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現代のマッチ売りの少女は、推しの夢を見る

いつだって私は現実から逃げている。
お風呂に入る面倒くささから、専門である作曲の作業から、今日もまた布団から身を起こさなければならないという事実から。


毎日毎日疲れること、めんどくさいこと、自分で勝手に傷ついちゃうことばっかりです。
しかし、それでも朝は容赦なくやってきてしまうので、なんとかごまかしごまかし生きています(たまにさぼるときもあります)。
そんな日々を生き抜くための幾つかの方法のうちの一つとして、私は、「推しを摂取する」という方法をとっています。

私の場合は、主に男性声優さんが沢山関わっているコンテンツのオタクなのですが。
例えば何か辛いことがあったときとか、ご褒美が欲しいときとか、何かにつけて推しの関わっているモノをスマホであさるのが習慣になっています。特に私が精力的に摂取しているのは、「推しキャラの二次創作」です。
ツ○ッターとかね。pi○ivとかね。とてもたくさんの尊い作品が溢れかえってるわけです。B○から夢作品までね。もう同人作家さんに足向けて寝られませんよ。

いつも元気をくれて、ありがとうございます!

それ以外にも、普通にコンテンツの公式さんが出している動画とか、音楽とかゲームなどといった「原作」もバランスよく摂取しております。


ところで、先ほどから、推しを摂取するだのなんだのと言っていますが、推しを「摂取する」ってどのくらい沢山の人が使っている言葉なんでしょうか。
私は誰かの影響だかなんだったのか、気づいたらこの言葉を使うようになっていましたが、私にとっては、推しはまるで栄養ドリンクか、場合によっては薬物かなんかぐらいの効き目のある存在である、というニュアンスで使っていたりします。

推しを摂取している時間というのは、彼らの世界に没入して、彼らの様々な表情を味わえる、このうえなくすてきなものであるのは間違いないと思います。現実をしばし忘れられる、これは推しという存在が私に見せる「夢」であるといってもよいでしょう。
でも、ひとたび二次創作のページを閉じたり、アニメを見終えたりすると、この多幸感あふれる夢はまぼろしとなって目の前から消えてしまいます。さながら童話のマッチ売りの少女が見た、ご馳走のまぼろしのように。


現実世界では、ノルマや時間に追われたり、人とのかかわりに悩んだり、日々いろいろなものがすり減っていきます。
そんな時に見るひとときの夢が、心にときめきを与え、生きる糧を作ってくれるのではないかなと思っています。


しかし、童話のまぼろしも、推しの見せる夢も無限ではありません。火をつけるためのマッチはいつかなくなるし、推しからも永遠に供給があるわけではありません。

マッチ売りの少女は、最期に大事な祖母のまぼろしを見て亡くなりました。はたから見ると、かわいそうかもしれませんが、彼女は祖母に会えてしあわせに亡くなったのかもしれません。


いつまで夢が見られるかはわからない。しあわせな夢は終わってしまうかもしれない。
だけど彼女のように、人生、最後までささやかでもしあわせを感じられれば、(そして欲を言うならそれが自分の好きなもの=推し、であれば)どんなにいいかと思うばかりです。



★はじめて「みんなのフォトギャラリー」を使ってみました。使い方大丈夫かな…?画像お借りしました。ありがとうございます!

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