TOEIC要る・要らない論の第3の視点
アベマTVで「TOEICの英語はつまらないし実践的じゃないから要らない」という内容の討論があった。茂木健一郎さんと有名TOEICプレーヤー?が対立した。
私にとって不思議だったのは、茂木さんがTOEICを運営してる側にやめて欲しかったのか、受験する側にやめて欲しかったのかがいまいち分かりづらいことだった。
私は「受験したい人だけ受験すればいいでしょ」と思った。鬼滅の刃と同じだ。もしあなたがつまらないと思うなら、触れなければいい。
こうりつ
と思っていたのだが、先週とある英語教師の方とお話することになった。そこで思いが変わった。彼女の所属する学校がTOEICの受験を義務にしているのだ。
彼女はもう長年、英語教師として公立中学で英語を教えている。会話もペラペラだし、文章の読み書きも上手だ。なのに毎年12月にTOEICを受験させられて、本業や育児で疲れているのもあって全然スコアが伸びない、ということを悩んでいた。
その時私は初めて受験する・しないの他に「受験したくないけどさせられる」という状態があることを知った。
ものさし
そして茂木さんの言いたいことが少しわかったような気がした。TOEICを受けさせられる子供たちや、TOEICのスコアによって値踏みされる人材たちがかわいそうだというのだ。
それは確かにかわいそうだ。すでに英語を生業として成果を上げている教師にまでスコアを求めてどうしようというのか?
ただし、仮にTOEICテストが廃止されたところで、また似たようなシステムがそれにとって代わられるだけだとも思う。問題はシステムではなく、その根底にある思想である。
つまり、「英語ができるかどうか一目でわかるデータが欲しい」という人々の思いがそれを生み出す。しかもそれは「たくさんの人を同じ物差しで効率よく測りたい」という思いと混ざり合う。
テストそのものには良いも悪いもない。
見えないものを見ようとして
そういうシステムの圏外にいた私にはTOEIC要る・要らない論争がいまいち理解できなかった。
ただ、それでもなおテストの存在よりは人材を手軽に値踏みしたいという気持ちそのものが本当の問題だとは思うけれど。