)。
そうなった時、あなたの勤務先大学は「弊学は応募者の負担とならないよう、これこのように公募方法を工夫しておりました」と釈明できるだろうか。
自分たちが一種のロシアンルーレットをしていることを自覚すべきだ

何れにしても、私は西村氏が求職活動に疲弊してしまったのは、応募できるような公募がたまにしか出ないことよりも、たまに出た公募があまりに理不尽で、かと言って応募しないわけにもいかなかったからだろうと考えている
かくいう私も、もう本当に疲弊している。

大学の理不尽な教員公募方法(読み飛ばし可)

この業界で求職中の研究者であれば、多くの公募方法が如何に理不尽かをよく分かっているだろうが、それ以外の読者は前述の西村氏関連の記事にあることくらいしか分かっていないだろう。
だからこの章では、どのように理不尽なのかをいくらか説明することにする。

大学教員の公募で要求される書類は、履歴書と業績一覧、そして研究や教育などへの抱負の3つ(と学位記の写しなどの証明書や然るべき研究者からの推薦状、主要な研究業績の実物または複写物など)に大別できる。

履歴書に記入すべき内容は、どの大学の公募でもほぼ共通している。
まず氏名や生年月日、住所などの連絡先から始まり、学歴や職歴、学位、学会などでの委員歴、賞罰などを記入するように要求される。
ところが、この履歴書は各大学から独自のファイルをダウンロードして作成しなければならない(書式自由の公募は極めて少ない)。

しかも、それら履歴書のファイルはほぼすべてが所謂「ネ申ワード」か「ネ申エクセル」であり、以前に作成した別の履歴書からコピペすることが極めて困難になっている
年紀の表記も「西暦を使え」とか「和暦を使え」とか、「昇順にしろ」とか「降順にしろ」とか大学によってまちまちだ。
履歴書の記入見本でそれらが混在していることすらある。

また、履歴書では「現在所属している学会」をすべて記入するよう要求されることがある。
それだけであれば理解できなくないが、大学によっては「その学会に何年何月に加入したか」まで書かせることがある
自分が今どの学会に所属しているかは、毎年会費を支払っているので容易に把握できるが、何年何月に加入したかなんてことは普通、記録も記憶もない。
そもそも、そんなことを書かせて何になるのか理解できない。

業績一覧も非常に理不尽だ
多くの大学の教員公募では、業績一覧の書式が次の画像のようにテーブルで縦に区切られている。

業績一覧

これでは、どこかが1行増減するだけで全体の配列が狂ってしまい、煩わしくて仕方ない。

応募者に主要な研究業績3点ほどを選定させ、要旨をそれぞれ数百字で記述させることは理解できる、というか当然だろう。
だが上掲画像のように、多くの大学はすべての研究業績の要旨を200字とか400字とかで記述させるため、非常な負担となる。
規定字数が同じであれば過去に作った要旨をそのままコピペすればよいが、規定字数が異なるとそうはいかない。

しかも、私が過去に遭遇した某大学の公募では、すべての研究発表の要旨までも数百字で記述することを要求された
刊行された論文や研究ノートは手許にある(たとえ手許になくても図書館などにある)ため要旨を記述することはできるが、学会発表の内容は形として残らないため、10年以上前のものの要旨などは記述しようがない。
そんなものを書かせてどうしたいのかも分からない。

論文などが刊行された時期を、何年かや何年何月かまででなく、何年何月何日かまで記述させる公募もあった
何日かまで書かせることに何の意味があるのだろうか。

論文などの研究業績について、「単著/共著の別、論題、掲載誌、刊行元、刊行年、頁数を記入せよ」と指示しているが、「査読の有無を記入せよ」という指示のない公募もあった
通常、査読の有無は非常に重要であり、私のような応募者としては業績一覧で「自分はこれだけ多くの査読付き業績を出していますよ」と強調したいところだ。
だが、「査読の有無を記入せよ」という指示がないのに記入すれば「記入要領に沿っていない」として減点評価されるおそれもあり、どうすればよいのか分からなくなる。

これについて、「不明な点があれば公募元の大学に問い合わせればいいじゃないか」と思う読者もいるだろう。
だがそんなことをすれば、「この応募者は行間を読む力がないのだな」「反抗的だな」と思われて選考過程で不利になるおそれがある。
「うちの公募方法に文句があるなら応募しなくて結構です」と言われるだけかも知れない。
それどころか、「あいつは大学の公募方法に文句を付ける厄介な研究者だ」という悪評すら流布してしまいかねない。

何より理解できないのは、履歴書や業績一覧についての記入要領で「添付の見本を参考にして記入せよ」と指示しておきながら、その見本が記入要領に沿っていなかったりすることだ。
自分たちが応募者に何を書かせようとしているのか理解していない、と考えざるを得ない
そして、研究職を喉から手が出るほど欲しがっている応募者たちは、自分たち公募を出す側からぞんざいに扱われようと泣き寝入りするだけだろう、と高を括っているのでないだろうか。

何故これほどまでに理不尽な公募が横行しているのだろうか。
私はあまり昔のことは知らないのでただの推測となるが、時代の変化に対応できていない、というより対応するつもりもないのでないだろうか

30年くらい前までは、教員公募を出しても、業績は論文や学会発表が2、3本/回ずつという研究者が数人応募してくるだけだったのでないだろうか。
そして、採用決定後にそのまま人事ファイルに入れられるような履歴書などを応募時から提出させていたのでないだろうか。
しかし昨今では、業績は論文や学会発表が10、20本/回ずつという研究者が何十人も応募してくるようになっている。
時代が全く変わってしまった。

「公募は宝籤と同じだ。宝籤は買わないと当たらないように、
公募もまた応募しないと採用されない」ということを、
あたかも上手いことを言ったかのように言う任期なし大学教員がいる。
だが、そのようなことを言う大学教員は公募に応募することの負担を知らないか、
すでに忘れているかの何れかだろう。
大学教員の公募に応募することは、宝籤を買うのと同じくらい手軽にできるとでも
思っているのだろうか。

このように理不尽な教員公募への憤懣は、書けば切りがなくなる。
いっそのこと、「採用後にどんな理不尽な事態に直面しても対応できる人材を選抜するため、敢えて理不尽な公募方法にしています」などの深い理由があってほしいところだが、多分そんなものもないだろう。
たとえあったとしても、結局は自分たちが無自覚にロシアンルーレットをしていることに変わりはない。

ちなみに、私の前職(というか今のところ最後の職)である早稲田大学高等研究所の
任期付き専任教員の公募方法は非常によく工夫されていたので、不満はなかった。
無駄がなく、応募方法も郵送でなく原則すべてオンラインだった。
海外在住の応募者には疫禍以前からオンライン面接を実施していたと聞く。
ただ、高等研は早大でもかなり特殊な箇所なので、学内他箇所の公募方法が
どうなっているかは知らない。

西村氏の一件と呉座界隈

私が『遺稿拾遺』について連投TWしていった2019年1月30日以降、西村氏の一件は当然、呉座界隈でも話題になったようだ
特に4月10日付で朝日新聞デジタルに記事が掲載され、それに日文研名誉教授の末木文美士が自分のブログに記事「朝日新聞小宮山亮磨氏の記事に関する私見」を掲載して抗議した同月19日以降、呉座がいくつもTWしている

時系列はやや前後するが、内容ごとに区分して引用することにする(ただし、私の見落としもあるだろう)。

魚拓

魚拓

魚拓

魚拓

魚拓

魚拓

魚拓

魚拓

魚拓

呉座のこれらTWに、私はある程度まで共感できる。
呉座界隈の若手研究者たちもそうだったのでないだろうか。

また当時の呉座界隈には、末木さんは西村さんの学振SPDの受け入れ研究者だったというだけの関係なのにこの一件に巻き込まれて気の毒だ、というような見方の研究者もいたようだが、呉座はそれら研究者たちに異を唱えている。

魚拓

魚拓

魚拓

呉座は、西村氏が結婚という「非常口」を開けたことを擁護する(少なくともそう見える)TWもしていた。

魚拓

魚拓

また前回記事で述べたように、この時期の呉座はすでに私を「森新之介という馬鹿」「このバカは現代日本語も読めないのか」「こいつは俺に難癖つけたいだけだな」などと悪罵するようになっていた。
だがそれでも、私の西村氏関連のTWは公式/引用RTせずにいられなかったらしい(ただし厳密に言えば、私の「令和」出典関連のTWも1つ公式RTしている)。
あと、やはり西村氏関連で、5月15日に私が撮影掲載した法政大学総長の田中優子の毎日新聞コラム記事「田中優子の江戸から見ると 学問で食べられるか?」の紙面画像を、呉座は翌16日に引用して「末木さんより質が悪い」「何様のつもりなのか」などと悪罵している。

ただし、末木は同年712日付のブログ記事「人文学はなぜ理解されないのか?」で、
田中コラムについて「私などにはよく分かる」「私もまったく同じ反発を持った」
などと共感しているので、呉座の「末木さんより質が悪い」は必ずしも当たっていなかったようだ。
http://bunmao.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-2fb9c7.html

魚拓

公式RT前後の文脈を見ても、私の西村氏関連のTWに共感しているらしかった。
呉座は西村氏の一件をかなり真剣に受け止め、その不遇に共感し、末木のブログ記事などに憤っていたと見てよい
もっとも、だったらbioに「たかが助教です」なんて書くなよ、という話ではある(前回記事参照)。

それにしても、同年322日に呉座がTWした
「森さん、末木さんのことを横暴だなんだと批判してたけど、
こうなってくると森さんの言い分も疑わしくなってくるよな」(前回記事参照)
https://twitter.com/goza_u1/status/1108810772174372867
魚拓(https://archive.ph/IKVhB)
とは、本当に一体何だったんだ。

丁度この時期、呉座は『中央公論』2019年6月号に「俗流歴史本と対峙する――歴史学の研究成果の重みに敬意を――」という文章を寄稿している。
同号は表紙に「令和元年5月10日発行・発売」とあり、呉座の文章の脱稿時期はその1か月前くらいだろうか。

この文章で呉座は、

今、書店には歴史学の最新成果を無視した「俗流歴史本」が溢れている。百田尚樹・井沢元彦・本郷和人の三氏を例にとり、俗流歴史本の問題点を概括する。(p.134)

という書き出しで、それまで批判していた百田尚樹と井沢元彦だけでなく、東京大学史料編纂所教授の本郷和人も批判していった。
これを当時、呉座界隈の歴史ファンたちは「天下の東大、しかも自分の出身校の教授を公然と批判するなんて、流石は人斬りGOZA刀斎だ」などと持ち上げていた記憶がある。

だが、呉座界隈の若手研究者たちはこれをどう見ていただろうか。
呉座の本郷批判に共感する者もいただろうが、そうでない者もいたのでないだろうか
つまり、たとえ本郷に批判されるべきところがあるとしても、それを批判したところで本郷が非を認めて許しを乞うわけはない。
万々が一そうなったとしても、自分たち若手研究者の苦境は結局、何も変わらない。
それよりも、若手研究者問題を隠蔽するかのようなブログ記事を公表した、末木という学界の重鎮がいる。
呉座は非公開のヒ垢で批判してるだけでなく、末木を公然と批判すべきでないか。
本当に人斬りだったら、さっさと斬奸状でも叩き付ければいい。
もしかして、末木は呉座の勤務先である日文研の名誉教授だから公然と批判できないのでないか、と。

見る人が見れば、呉座が攻撃できる/しやすい相手を選んで攻撃していることは明らかだった
そのことに気付いて、呉座の言動を冷めた目で見るようになった研究者も界隈にいたのでないだろうか。
実際に、これ以後も末木は(私から見ると)完全にどうかしているブログ記事を公表していく(拙文「西村玲氏と『西村玲遺稿拾遺』」参照)が、呉座は鍵垢でそれらに言及しなくなったようだ。

「言及しなくなったようだ」というのは、数日前に呉座過去TWを検索した時の記憶ではそうだが、
現在は検索できなくなったため断言できない。
もっとも、検索できたところで検索漏れはあるだろう。

また、呉座はことあるごとに「専門家を尊重すべきだ」という趣旨のことを主張していた。
しかし、2019年4月13日付「『「砂漠の狐」ロンメル』書評 名将の優れた戦術センスと弊害」あたりからだろうか、自分の専門外であるはずの西洋史や日本近代史についても発言することが目立つようになる。
これも、見る人が見れば明らかにおかしな話だった。

今から考えれば、この2019年前半あたりから、呉座界隈は瓦解に向かいはじめていたのかも知れない

(「呉座界隈問題と私のTwitter夜逃げ(その3)」に続く)

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多分、送信された内容すべてに目を通すことはないでしょうが。

最後まで読んでくださりありがとうございました。