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バスカー(本当に好きな歌だけが他人の心に響く)

ロンドン・アイを知っていますか?

テムズ川のすぐそばに巨大な観覧車『ロンドン・アイ』があり、その近くの道にはミュージシャンや手品師、大道芸人が切磋琢磨している。

私は昔そこでギターを弾いて歌っていた。あっちではそういう行為をバスキングという。

しばらくはウケ狙いのヒットソングを試し、誰も反応しれくれなかった。

自分のいちばん好きな曲を歌い、1日30回を超える「FUCK!」を浴びて、その後はじめて音楽でお金を稼げるようになった。

朝早くに場所を取って

朝早くからロンドン・アイの近くへ行けば簡単に場所を取れる。ほとんどのパフォーマーは11時以降に来るからだ。

私は朝9時ごろにギターを持って場所を陣取った。友人がくれたキャスケットを裏返して地面に置いた。ここにお金を入れてもらうためだ。まず初めにあるていどの小銭を入れた状態からスタートするのがコツである。

私はたしか1日4時間ずつくらい路上ライブを行った。当時はヒマだったので、毎日そこへ通った。

演奏中の9割ちかくの時間が曇り空だったことをよく覚えている。でも私は意気揚々としていた。路上とはいえ海外でミュージシャンの真似事ができるのがうれしかった。

私はバスカー(バスキングと呼ばれる路上ライブを行う人)だった。

ヒットソングが響かない

私は最初のうち、洋楽のヒットソングをいくつか試した。それは当時流行っていた曲であったり、ビートルズであったり、デヴィッド・ボウイであったり...いちおうイギリスにいるので、なるべくアメリカ人の歌をうたわないように気をつけた。

しかし、誰も立ち止まってくれない。とうぜんお金も投げ入れられない。ボブ・マーリィだけちょっとウケてた気がする。ドレッドヘアの若者が腰を使って踊ってたような...

誰からも反応がないまま2時間、3時間経過すると、自分に演奏できる曲のレパートリーも尽きてくる。

街そしてハスキー

私はやけになっていた。どうせ誰も聴いていないのだし、ということで、自分のいちばん好きな曲を、いちばん大きな声で叫ぶようにして歌うことにした。

ザ・ブルーハーツの『街』、そしてザ・ハイロウズの『ハスキー(欲望という名の戦車)』を、ありったけの大声で歌った。

まずこの国にブルーハーツの曲を知ってる人など居ないし、そもそもすべて日本語なので、この時すでに私は客を集める気も失っていたのかもしれない。

とにかく雲に向かって、自分の体に出せる限りの声を出して歌った。

1日30回のFUCK

ブルーハーツを歌うと気分がよくなった。

自分自身を肯定してもらえたような気がした。

私は立て続けに自分の好きな曲をとにかく歌いまくった。細野晴臣、レイ・ハラカミ、かまやつひろし、泉谷しげる、YMO...ときどきThe Velvet Undergroundも入れた。

この時、よっぽど声が大きかったのだろう、私は通行人と観光客たちに「黙れ」「クソが」「消えろ」「気持ち悪い」等の言葉を大量に浴びせられた。

私自身も歌っていたために、相手がどんなことを言っていたのか明確に覚えていないが、とにかく1日30回は「FUCK」と言われていたはずだ。あと確か、このとき「sick」が「気持ち悪い」という意味なのだと学んだ。

私のそれを超える大声で叫んだ人もいたし、鼻と鼻がぶつかるくらいの至近距離で言った人もいた。

イエス・キリストがそこに居たなら、私はこう言っていただろう。「あなたがエルサレムで受けた罵声とその痛み、お察しします」と。きっと彼は「磔(はりつけ)にされないだけ有難く思え」と言うに違いない。


ストリート・ファイティング・マン

しかしパンクロックを全力でやっているのである。パンクロッカーにとって「FUCK」は褒め言葉だ。と当時の私はなかば本気で思っていた。

だから悔しいとか悲しいとかいう気持ちにならなかった。ブルーハーツはロンドンでも、やっぱりここでも通用するんだ。ぐらいの感覚だった。

世界一いい曲を聴いてくれ。意味はわからなくても、きっと何かが伝わるはずだ。そう信じて歌い続けた。

やがて、面白がって小銭を投げてくれる人が現れた。

いま振り返ると、あれは私の歌に感動したのではなく、文字通りクレイジーな東洋人が面白かったのだろう。

修学旅行生らしき集団が面白がってNOKIA社製の携帯電話を私の顔の近くまで近づけた。遠い向こうにいる彼らの友人に私の"気持ち悪い"歌が届いた。

当時の私はほんとうに頭がおかしかったので、ようやく日本最高のパンクロックがこっちにも伝わったなんて心の中で喜んだ。

悪魔を憐れむ歌

そんな日々を、たしか3週間ほど続けた。

当時の私が、英語におけるありとあらゆる悪口を受けたことを確信している。きっと人種差別的な単語もたくさんあっただろう。

だが、それ以上に笑う人、面白がる人、あとあわれむ人が現れつづけ、私は日ごとに稼げるようになってきた。ときどき硬貨ではなく札を入れてくれた人もいた。

帽子はお金でいっぱいになった。

この帽子もパンク友達のYがくれたものだ。Yは元モッズ(Mods)で、編み込みのネクタイと帽子を私にくれた。ちなみにModsの単数形はFace(フェイス)という。詳しくは『さらば青春の光』という映画を観てください。

終盤にはだんだん自身がついてきて、英語の曲を歌えるようにもなった。英語の曲としては世界一好きな、ローリングストーンズの『Let It Bleed』を何度も何度も歌った。

最高にクレイジーな毎日だった。


すべてのお金で布を買う

そうして貯めたすべてのお金を使って、私はその月の終わりにノッティングヒル駅で降りた。アンティークの布を買うためである。

私はあるアンティーク生地屋に入った。テムズ川の近くにいた連中とは比べ物にならないほどやさしくて品のある店員さんが親切に接客してくれた。

私は路上で稼いだすべてのお金を使って、「これで買えるだけ布をください」と言った。青と白を基調とした布を買った。店員さんが、私に買えるぎりぎりの長さを図ってくれた。ていねいにラッピングしてもらった。

帰国後、私はそれを土産として母にプレゼントした。


痛みの哲学

あの時の経験から、私はnoteにしても本当に言いたいことしか書かないと決めている。

お金や人を集めるために本心と違う言葉を書いたところで、誰にも響かないことをよく知っているからだ。

自分の中にある本当の思いだけが他人を揺らす。

そのとき、誰かが私を憎むかもしれない。でも誰かが私を愛してくれる。

今はそう思う。


あとがき

もちろん、バスキングを通して体験したことは他にもある。現金ではなく熱々のコーヒーとサンドイッチを貰ったりとかね。

しかし、私があのとき体験したこと、思ったことをすべて書き記そうものなら、サーバーの容量がいくらあっても足りないだろう。







#あの失敗があったから