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日本に憧れ「坂の上の雲」をみたリトアニアの青年

かつて、東ヨーロッパに広大な領土を擁して栄華を誇り、その後、ロシアなどの支配下に置かれて、何度も国を失った民族がいました。
 
彼らは、ロシアの圧政下で苦しい生活を強いられていましたが、東洋の新興国・日本が日露戦争(注1) でロシアに勝利したことが、彼らの心に独立への大いなる希望を与えたのでした。
 
ステポナス・カイリース (Steponas Kairys, 1879-1964)。彼もまた日本の勝利に勇気づけられた一人でした。
 
今回は、バルト三国のリトアニアに焦点を当て、日本に深い憧憬の念を抱き、日本に「坂の上の雲」をみたリトアニアの青年、ステポナス・カイリースの姿を追いかけたいと思います。
 
(注1) 日露戦争は、史上初めて白人国家に有色人国家が挑んだ戦いであり、日本の勝利は、当時、ロシアに虐げられていた国々に大きな勇気と希望を与え、民族の自覚の高まりに大きな影響を与えた

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リトアニア共和国

1 リトアニアの歴史
初期のリトアニアは、ドイツ騎士団による侵攻に悩まされていました。1236年の戦いでミンダガウス大公が諸部族をまとめて初代王に即位し、リトアニア大公国を成立させました。
 
その後、1316年に即位したゲディミナス大公は、リトアニア大公国の全盛期を築き上げた英雄として讃えられています。
 
ゲディミナスの治世にもドイツ騎士団によるリトアニア侵攻は執拗に続きましたが、ゲディミナスはポーランドと同盟を結ぶことでこれを撃退し、更にルーシ(現在のウクライナやベラルーシ方面)、バルト海及び黒海に至るヨーロッパ最大の領土を持つまでになりました。そして、現在のリトアニアの首都であるビリニュスを建設しました。

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リトアニア大公国の最大版図
右中:ミンダガウス大公
右下:ゲディミナス大公

1386年にポーランド・リトアニア連合を結成、1410年には遂にドイツ騎士団を破りました。
 
しかし、1772年から1795年にかけて3度にわたるポーランド分割により、ポーランドとリトアニアは完全に消滅し、その大部分ロシアに組み込まれてしまいました。
 
国を失ったリトアニア人は、1918年に(一時的な)独立を果たすまでの約120年間を、ロシアやドイツの支配下で生き抜くことを余儀なくされたのでした。
 
2 カイリースが生きた時代
(1) 生い立ち~大学時代
そのような時代にあって、カイリースは1879年に帝政ロシア下のリトアニア東部にある農村に生まれました。
 
幼少期から優秀で、すぐに母国語リトアニア語のほか、ロシア語やポーランド語も習得したといわれています(ただし、帝政ロシア下ではロシア語以外の言語の使用は禁止されていた)。
 
1894年にリトアニア北西の都市シャウレイの高等学校に入学後、次第に社会民主主義の考えに影響を受け、リトアニアの民主活動に関与するようになりました。
 
1898年にはリトアニアを出てサンクトペテルブルク工科大学に入学。しかし、1899年に反ツアーリ運動に参加したため一時的に退学処分となります。
 
1900年からは初期のリトアニア社会民主党(LSDP)のメンバーとなり、政治活動への関与を深めていきます。
 
1901年にサンクトペテルブルク工科大学に復学し、その後は1908年まで在学して優等で卒業しました。

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ステポナス・カイリース

(2) 新興国・日本との出会い
日露戦争(注2) で東洋の新興国・日本が帝政ロシアに勝利したのは、まさにその頃でした。1905年5月、日本海軍は、ラトビアのリエパーヤから遥々日本近海まで進出してきたバルチック艦隊を対馬沖で撃滅したのです。

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旗艦「三笠」と東郷平八郎

(注2) 日露戦争では、バルト三国から多くの兵士が満州に送られて日本軍と戦った。そういう点では「外国人兵士を戦地に送る」というロシアのやり方は今も変わっていない
 
この出来事は、リトアニアのようなロシアの征服下にあった非ロシアの人々を勇気づけ、民族意識を高め、独立運動に大きな影響を与え(注3) ました。
 
当時のリトアニアには日本に関する文献は皆無で、ヤポーニア(日本)とは一体どんな国なのか、どんなやり方でロシアに勝ったのか、誰も分かりませんでした。
 
(注3) リトアニア独立革命を指導し、後にリトアニア国家元首となったヴィータウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis)は、後年、「日本から勇気をもらった」と語った
 
26歳の青年、カイリースは東洋の新興国・日本に深い憧憬の念を抱くようになり、日本についてもっと知りたいという強い衝動に駆られました。
 
幸いロシアは敗戦により圧政を緩和してリトアニア語の使用を解禁したこともあり、日本のことを調べ上げて(注4) リトアニア語で市民の理解を促す、そのことが祖国リトアニアの独立にも繋がるとカイリースは考えたのでした。
 
(注4) 20世紀前半のヨーロッパには多くの日本関連の書籍があったものの、大半は英語、ドイツ語、ロシア語などの大言語で出版されており、リトアニア語での書籍は皆無だった
 
カイリースは短期間で様々な文献を読み漁り、情熱的に日本のことを調べ上げて、そして日露戦争からわずか1年後の1906年に「日本今昔」「日本人の暮らし」及び「日本の政治機構」の3部作を出版し、日本神話を含む日本の文化、日本人の気質や暮らし、そして日本の政治形態について広くリトアニア市民に知らしめたのでした(当時、これらの書籍はリトアニア国内でベストセラーになったという)。

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カイリースによる日本論3作(1906年)

これらの日本論では、鎖国から解き放たれ、明るく道徳心に富んだ日本人の姿や、国際社会に意気揚々と船出し始めたヤポーニア(日本)という国が克明に描かれています。
 
まさに「日本人にとっての「明治」が西洋列強に追いつくことを夢見た時代だったように、当時のリトアニア人もまた、日本という憧れの独立国家に「坂の上の雲」を見ていた」のです(詳細は 「坂の上のヤポーニア」(平野久美子 著)をご一読ください)。

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「坂の上のヤポーニア」(平野久美子 著)

(3) リトアニア独立に向けた活動
1905年12月、カイリースはセイマス(Seimas:リトアニア立法府)の副議長に選出されます。その後、1908年からはビリニュスで橋梁技師として、また1912年からはビリニュスの水道局員として働きました。
 
しかし、第1次世界大戦が始まると、リトアニアは1915年にドイツの支配下に置かれたことから、後にリトアニア初代大統領となったアンターナス・スメトナ (Antanas Smetona)らと共に反ドイツの政治グループを結成しました。
 
1916年、カイリースは水道局を辞めて党の仕事に専念するようになります。
 
党がリトアニア独立に向けた活動を活発化させる中、1917年にロシア革命が起こると、ポーランドやリトアニアの復活を望む市民らが蜂起し、1918年2月、リトアニアは独立を宣言しました。共和国が成立(注5) したことで、カイリースは評議会の第1副議長に指名されました。

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独立宣言に署名した20人の評議会メンバー
(右下から2番目がカイリース)

(注5) 1919年1月、日本もリトアニアを承認し、この時から日本とリトアニアの正式な外交関係が始まった
 
しかし、リトアニアの独立はなかなか安定しませんでした。1920年以降、首都ビリニュスの地域はロシアやポーランドに占拠されたため、カウナスに逃れて臨時政府を立てることになります(その後、カウナスの臨時政府は1939年まで続いた)。
 
カイリースは、カウナスの臨時政府で食料供給大臣を務め、1922年にはセイマスに選出されてリトアニア憲法の発布に携わります。その後は、カウナスで水道局長(注6) や大学講師を務めました。
 
(注6) 1912年にもビリニュスの水道局で働いており、カイリースはカウナスの水供給の発展にも多大な貢献をしたという
 
(4) 再び亡国、アメリカに亡命
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦が勃発します。同年10月からソ連軍のリトアニア進駐が始まり、翌1940年6月には16万のソ連兵がリトアニア駐留しました(余談であるが、これを機にユダヤ人の脱リトアニアに向けた動きが活発化し、杉原千畝が「命のビザ」を発給☟)。

1940年8月、ソ連が一方的にバルト三国併合を宣言すると、リトアニアは再び国を失うことになったのです(リトアニアが独立を維持できたのは、僅か38年間だった)。
 
ソ連の支配下で11万人ものリトアニア人がシベリアの強制労働所に送られました。1943年からリトアニア解放中央委員会(VLIK)の初代議長を務めていたカイリースも、リエパーヤ(ラトビア)の刑務所に2か月ほど収監されました。
 
しかし、騒乱の中で脱獄に成功してドイツに逃亡、その後、1951年にアメリカへと亡命しました。そして、再び祖国の独立をみることもなく1964年にこの世を去ったのでした。

カイリースゆかりの地

4 近年のリトアニアについて
(1) 人間の鎖(バルトの道)
1985年にゴルバチョフがソ連共産党第1書記になりペレストロイカが始まるとバルト三国は独立運動を推進し、1989年8月、バルト三国の約200万人以上の人々がリトアニアの首都ビリニュスからエストニアの首都タリンを結ぶ600km以上の道で並んで手をつなぎ「人間の鎖」(バルトの道)を編み上げて、世界にソ連支配への抗議とバルト三国の独立を訴えました。

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「人間の鎖」(バルトの道)

(2) 血の日曜日事件
独立に向けた機運が更に高まる中、1991年1月にソ連はリトアニアに武力を投入して放送局やテレビ塔を占拠、非武装の市民14名が死亡し700人が負傷する事件が発生しました。

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血の日曜日事件

(3) 半世紀の時を越え再び独立へ
しかし、崩壊寸前だったソ連は1991年9月、遂にリトアニアなどのバルト三国を国家として承認(注7) し、51年の時を経て再び独立を果たすことができました。
 
(注7) 同日、日本もリトアニアを再承認し、1992年2月、デンマークに在リトアニア日本国大使館を設置、1997年1月にビリニュスに移転。1998年6月、東京に駐日リトアニア大使館を開設
 
その後、リトアニアは2004年にEU及びNATOに加盟。2007年5月、明仁天皇と美智子皇后がリトアニアを公式訪問。2016年8月、リトアニアとの国交再開25周年を記念して、海上自衛隊の練習艦隊がクライペダに入港。
 
5 リトアニアの対露脅威認識
今般のロシアによるウクライナ侵攻を受けて、リトアニアはEU加盟国の中でも特にロシアの動向に神経をとがらせています。
 
リトアニアは、EU加盟国に対しロシア産原油の輸入禁止を呼びかけるとともに、加盟国の中で初めてロシアからの天然ガス輸入を完全に停止。また、早い段階で駐リトアニアのロシア大使に出国を求めました。
 
駅ではマリウポリなどで撮影された写真を展示、列車到着時はロシア語で「プーチンのせいでウクライナ市民が殺されているが、お客様はそれで良いのですか」とアナウンスされ、公共の場ではロシア軍の象徴となっている「Zマーク」を掲げることを禁じています。
 
ロシア大使館近くの路上には「プーチンよ、ハーグがあなたを待っている」と記載した横断幕が掲げられ、ベラルーシの近くではウクライナ国旗を付した複数の熱気球が上げられました。
 
また、ロンドン五輪の競泳で金メダルを獲得したルタ・メイルティテ選手は、赤く染められた池で泳ぐ動画を自身のTwitterで公開し、ウクライナ侵攻に抗議しました。

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ルタ・メイルティテ選手のTwitterより

このように、殊更リトアニア政府・市民が強い反発を示す背景には、ロシアへの根強い不信感があります。
 
先述のとおり、歴史的には度々ロシアに侵攻されてきたことや、欧州の中でもかなり国力が脆弱という現実があります(国土面積は北海道よりもやや小さく、人口は279.5万人で広島県と同程度)。
 
地政学的には東はベラルーシ、南はカリーニングラード(ロシアの飛び地)、西はロシア軍の活発化が予想されるバルト海(注8) であり、ロシア系の勢力に包囲されています。
 
(注8) ロシアは過去に不凍港を求めてバルト三国の沿岸にロシア海軍を進駐(あるロシア高官は「クライペダはロシアの一部」と発言)。フィンランドなどがNATOに加盟すれば、ロシアは「バルト海方面のロシア軍を増強し、核のないバルト海はなくなる」と脅迫
 
また、ロシアのネオ・ユーラシア主義の代表的な思想家で、プーチン大統領の政治思想に多大な影響を与えているというアレクサンドル・ドゥーギン(Aleksandr Dugin)氏は、その著書「地政学の基礎 ロシアの地政学的未来」の中で、「リトアニアはロシアに従属させるべきだ」といっています。
 
更に、プーチン大統領は、2021年7月に発表した「ロシアとウクライナの歴史的一体性」と題する論文の中で、12世紀にかけて欧州最大の国家として栄えたキエフ公国(ロシア西部、ベラルーシ、ウクライナが版図)の再現を示唆しており、13世紀以降この地域を支配したリトアニア大公国に対する「報復史観」を抱いているとする向きもあります。
 
今やリトアニア国民の大多数がロシアを脅威と捉えており、22年の国防費をGDP比2.5%へと引き上げます(NATOが目標とする2%を達成)。
 
また、リトアニアは2015年から徴兵制を再開しており、年約3,500人の募集枠のうち3分の2は志願者であるといいます。
 
このように、長年、ロシアの脅威に晒されてきたリトアニアは今、「ロシアという国は100年経っても何も変わっていなかった」という失望感に包まれています。
 
ただ、幸いにもリトアニアなどのバルト三国は2004年以降、NATO加盟国というステータスを有していることが、侵略行為に対する大きな抑止力(注9) になっていると思います。
 
(注9) NATOはバルト三国の領空警備(Baltic Air Policing)のため要撃戦闘機をシャウレイ空軍基地などに展開させているほか、1,000人規模の地上軍も駐留。今般のウクライナ侵攻を受け、ドイツが350人規模の部隊を増派
 
おわりに
カイリースの祖国リトアニアを支配していたロシア。この国はカイリースの時代から100年以上の年月が流れた今もなお、周辺諸国に対する領土的野心をむき出しにしています。
 
そして、カイリースが書き綴った新しい国造りに燃え、勇気や品格を備えた東洋の国、ヤポーニア(日本)。彼が憧れ思い描いた崇高な日本人は今、いったいどれだけ存続しているのでしょうか。
 
現在、欧州でロシアに脅威を感じている国は、ロシアやベラルーシと国境を接するフィンランドやポーランド及びバルト三国などが挙げられると思います。
 
いわゆる「親日国」と呼ばれる国々は、(トルコもそうですが)歴史的にこうしたロシアの脅威に晒されてきた国々と比例しています。
 
ロシア軍は、極東方面からもウクライナへの増援兵力を送り込んでいるといわれていますが、国際社会は結束してロシア軍の兵力を特定の方面・地域に集中させないような手立てを講じる必要があると思います。
 
先日、自民党が提言した「反撃能力」を持つことや、欧州と極東の両面から協力できる枠組みを作ることも、その選択肢のひとつなのかもしれません。
 
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2018年にリトアニアのビリニュスとカウナスを訪れました。カイリースや杉原千畝に思いを馳せながら見た数々の美しい風景。
 
どのような国であれ、侵略という暴力でこうした美しい風景を「モノトーン」に変えてしまうことは、あってはならないと思うのです。

左上:トラカイ城、右上:聖アンナ教会 
左下:十字架の丘、右下:ゲディミナス城
左上:旧カウナス領事館、右上:ビリニュス大学 
左下:ビリニュス大聖堂、           
右下:リトアニア料理「シャルティバルシチェイ」
             (Photo by ISSA)