ペロシ米下院議長の訪台に関する考察
8月2日夜、ナンシー・ペロシ(Nancy Pelosi)米下院議長(1940年生、82歳)が台湾を訪問しました。
翌日、ペロシ氏は蔡英文総統と会談し、米国が台湾を見捨てないことを明言し、台湾と世界の民主主義を守る米国の決意は揺るぎないと語りました。
1 経緯等
ペロシ氏はカリフオルニア州選出で、1987年から18期連続で民主党の下院議員を務めています。2003年に議会下院の党トップに就任。その後、2007年には女性初の下院議長となりました。
1991年に北京を訪れ、天安門広場で犠牲者への哀悼の意を示し、民主派支持の横断幕を掲げるという騒動を起こした対中強硬派として知られています。
今回の台湾訪問で、1997年のギングリッチ氏に続いて台湾を訪れた2人目の米下院議長となったわけですが、米下院議長は、大統領不在のときに副大統領の次に職務を代替できる大統領継承権第2位の立場にあり、中・台にしてみれば米国の大物ということになります。
当初、4月に訪台を計画していたものの、新型コロナに感染したため延期になっていました。
2 関連事象
7月20日、米大統領 「米軍は良い考えではないと思っている」と発言。
28日、米中首脳オンライン会談の議題に。党大会を秋に控えた習近平としてはこの動きを看過しがたく、不快感を露わに。
30日、中国軍が福建省沿岸の台湾海峡で実弾演習を実施。翌日、人民日報系の編集長が同氏の搭乗機を「撃墜せよ」とツイート。
8月1日、中国報道官がぺロシ氏の訪台を「中国軍は座視しない」と発言。
翌2日、中国の正毅外相が「火遊びをする米国の政治家たちは好ましくない結末を迎える」と警告。
同じく2日、台湾防空識別圏に中国軍機のべ21機が侵入。また同日、台湾総統府がサイバー攻撃(DDoS攻撃)を受ける。
2日までに、中国の空母「山東」が海南島から出港。同日夜から東部戦区は台湾周辺で軍事演習を開始。
2日、米海軍は台湾東方のフィリピン海に空母「ロナルド・レーガン」、ミサイル巡洋艦「アンティータム」、ミサイル駆逐艦「ヒギンズ」及び強襲揚陸艦「トリポリ」の4隻を配備。
3 台湾訪問劇
こうした中、ペロシ氏は正々堂々と米軍機で台湾に乗り込みました。
この出来事の本質は「米中の意思のせめぎ合い」であり、米中全面衝突には至らないとみられていました。
しかし、タイミングを見誤ると、反発の烈度が変わる場合があり、偶発的な事故から不測事態に発展する恐れもありました。
2日夜、ペロシ氏を乗せた米空軍C-40は、マレーシアを飛び立ち、南シナ海を迂回しながら台湾に向かいます。
中国戦闘機による異常接近や警告射撃、豪軍機が受けたようなチャフ・フレアによるハラスメント等が懸念される中、近傍に展開する米空母艦載機や在日米軍機による援護を受けながら飛行し、同日、何事もなく台湾入りしました。
3日に蔡英文総統と会談したぺロシ氏は、冒頭での述べたように台湾と世界の民主主義を守ることを表明し(他方、これまでどおり米国が踏襲してきた 「一つの中国」政策(注1) と矛盾しないことも表明)、その後、韓国に向け台湾を後にしました。
(注1) 米国は1979年に台湾と断交する一方で、同年、台湾防衛のための軍事行動を大統領に認める「台湾関係法」を制定。「一つの中国」政策の維持(つまり、現状維持)が米国の対中スタンスであるが、近年、このようなあいまい戦略の見直しを求める声が、米国内で高まりつつある
4 その後の動向
ペロシ氏と米軍が去った後、台湾に残されたものは、中国による台湾に対する苛烈な恫喝でした。
4日、中国軍は台湾を取り囲むように設定した航行警報海域で「重要軍事演習」を開始。同日午後、大陸側から不明弾道ミサイル9発(注2) を台湾近海に撃ち込んだのです(うち5発が日本のEEZ内に着弾)。
日本国内でも緊張が走り、特に与那国島の住民に国や自治体から連絡が行き届かなかったことが問題になりました。
(注2) 日本の防衛省は、不明弾道ミサイル9発と評価したが、台湾当局は「東風15B (DF-15B)」(射程約800km)11発だったと発表
5 本事案の論点
(1) 米軍の準備態勢
東アジア周辺地域における米軍の状況を振り返ると、概ね次のような脆弱性が浮き彫りになりました(資料源:一般情報(推定事項を含む))。
① 米空軍の最新鋭ステルス戦闘機F-22やF-35Aなどのアジア展開が終わり、ハワイや米本土に引き上げたばかりだった
② 4月に最新鋭ステルス戦闘機F-35シリーズの座席を射出するカートリッジ(CAD)に不具合が見つかり、総点検が令されていた(実際、7月下旬から一時的に全機が飛行停止となっていた)
③ 米空母 「ロナルド・レーガン」は、近々、横須賀に帰港することになっていた
④ 米太平洋艦隊では、「ロナルド・レーガン」以外で作戦運用が可能な空母は「エイブラハム・リンカーン」のみであり、ハワイ沖で2年に一度の重要な「環太平洋合同演習」(RIMPAC)に参加中だったため、台湾方面に派遣することは難しかった
⑤ 軽空母的な存在の強襲揚陸艦 「アメリカ」は、母港・佐世保での整備作業を終えたばかりであり、最新鋭ステルス戦闘機F-35Bを搭載し運用できる段階にはなかった
⑥ 同じく強襲揚陸艦 「トリポリ」は、②の問題から最新鋭ステルス戦闘機F-35Bを搭載できたか定かではなく、また、ミサイル巡洋艦/駆逐艦の大半は母港・横須賀に入港中だったようで、「トリポリ」の護衛は極めて限られていた
こうした状況から、米軍はいざというときに軍事介入できる状態ではなかった可能性があります。
(2) 米空母の待機位置
1996年の第3次台湾海峡危機(注3) のときは空母2隻を差し向け、圧倒的な軍事力でもって事態を平定しました。
しかし、今回は先述のとおり、派遣された空母は1隻のみで、軽空母的な強襲揚陸艦2隻も作戦運用において心許ない状況だったと思われます。
いずれにせよ、これら艦艇群は1996年のように台湾近海に向かうことはままならず、中国大陸からのミサイル攻撃に晒されない第1列島線外の安全な海域に留まっていたのです。
(注3) 1996年の中華民国総統選挙で李登輝優勢の観測が流れると、中国軍は恫喝としての軍事演習を強行。基隆沖にミサイルを撃ち込むなどの威嚇を行い、台湾周辺で緊張が高まった。これに対して、米海軍は台湾海峡に空母「インデペンデンス」と「二ミッツ」を派遣。当時の中国は有効な対抗手段を持たず、台湾に対する企図は達成されなかった
(3) 失敗だった訪台のタイミング
「サージ能力」ともいわれる米軍のプレゼンスは、その名のとおり「波のように寄せては返すもの」です。
特に、超大国の場合、軍事と外交それぞれの波動の頂点を合わせないと、どんなに素晴らしい外交活動でも失敗に終わることがあります。
そういった意味では、今回、米大統領の発言どおり、米軍としては良いタイミングではなかった。中国側も、秋には党大会も控え、米中関係改善を模索する動きもあった。
しかし、政権側としては議員外交を考慮せざるを得なかった。悩んだ挙句、苦肉の策として「ペロシ氏の判断とは一線を画す」と表明した上で訪台を支援した。
その結果、米国としてはコミットメントを示すという点で大きな成果があったものの、米軍との連携による外交的効果の最大発揮(=中国の反発を最小限に抑え込むこと)に失敗し、その後も、台湾はひとり置き去りにされてしまっているように見受けられます。
(4) C-40の迂回ルートが意味するもの
中国は1996年の第3次台湾海峡危機あたりからA2/AD能力(注4) を高めてきました。
(注4) 接近阻止(Anti-Access)/領域拒否(Area Denial)を意味する略語。A2/AD戦略の細部はこちらを参照☟
南シナ海の九段線(下図参照)の内側を自国の領海と主張し、岩礁を埋め立てて艦艇・航空機・ミサイルを配備した軍事拠点を構築。また、東シナ海でも一方的に防空識別圏(下図参照)を設定し、大陸沿岸に多数の艦艇・航空機・ミサイルを配備しています。
今回、米中間の緊張が高まる中、米空軍C-40は中国が一方的に設定したこれら南シナ海の九段線と、東シナ海の中国防空識別圏を通らないように大きく迂回したのです。
この飛び方は、百歩譲って「ペロシ氏の判断とは一線を画す」バイデン氏の外交的配慮であったとしても、中国による一方的な主張を認めたようなものです。
先述のとおり、この出来事の本質は「米中の意思のせめぎ合い」であり、見かけ上は、今回も米国の意思が通った形です。しかし、C-40を南シナ海と東シナ海から迂回させ、1996年当時には保有していなかった空母による意思表示を行い、米空母や強襲揚陸艦を第1列島線の外に退かせた。
そういった意味では、中国は1996年の第3次台湾海峡危機以降、取り組み続けてきたA2/AD戦略において一定の成果を収めたといえるのかもしれません。
余談ですが、航空サイト「flightradar24」では、C-40の台北到着時の追跡者数は70万人、総閲覧者数は290万人に達しました。
軍用機は信号を切ってどこを飛んでいるか分からなくするのが通例ですが、今回、敢えて信号をオンにして飛行することで世界の関心を集め、中国機によるハラスメントを抑止し、習近平に対し目に見える形で外交メッセージ送るねらいがあったと思われます。
(5) 日本のEEZへのミサイル着弾
日本も他人事では済まされない。弾道ミサイル5発が日本のEEZに着弾しました。今回、中国が撃ち込んだとみられるDF-15Bというミサイルは、もう数十年も前から使い込まれた信頼性のあるミサイルであり、意図的に日本のEEZに撃ち込んまれたのは明らかです。
しかし、どうも場所が洋上であるからか、日本国内ではいまいちこの出来事が「国境で起きていること」という認識が薄い。厳密にはEEZは国境には当たらないのですが、実質的に日本の漁業・海運業者がそこで活動しているのです。
結 言
香港という名の船は沈んだ。そして台湾という名の船も沈みかけている。奪われた北方領土や竹島という名の船は返ってくる気配もない。次は沖縄県尖閣諸島だろうか。尖閣諸島近海で遭難した漁民の自国民保護という名目で、明日にでも中国軍が押し寄せるかもしれない。
そもそも、「危険な火遊び」をしているのは一体だれなのか?
日本の周囲を見渡せば、唯一、日本的なシンパシーを感じるのは台湾だけだと思うのは私だけでしょうか(あくまでも国としてみた場合の話です)。
独善的な国々は、軍事力をつけるほどに、既存の国際秩序やルールを自分たちの都合の良いように捻じ曲げようとします。幾らでも難癖をつけて、平気で噓をつき、国際法や人道に反した卑劣な手段も取り得る。
このような民主国家では採用し得ないようなオプションを取り得るところに彼らの優位性があるのであり、「性悪説」に基づいてパワー・バランスを整えることが極めて重要なのです。
第1列島線の内側が「自由」であるかどうかは中国次第となりつつあり、もはや安倍さんが提唱した「自由で開かれたインド太平洋」とは呼べない状態に。多くの専門家が指摘するように、習近平は3期目となる次の5年間で、間違いなく台湾統一を果たそうとするでしょう。
安倍さん亡き今、誰が本当に国を守り抜く覚悟のある政治家なのか。
次の5年が本当の正念場になる。
この出来事は、その序章に過ぎない。
今、日本は大きな分岐点に立たされているのです。