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アウシュヴィッツ以外の絶滅収容所を知る(2):マイダネク収容所のガス室の謎〜否定論をまずは読む。

アウシュヴィッツ収容所の理解が割と簡単なのは、ルドルフ・ヘスの自伝裁判での証言などで仔細に分かりやすく説明されているからです。アウシュヴィッツはホロコーストの象徴でもあって、ヘス以外からの情報も非常に豊富であり、また否認論もアウシュヴィッツばかり攻撃するので、その分、細いことまで多くの情報に溢れています。

それに引き換え、同じ種類の収容所であるはずのマイダネク強制・絶滅収容所については、議論でもほとんど名前すら出てきません。もちろんそれなりに否定論を目にすることはあります。何せ、ソ連がまず最初に開放し、ほとんど施設が破壊されない状態で占領してしまったものですから、そっくりガス室が残っているのです。

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ですから、否定派にとってはこのガス室は殺人ガス室ではなかったと主張する義務があります。もちろん、否定派は昔からそのように主張しています。否定派の主張の基礎は簡単で、大きく分けて二つあります。

① マイダネクのガス室は衣服等のための害虫駆除室である。残されている文書類にもそう書いてある。

② マイダネクのガス室が殺人用に使用されたという目撃証言はない。

あんまり真面目にマイダネクについての否定論は読んだことがないので、大体そんなもんだろうとしか理解しておりませんが、否定派のやり口は例えば、裁判などをはじめとする戦後の証言や伝聞証言をスパッと切って捨ててしまうため、どこまで信用していいんだか分かりません。

ところが、マイダネクへの否定論論文は割とそこそこあるようなのですが、反否定論の記事は滅多に見かけないのです。いつも使ってるHolocaust Contoroversiesにもほぼないと言っていいでしょう。どうしてなのだか分かりませんが、HCサイトには「Majdanek」のタグをつけている記事はいくつかありますが、マイダネクの否定論それ自体を反論している記事はどうもないようです。

実は、私自身も、マイダネクのガス室はなんだか怪しいと思っています。怪しいと言っても、別に否定しているわけではありませんが、前回記事で少し触れたように、ガス室を積極的に利用しているようには思えない状況には首を捻るばかりです。ただし、だから殺人ガス室はなかった、と考えるのは早計です。よく知りもしないのにそんな断定をしてはいけません。

反否定論記事もなく、Wikipedia以上の情報もあまり知らない状況で、マイダネクに関する知識を深めるにはどうしたら? と考えあぐねた挙句、今回は特別に、「敵を知り己を知らば百戦危うからず」ではないですが、マットーニョ先生の論文を翻訳することにします。歴史修正主義研究会にあるので、そっちを読めば早いのですけど、加藤一郎氏の翻訳ですら怪しいと思うようになったので、自分で訳します。但し、これを書いてる現在、ほんとにマイダネクのことはさっぱり知らないので、妙な翻訳になっていたらすみません。

かなり長いので、分割しようかと思いましたが、全部訳さないと意味はないので、全文一記事にしました。

▼翻訳開始▼

マイダネクのガス室[1]について

カルロ・マットーニョ

ポーランドとソ連の調査委員会が、ルブリンの強制収容所「マイダネク」に殺人ガス室があると発表したのは、1944年8月のことだった。この委員会の「調査結果」に信憑性を与える責任を負ったポーランドの歴史家たちは、非常に不可解な問題に直面していた;一つは、マイダネク強制収容所の中央建設管理局に残された資料に記載されているガス室は、必ず「Delousing Chambers(害虫駆除室)」または「Disinfestation Chambers(消毒室)」と呼ばれていること、もう一つは、現実的には、人間が殺人的にガス処刑されたという目撃報告がないことである。ポーランドの歴史学は、最初の問題を「カモフラージュ」言語の使用を前提とすることで「解決」した。つまり、害虫駆除や消毒に言及している文書は、人間の殺人ガス処刑に言及しているとされたのである。収容所に届けられたチクロンも同じように解釈された。

もう一つの問題は、殺人ガスの発生過程を合理的に具体的に説明する目撃者を一人も提供できなかったことである。ポーランドの歴史学は、殺人ガス処刑(とされるもの)についての短くてきわめてあいまいな記述によって、殺人ガス処刑の雰囲気を醸し出すことに成功した。このようにして、マイダネクの殺人ガス室の存在を決定的に証明するには、単にガス室であったとされる場所が存在するだけでよいという洗練された議論の体系が作られたのである。この主要な物的証拠は、2つの補助的証拠、すなわち、(前述の意味での)目撃者の証言とチクロンの配達によって裏付けられている。

殺人ガス室とされているもののうち、より大きなもの、そして、ポーランドの歴史学によれば、犯罪目的のために最も集中的に使用されたものが、もともと本物のチクロンBガス室であったのであるから、この物質的証拠は決して過小評価されるべきではない。実際のところ、これらの部屋で青酸ガスが使われていたことは、壁が集中的に青く染まっていることから、現在でも(あるいはこの記事を書いている時点で)容易に証明できる。殺人ガス室とされる2つの部屋には、一酸化炭素(CO)を拡散させるために使われたと思われる特別な設備がある。したがって、この問題は極めて深刻であり、残された文書と関係する場所の両方を徹底的に調査する必要がある。

このテーマを扱った今回の論文[2]は、その問いに決定的な答えを出すことを目的としている。マイダネクに殺人ガス室はあったのか?

1. ガス室の数と目的:1944年8月4-23日のポーランド・ソビエト専門家報告

1944年8月4日、マイダネクの解放(連合国軍による占領)から約2週間後、ポーランドとソ連の委員会は、同収容所で報告されている大量殺人ガス処刑施設の技術的・化学的検査を行った。作業は8月23日に終了した。ポーランド・ソビエト委員会は、収容所の敷地内に7つのガス室を設置し、その正確な図面を作成した[3]。これらの前提条件に関する最も重要な情報は、以下の表にまとめられている:[4]。

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委員会は結論として、I、II、III、IV、VII室は大量殺人のために計画・建設されたものであり、VとVI室は消毒室として使用された可能性があるが、殺害された収容者の衣類の消毒にのみ使用されたと述べている。さらに、化学製品をストックするためのバラックで、委員会は以下の52個の物体を発見した。

a.一酸化炭素の空容器5個。
b.ベルリンのAUER Company A.G.製の一酸化炭素フィルター付きの缶1本。
c.容量500グラムのチクロンB容器135個、容量1500グラムの缶400個、これらの缶の90%は空であった。

委員会はまた、これらの物体に実際に何が含まれているかを確認するために、化学的な報告書を作成した。化学反応テストの結果、ラベルに記載されていた「一酸化炭素」と「シアン化水素」が実際に含まれていることがわかった[6]。

2. ガス室の計画・建設・目的

残りの資料は、ポーランド・ソビエト委員会が出した結論とはまったく逆のことを証明している。つまり、マイダネク強制収容所の実際のガス室は、害虫駆除室のような衛生的な目的のためだけに計画・建設されたことを証明しているのである。

1942年3月23日の中央建設局の青写真[7]には、3つの害虫駆除施設が記されていた。1つは、マイダネク強制収容所(マイダネクは当初「捕虜収容所」と呼ばれていたが、1943年4月以降は「ルブリン強制収容所」と呼ばれるようになった)の中央に設置されたH型の施設。H型の設置物は「Delousing(害虫駆除)」と名付けられ、大きなランドリーの隣にあった。もう1つはバラックで、これも「Delousing(害虫駆除)」と名付けられ、収容所の外、北西側にあった。3つ目は、詳細な図面からもわかるように、「武装親衛隊のための衣料工場」と指定された収容所の一部にあった[8]。

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図1:ポーランド・ソビエト委員会が作成した「ガス室」I~IVの地図の詳細[3]

ルブリン強制収容所のH型設置は、1941年10月に計画された。この月は、最初の囚人がマイダネクに到着した月である。ハンス・コリ社が作成した計画では、全く同一の2つのデロシング施設からなる大規模な衛生的複合施設が計画されていた;左側には囚人用の部屋があり、右側には8つの衣類乾燥室からなる部屋があった。

収容者収容設備は、1941年10月23日付の図面J.-Nr.9082 [9]に記載されており、コリ社が作成したものである。同日にその企業がレンツァー親衛隊少佐に送った手紙に記載されている[10]。

説明文と付属の図面からわかるように、構造物の左翼は収容者の害虫駆除のために計画され、次のような手順が用意されていた:衣類を受け入れる脱衣室―前庭―シャワー室―乾燥室―前庭―消毒。消毒完了後[11]、収容者は右翼に入り、脱衣した衣服を受け取った。

前述のコリの手紙にあった害虫駆除設備は、8つの害虫駆除室で構成されていると予測されていた。幅2メートル、高さ2.10メートル、長さ3.5メートルの大きさである。暖房は、2つの部屋の間の2つの外壁の後ろにあるコークスを燃料とする空気加熱器で行う。室内の壁の上部には温風の吹き出し口が設けられ、エアヒーターにつながっている。それぞれの煙突の床の反対側の壁の前には、地下のエアシャフトを介してエアヒーターにつながる換気口が設けられていた。この害虫駆除室は、熱風を使うためだけに計画されたもので、チクロンBを使うためのものではなかった。しかし、コリ社が計画したこの害虫駆除設備は建設されなかった。

1942年3月31日の中央建設局による「ルブリン強制収容所の仮設吸水設備」[12]の図面には、かなり小さいサイズで空気加熱器のない8つの吸水室が示されている。おそらくビルケナウの建物に設置されていたような金属製の除菌装置であろう。

この図面では、40.76m×9.56mの「害虫駆除施設」と呼ばれるバラックの中の13.5m×4mの部屋に、8つの小房が隣り合って配置されている。このセルブロックは、シャワーに隣接した「清潔」な側と、外に面した「不潔」な側を分けていた。受刑者の処理は、次のような順序で行われた:入口・受付―脱衣・シャワールーム―シャワー―着衣ルーム―出口。着替えは次のようなサイクルで行われた:衣類の引き渡し―害虫駆除(「汚れていない」→「きれいな」)-きれいな衣類の受け入れ。シャワールームは40個のシャワーを想定しており、お湯はボイラールームから供給されている。1942年3月23日に作成された図面では、収容所の外に設置されていた害虫駆除設備はこのようになっていた。見学者が立ち入ることのできない建物の窓から見る限り、この計画は、いくつかの変更を加えた上で、実際に小屋42(BW XII)で実行された[13]。この建物には、ボイラー室やコンクリートで仕上げられた部屋などがあり、図面に描かれている建物よりもはるかに大きい。

中央建設局の報告書によると、BW XIIは1942年7月1日に40%完成した。報告書にはこう書かれている。

「BW XII害虫駆除と風呂―その間に建てられたシャワーバスを備えた2つ目の厩舎に加えて」[14]

この2つ目の施設は、次のセクションでご紹介するが、Hut42の隣、東側に建てられたHut14である。

1942年6月19日、SS-WVHAの中央建築物検査室の責任者であったレンツァー親衛隊少佐は、SS-WVHAのBII室から武装親衛隊とポーランド総督府の警察の建築物検査に、「シアン化水素による消毒のシステムに従って」ルブリンの脱衣・着衣建屋のための害虫駆除設備の建設に関する5月27日付けの要請を転送した[16]。

1942年7月10日、中央建設事務所の所長は、すべての管理書類を総督府のWaffen-SSと警察の建築検査に送った。その書類には、最初の割り当て、注釈付き報告書、建物指定A、費用見積もり、500分の1の縮尺の収容所計画、消毒バラックの図面などが含まれていた。送付状には次のように書かれている。

「70,000RM(ライヒスマルク)の金額でルブリンの毛皮・衣服工房に建物XIIとして消毒設備を建設するための建築申請書の補足と、手段と原材料の割り当ての承認と準備の要請を、1942年6月27日の命令の規模に応じて、ここに付属書として同封します。ポーランドの起業家の価格は、コスト見積もりの際に決定されます」[17]

この手紙に添付されていた資料のうち、1942年7月10日付で中央建設局局長が作成した注釈付きの報告書と見積書だけが残っている。 最初のドキュメントは、設置の目的を説明するもので、ここにその全文が示されている。

説明会レポート
ルブリンの毛皮・衣服工場のための消毒設備の建設に関する説明書

親衛隊経済管理本部から送られてきた計画に従って、すべての入荷する毛皮や衣服の素材を消毒するための消毒設備が建設される。殺菌室は、同封の図からもわかるように、天井が鉄筋コンクリートでできており、非常に頑丈に作られている。さらに、この害虫駆除室の上には、ランディングデッキと呼ばれる施設が建設される。ランディングデッキは60.0×18.0mの面積を持ち、殺菌された材料を置いたり保管したりするためのものである。オーブンはもちろん、その他の機器もBII事務局で用意している。それ以外のことはすべて図の通りにして欲しい[18]

「ルブリンの毛皮・衣服工場のための消毒小屋建設に関する費用見積書」は27項からなり、総費用は14万ズロチ(ポーランド通貨)と提示されている。第18節にはこう書かれている。

「クライアントが納品する4枚の気密性の高い鉄製のドアを挿入し、[原文では「einserne」と誤記]錠前屋の助けを借りて、すべてのほぞと石膏の作業を含む。」[19]。

建設事務所の図面「K.G.L. ルブリン消毒施設、建屋 XIIA」[20]には、長さ10.76m×8.64m×2.45mの長方形のブロックに、長さ10m、幅3.75m、高さ2mの2つの消毒室があることが示されていた。各部屋には幅0.95m、高さ1.80mの扉が2つずつ隣接しており、短辺方向にはそれぞれ3m間隔で1組の扉があることになる。2つの消毒室があるブロックの上には、ランディングデッキがあり、また、表面積が18m×60mの長方形で、真ん中で大きく2つに分かれていて、同じ大きさで、「汚れていない側」と「きれいな側」に対応している。消毒室の2つのドアの間のブロックの小さい側にある「きれいな」半分には、上記のコリエアヒーターに構造的に似たコークス燃料オーブン設備が含まれている。オーブンは深さ0.66mに沈んでおり、下部には4つのステップでアクセスできる充填ドアと焼成ドアが設置されている。排煙管は上部に設置されている。

消毒設備にはシアン化水素が使われているため、このオーブンで空気を温め、空気とガスの混合物の循環を促進した。

設置工事は、暖房装置を除いてこの計画に沿って行われた[21]:中央のオーブンは、1942年9月11日に中央建設局が発注したTheodor Klein Maschinen-und Apparatebau Ludwigshafen社製の2つの熱風装置に変更された[22]。1つは消毒室(ポーランド・ソビエト報告書では第3室)の西側外壁に設置された;もう1つは、次のセクションで説明するように、バラック41の「ガス室」に関連するものである。

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クライン式熱風機は、炉(Feuerung)の上に蒸気ベルト(Heizkammer)が配置され、復熱器を内蔵したコークスを燃料とする空気加熱器であった。レキュペレーターは、リブの付いた縦型の加熱パイプを何本も並べたもの。パイプは下の炉室と、上の空気排出路につながっていた。

スチームベルト[23]には、炉の隣の部屋の上にファンがあった。ファンからは圧縮空気のパイプが外に向かって伸びていた。調整用のエアスロットルを備えた吸気管の開口部は、ファンの前に配置されていた。圧縮空気用パイプと吸気用パイプの直径はともに31cmである。これらのパイプは、壁に設けられた2つの丸い開口部を介して、エアヒーターのある場所(Lokal)に接続された。この装置は、炉から出た煙がレキュペレーターのパイプの中を通り、その熱の一部をパイプに放出するという仕組みになっている;煙は煙突を通って外に出ていく。ファンが作動すると、空気吸引管を通って場外に押し出された空気が、赤熱した再生機のパイプに接触して加熱される。そして、圧縮空気のパイプを通って、ファンによってその場に送り込まれた。これにより、常に熱風を循環させることができる。エアヒーターは80,000Kcal/hの発熱量で、空気の温度を120℃まで上げることができる。空気の温度は、エアスロットルと、特別に設計されたエアインテークによって調節され、外から冷たい空気を循環させていた[24]。

チクロンBガスによる害虫駆除では、空気の温度を低めに調整すれば、空気加熱器はデゲシュの循環システムと同じ機能を果たす。

上述のものと非常によく似た空気加熱器が、1942年の秋にアウシュヴィッツ強制収容所(保護収容所)のBW20に設置された[25]。1942年10月22日、中央建設管理局局長は、収容所のさまざまな建設プロジェクトにおける作業の進捗状況について、総司令部の上級SS・警察指導者(SS-Wirtschafter des Höheren SS- und Polizeiführer)のSSエコノミストに報告書を送った。ルブリン捕虜収容所で完成した建設プロジェクトの中には、次のようなものがあった。

「2つの風呂付き害虫駆除小屋は、一部は木製の杭の上に、一部は強固な基礎の上に建てられている。」

ルブリンの毛皮・衣料品工房の建設プロジェクトについては、完成したプロジェクトの中に「消毒設備の建設」が紹介されている。11月1日以降に完了しなければならない残りのプロジェクトの中に、「4つの消毒室の設置」が挙げられている[26]。消毒施設は小屋 41の隣に設置され、2つの消毒室(BW XIIされていた。

先に引用した中央建設局の「1942年7月1日の工事完了率」という報告書からもわかるように、捕虜収容所の建設プロジェクトの中で言及されていたこの2つのデロージング・ハットは、42番と41番の小屋を指していた。しかし、この資料では、小屋41は単なる「シャワーバス付きの馬小屋」となっており、翌月には害虫駆除設備が設置されていたはずである。

この設備は、1942年11月18日付のポーランドのミヒャエル・オクニク建設請負業者ルブリンからの費用見積書にも言及されており、毛皮と衣服の作業場のために、コンクリートの天井に穴(aushauen)を開けることを含めて、「ガス室内」にある0.75m×0.70m×1.70mの2本の大きな煙突のレンガ工事を285ズロチで行っている[27]。

1943年1月8日、ミヒャエル・オクニク社は中央建設局に、ルブリンの武装親衛隊衣服工場に関する対応する請求書を送った。

「[...]レンガ造りの建物内のガス室の煙突の両側のレンガ工事と煙道の供給のための[28]。セメントの天井に2つの開口部を穿ち、0.75×0.75×1.70mの大きさの煙突の煉瓦ライニング」[29]

実際、上述の部屋(Lokal)の天井には、4m離れたところに約60cm×60cmと40cm×40cmの2つの開口部が現在も存在している。前述の請求書によると、この2つの開口部には2本のパイプが設置されており、そのパイプは直径0.75m、高さ1.70mの中央の煙突につながっていた。

BW XIIAに設置された消毒室は、毛皮や衣料品工場の要求には明らかに不足していたため、すでに述べたように、中央建設局はこの同じ建設プロジェクトのために4つの追加消毒室の建設を計画した。ルブリンのミヒャエル・オクニク建設会社と、ワルシャワのポルステファン・バウウンテルネフムング社(建設請負会社)の2つの民間企業が、中央建設管理局から、すでにある建物を消毒施設に変えるという仕事を任されたのである。

両社が提示したのは、旧空港周辺にあると思われる「既存の建物内に4つの消毒室を建設するためのコスト見積もり」であった。オクニク社の見積書は1942年11月7日付で、総額8,855ズロチとなっている[30]。ポルステファン社の請求書は1942年11月10日付で、合計10,345ズロチであった[31]。 この2つの文書から明らかなのは、4つの殺菌室に「鉄製のガス密閉用ドア」が装備され、ドアの開口部の大きさは0.83m×1.93mであったことである。それぞれの部屋は、「ガスオーブン」とも呼ばれる「殺菌オーブン」に接続され、ペントルーフで保護されることになっていた[32]。

3. 殺人目的でのガス室の使用について

上のセクションでは、マイダネクの実際のガス室は、衛生的な目的のためだけに計画・建設されたことを示した。もちろん、理論的には、後になって、殺人目的に変更することは可能であったであろう。このセクションでは、その可能性を技術的な観点から検討する。

ロイヒター報告への回答として、ジャン・クロード・プレサックは、マイダネクのガス室について詳細に、そして部分的には実に鋭く分析している[33]。この分析は、以下の議論の素晴らしい出発点となる。しかし、以下の議論では、ポーランド・ソビエト委員会が使用した施設の番号を採用し、IIIa室を追加している。「部屋IIIa」という言葉は、BWXIIAの東側の害虫駆除室が部屋IとIIに分割される前のものを指すようになっている。

a) 部屋I~III

ジャン=クロード・プレサックは、この施設の起源と発展について専門的な知識を持たず、歴史的に根拠のない仮説を提示している。彼は、2台目のエアヒーターは当初、消毒設備のもう1つの部屋(すなわち部屋IIIa)に設置されていたと考えており、両部屋はもともと熱風消毒室として機能していたと考えている。これらは、実用上の困難さから、後にシアン化水素ガス室に変えられたと推測されている[34]。

しかし、上のセクションで見たように、小屋41に隣接する設備の消毒室は、当初は「シアン化水素消毒システムに従って」設計されていたので、実際には、熱風設備をHCN設備に変更するという問題はなく、せいぜいその逆であった。この問題については後ほど触れることにしよう。

J-C・プレサックによると:

このブロックの最後の改造で、一酸化炭素で人を殺すガス室が作られた。一酸化炭素は、人間を含む温血動物にはもちろん致命的であるが、シラミ対策には全く役に立たないので、この設置が犯罪目的であったことは疑いようがない。

場所B(=部屋IIIa)は、同じ大きさの2つの部屋に分かれており、私はB1(=部屋I)とB2(=部屋II)と呼んでいる。B1には一酸化炭素を導入するシステムがあった。このシステムは、床から30cmの高さにパンチングメタルのパイプが部屋の3辺に沿って設置されている。このパイプはもともと、一酸化炭素の液体を入れたスチール製の容器に接続されていた。ブロックの西側[南側[35]]の中央には、外壁側の部屋が作られていた。この部屋には、一酸化炭素の容器が2つ(2つ目の容器はA室[=部屋Ⅲ]用)と、鉄格子で保護されたガラスの覗き穴があった。殺人的なガス処刑はB1室でのみ行われた。B2室には対応する設備は作られなかった。両方の部屋の天井には、上記の方法で新たに作られた開口部があった。B室の暖房に使われていたオーブンは不要になったため、C室(=部屋Ⅳ)の南(東)の壁に取り外され、再び設置された。この部屋BがチクロンBガス室として使用された後に分割されたことは、その壁のうち、仕切りによって半分に分割された壁が、青い染みで飽和していることからわかる。仕切り自体には、青い色素はまったく見られない。

A室は、外室に設置された2つ目のスチール製コンテナから一酸化炭素を拡散させるための設備も備えていた。設置されているのは、南側の壁(=東側の壁)に沿って、床から30cmの高さにパイプ(B1室よりも直径が小さい)が設置されている。ガスは部屋の隅にあるパイプの両端のパンチングメタルプレートを通って流れる。天井には開口部がなく、側室から内部を見ることはできなかった。

A室、B1室、B2室が殺人目的のシアン化水素ガス室として使われたかどうかは、答えにくく、未解決の問題である。B1とB2の部屋では、天井に開けられた開口部からザイクロンB顆粒が注入されたものと思われる。私が調べた限りでは、SS隊員がはしごで屋根に登ったのを見たという目撃者は報告されていない。この36㎥の2つの部屋は、天井の開口部以外に開口部がなく、扉もなく、人工的な換気も行われていないため、換気には大変手間がかかったことであろう。A室へのチクロンBの導入には困難が伴い、あるマイダネク博物館の歴史家は次のように述べている:「チクロンは、前の部屋[B1]のように天井の開口部からではなく―そのような開口部はなかった―、ドアを閉める前に出入り口から導入された」。率直に言って、ガスマスクを着用し、チクロンBの缶を手にしたSS隊員が、犠牲者の頭と天井の間の30cmの空間に顆粒を振りかけ(部屋の前の床に顆粒が落ちる危険を伴う)、ドアを閉めようとしたときに、犠牲者側の必死の逃亡を引き起こすことなく、それを行うことを想像するのは現実的ではない。

以上の理由から、私はA室がチクロンBを使った殺人目的で使用されたとは考えていない。B1とB2の部屋では、もちろん技術的には可能であるが、これらの建物が実際にこの目的のために使用されたとは考えられない。むしろ、SSは2つの異なる一酸化炭素ガス室(A室とB1室)を用意して、異なる規模の犠牲者グループに使用することを望んでいたようである。A室(36㎡)は250人から350人のグループに、B1室(18㎡)は125人から175人のグループに使用された。この数字は生存者が何度も口にしており、ガス室に送り込まれた輸送の量を示している。最後に、B1とB2の建物の天井にある開口部は、チクロンBを導入するためではなく、換気を促進するためのものだったと考えられる。B2は、天井に開口部があるにもかかわらず、殺人目的でブロックを分割する際の「死の部屋」として、単に受動的な役割を果たしていたように見える。

キャンプが解放されたとき、このブロックを保護していた航空機格納庫が一部破損した。横の部屋には何もなかった。チクロンBの缶は、最初はそこに積み上げられていて、その中身が(天井の開口部からではなく)部屋B1のパイプに空にされた可能性があるという印象を与えた。収容所内で5つのスチール製一酸化炭素容器が発見された。内容物の化学分析の後、そのうちの2つが側室に収容された[36]。

もう一度強調しておくが、プレサックはもちろん、殺人目的でのチクロンBの使用は理論的には可能であると考えているが、実際には、部屋Ⅲではこの可能性を除外し、部屋Ⅰと部屋Ⅱでは疑わしいと考えている。私は、以下の点を考慮した上で、プレサックの主張に同意せざるを得ない。収容所当局が、シラミの駆除だけでなく、殺人目的で両方の消毒室を使用したかったのであれば、天井に開口部を設けて、両方の部屋にチクロンBを導入したであろう。このような開口部がないため、プレサックが述べた理由により、そのような目的のために部屋IIIを利用することはできない。部屋I[37]とIIでは、既存の開口部は非常に小さく(それぞれ26cm×26cm、29cm×33cm)、J.-C.プレサックが表明した見解とは逆に、困難な換気を促進することしかできなかった。プレサックの見解とは異なる。さらに、これらの開口部は極めて専門的ではない方法で天井を突き破って作られており、特にII室[38]では、チクロンを導入するための木製のシャフトさえもない。これらの開口部は、ポーランド・ソビエト委員会の目的のためだけに、急いで天井を破って作られたことをすべてが示している。解放直後にマイダネクを訪れたソ連のジャーナリスト、「赤い星」の特派員コンスタンティン・シモノフが、小屋42の害虫駆除室の天井の開口部については正確に記述しているが、直後に調査した第一室の開口部についてはどこにも言及していないのは、非常に興味深いことである[39]。当時、この開口部は存在しなかったというのが必然的な結論である。

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図2+3:強制収容所マイダネクの41番小屋の脱臭施設の1号室(上)と2号室(右)の天井にある開口部
地図、イラスト1参照)。© C. Mattogno

IIIa室を2つのガス室に分割したという疑惑と、I室とIII室を一酸化炭素ガス室に変えたという疑惑について説明しなければならない。プレサックは、これらの部屋が犯罪目的で使われたことに疑いを持っていないが、彼の確信は、純粋な仮説、すなわち、この設備が実際に一酸化炭素で使われたという仮説に基づいている。証拠の前に結論があるポーランド・ソビエト委員会の、一酸化炭素ガス処刑のための施設の使用に関する記述は、実際には、何の証拠にも基づいていない。二つの事実が、それとは逆のことをはっきりと示している。

まず、収容所のすぐ近くでは、プレサックが正しく強調しているように、両室の前の独房には容器はなく、解放されたばかりの収容者が持ち込んだチクロンBの缶があり、パイプからチクロンBを流し込んで、この部屋で人が殺されたように見せかけることができた。これについては以下に詳しく説明する。

2つ目は、ソ連側が前述の側室(セル)で見つけた5つの鉄製容器のうち2つが、後に小屋52に積み上げられていたことだ。ポーランド・ソビエト委員会の報告書では、この5つのコンテナは一酸化炭素であったとされている。しかし、今日、側室(セル)に見える2つの容器のうち、観察者の右側にある容器には、CO2(二酸化炭素)と書かれている。これは容器の表面にはっきりと刻み込まれている[40]。炭酸ガスが有毒ガスではないことはよく知られている。

これらの事実から、2つの重要な結論が得られる。第1に、5つの一酸化炭素容器のうち1つが本当に二酸化炭素であったならば、他の容器も同様に二酸化炭素であったという疑いが生じ、ポーランド・ソビエト委員会は、他の多くの点と同様に、この点でも欺瞞の罪を犯しているということである[41]。次に、仮に他の容器に一酸化炭素が含まれていたとしても、これらの設備が実際に一酸化炭素のガス化に使用されたという証拠はないのである。このことだけでも、これらの設備の犯罪的使用とされるものに疑念を抱くに十分である。

委員会が化学物質の備蓄品の中から見つけたアウアーフィルターは、大きさも保管方法も、一酸化炭素フィルターの説明と非常によく一致している。毒ガスの専門家は、これらの事柄を次のようにまとめている。

一酸化炭素ガス対策用に開発された各種フィルターの共通の欠点は、吸収物質の吸湿性が高いことである:吸湿性は、フィルター内のろ過材や吸収材の分布を変化させるため、湿った環境での使用は制限され、湿気による早期の目詰まりを防ぐためにフィルター自体の保存にも厳しい対策が必要となる。フィルターは使用前に密閉して保管する必要がある[42]。

今回のフィルターに関しては、これらの厳しい保存方法が完全に守られていると思われる。密封された金属製の箱に入れられ、次のように書かれていた(ロシア語からの再翻訳):

AUERフィルターNo.09903です。1944年6月以降は使用しないでください。最初に使用した日から2年間は使用できます。40時間以上の使用はできません。

初期使用:
日付:使用:時間
From: 宛先
注意 ご使用後は、箱の上下をしっかりと密閉してください。涼しく乾燥した場所に保管してください。

「日付」と「時間」のスペースが空欄になっているので、フィルターがまだ使われていないと考えられる。毒ガス対策用品の保管責任者である収容所の医師は、ラベルに必要な情報が記入されていないフィルターの使用を絶対に許さなかったはずだ。

一方、この一酸化炭素フィルターはもともと汎用性があり、アンモニア、ベンゼン、塩素、ホスゲン、二酸化硫黄、硫化水素、四塩化炭素など、他のガスにも対応している。また、シアン化水素ガスからの保護にも使用することができ、Degea COフィルターは6グラム、Dräger COフィルターは3.3グラムのHCNを吸収することができた[43]。このようなフィルターの存在は、一酸化炭素対策を目的としたものであることを証明するものではない。

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図4:強制収容所マイダネクの小屋41の第一室と小さな付属室をつなぐ、格子だけの密閉されていない開口部(地図、図1参照)。© C. Mattogno

プレサックの仮説は、歴史的に見ても根拠のないものである。特に、I室とII室にパイプを設置したのは、両室が最初に熱風消毒室として使用され、その後、チクロンB害虫駆除室として使用された後にようやく行われたと考えている。

しかし、第三室の東側の壁の全長に渡って固定されたパイプは、強烈な青みを帯びた漆喰で縁取られている[44]。それは、ある意味で青鉄(フェロシアン化鉄)生成の触媒として作用したかのようであった。一方、部屋Iでは、青い色素の痕跡は見られない。

部屋IIでは、ドアと部屋の中央にある内部の仕切りとの間の東側の壁と、仕切りの下部、つまり隣の部屋のパイプが設置されている場所にのみ、青い染みが見られる。このことから、部屋Ⅲではパイプ設置後にHCNが使われたが、部屋ⅢbではHCNが全く使われていないという結論になる。鉄青のシミは小さすぎて、部屋Ⅱの特定の場所にしかない;そのため、北側の壁の外側でのシアンの拡散に対応して、シアンの拡散現象の結果であることは間違いない[45]。

部屋IIIaは、殺菌装置が使用される前から部屋IとIIに分割されており、エアヒーターが計画通りに設置されなかったことを示している。実際、部屋IとIIの東側の壁には、IIIの西側の壁に見られるような、温風の出口と換気のための円形の開口部の痕跡はない。

以上のことから、これらの場所が犯罪目的で使われているというプレサックの仮説は、最初から誤った前提に基づいていることがわかる。また、純粋に技術的な理由からも説明がつかない。チクロンBを導入するために天井に穴を開けるだけで殺人目的に転用できる本物のシアン化水素ガス室が2つあったにもかかわらず、SS隊員は一酸化炭素を使った殺人ガス処刑のための設備を非常に早い時期に設置したとされているが、何のためだろうか。アウシュビッツでのチクロンBによる殺人ガス処刑が完璧に機能していたと言われているのに、なぜマイダネクでは一酸化炭素を使ったのか?

部屋IIIaはガス室として使用するために2つの部屋に分けられており、1つは小グループをガス処刑するため、もう1つは大グループをガス処刑するためであったというプレサックの説明は、技術的な観点からすると、まったく意味のないものである。部屋を分割しても、何のメリットもないばかりか(125-175名の犠牲者のグループは、ガスを無駄にすることなく、大きなチャンバーで簡単にガス処刑されたであろう)、それどころか、ガス処刑の手順をはるかに困難なものにしてしまったのである。まず、扉を開けた後、部屋が向かい合って配置されているので、仕切りが部屋IとIIの自然換気を妨げていた。

その一方で、プレサック自身が認めていたように、部屋Ⅱは「死の部屋」に降格されていた。部屋Ⅰの南側の壁にある小さな窓は、さらに解決できない問題を提起している。現在の状態では、格子で仕切られていますが、気密性を高めるための設備はない[46]。収容所解放後は、シモノフやポーランド・ソビエト委員会が報告したように、独房の観察者側に窓ガラスが取り付けられていただけであった。これが事実であれば、窓ガラスは最初から組み込まれていたのではなく、単に窓に押し込まれていただけであり、固定されたフレームやそのような窓ガラスのための取り付けクランプの痕跡は見られない。そのため、窓は密閉できないだけでなく、取り外すこともできた。しかも、壁の厚さは約40cmしかないので、収容者が簡単に壊すことができた。特に、グリッドは手を突っ込めるほどの大きさである。最後に、このような窓が、殺人ガスの犠牲者を観察するためのものであるならば、部屋Ⅰには必要であったが、部屋Ⅱには必要ではなかったということは理解できない。

そのため、一酸化炭素の利用は除外される。しかし、なぜ2つの部屋に分かれていたのかは説明がつかない。資料がない以上、もう一つの仮説を立てるしかないが、それはプレサックの仮説とは比べ物にならないほど信憑性の高いものだ。2つの容器のうち1つがCO2であり、変換日を考慮すると、次のような説明が妥当であると思われる。

1942年7月から、収容所の「自然」死亡率は壊滅的で、9月には2,431人、10月には3,210人の収容者が死亡した[47]。 当時存在していた「古い火葬場」には、2つの(石油を燃やす)オーブンしかなく、増え続ける犠牲者を処理することができなかった。また、石油も不足していた。火葬場の責任者である親衛隊曹長エーリッヒ・ミュースフェルトが報告したように、これが最終的に同年11月の火葬場の閉鎖につながった[48]。一方、遺体安置所BW14[49]は、外寸が11.50m×6.50mとやや控えめなサイズの半地下の小屋だったため[50]、一度に保管できる遺体の数は限られていた。この絶望的な状況の中で、中央建設局は、小屋41に隣接する消毒設備を、2つの追加の死体安置所に変えることを決定した。そのうちの1つ(部屋III)は一時的なもので、もう1つ(部屋I)は永久的なものとなる予定だった。CO2の容器に接続されたパイプにより、両方の部屋を希望の温度に冷却することができた[51][52]。また、CO2は酸化を遅らせる性質があるため、死体の分解を遅らせることができる。

一時的な死体安置所としての必要性がない場合、部屋Ⅲは本来の目的であるシアン化水素ガスによる消毒に使用することができた。そのように使われていたことは、この部屋のすべての壁に高濃度の鉄青が存在するという、強烈な青色の色素沈着によって証明されている。

部屋Iの南側の壁にある小さな窓については、部屋IとIIIにパイプを設置した時に作られたという証拠はない。1944年1月に新しい火葬場がオープンしたことで、死体安置所としての利用が減少したため、新たな目的が与えられたのであろう。部屋Ⅲは、チクロンBが慢性的に不足していたことから、おそらく空気ヒーターを使った熱風消毒室として使われていた。部屋Ⅰは、目視が必要なもの(武器など)の保管場所として使われていたと思われる。

b) 部屋Ⅳ

このサイトについて、プレサックはこう書いている:

この部屋を殺人目的で使用することは、2つの状況下でしか考えられない:囚人が簡単に壊してしまうような小さな窓を取り除き、機械的な換気を取り入れた。害虫駆除後、2つのドアを開けると、空気の流れができて、有毒な蒸気が小屋の他の場所に流れ込んでしまうからだ。そのため、シャワールームに通じるドアの密閉性は必須であった。しかし、上部の2つの開口部とドアの間だけで換気を行っていたのでは、時間もかかるし効率も悪い。両方のドアが閉まっていたら、熱風を送り込む(オーブンのファンを使う)ことでしか、部屋の換気ができなかった。シアンガスは空気より軽いので、天井の2つの開口部から排出され、大気中に放散される可能性があった。しばらくすると、HCNの残留濃度は危険を伴わずに両方のドアを開けることができるレベルまで下がっていた。この時の空気の流れは、ガスの最後の痕跡を洗い流し、部屋を冷やしていた。そのため、サイトC(=チェンバーIV)は脱衣室として使われていた。殺人目的では、窓が取り外されていれば、収容所内で「最も効率的な」ガス室となっていた。これが収容所のエアレーションの時に行われたかどうかという問題は、その部屋が殺人ガス処刑に使われたかどうかを判断する上で決定的なものであるが、私はその答えを知らないので、判断を保留しなければならない[53]。

前節で見たように、小屋41は単なる「シャワーバス設置の馬小屋」として建設され、1942年7月1日の設計図にもそのように記されている。その最終的な状態の図を、小屋42のオリジナルの設計図(1942年3月31日付の「仮設害虫駆除施設 KGLルブリン」)と比較すると、小屋42は当初、後者と同じ、つまり、消毒に使われた建物の中央部分と同じ設計になっており、したがって、以下のセクター(北から南へ)が含まれていたと結論づけざるを得ない:前庭・入口―受付 ―ヘアカットルーム―脱衣室―シャワーバス―ドレッシングルーム―前庭・出口。このことは、両建物の4つの主要部門である「玄関・脱衣所」「シャワーバス」「衣類の分配」「ボイラー室」「ドレッシングルーム」がほぼ同じ大きさであることからもわかる。

1942年9月末から10月初旬にかけて、小屋41に空気加熱器付きのシアン化物ガス室が作られた。東側の壁にはエアヒーターが接続されていた。10月22日、作業は終了し、この場所は「風呂付き害虫駆除小屋」に指定された。これまで脱衣所と呼ばれていた場所が、建築上の大きな変更もなくガス室として使われていたことは、仮設であったことを証明している。

今日見たところ、部屋Ⅳは非常に不規則な形をしている。2つの死角があり、3面が閉じられているため、換気が非常に困難である。これは42番小屋の散髪室と全く同じもので、天井や北側の壁の漆喰に青い色素が見られる。この青い色素は、南側の壁の漆喰にも見られますが、Ⅳ号室の壁の外側にある。最終的には、東側の壁の前庭の漆喰に、さらに強烈な青みを帯びた色素が現れる。

このガス室には換気の問題があったと思われるが、第2節で見たように、中央建設局は屋根に換気用の煙突を設置することを決定し、前述のポーランドの会社、ミヒャエル・オクニク社にその旨の手紙を出している。1942年11月18日付の関連費用見積書では、0.75m×0.75m×1.70mの大きさの煙突を2本建設し、コンクリートの天井に穴を開けることになっている。しかし、1943年1月8日付の次の請求書によると、ガス室の屋根には1本の煙突しか作られていなかった。煙突は「両側」で「コンクリートの天井にある2つの開口部」に接続された「煙道」でつながっている。これらの開口部が換気の吸気口と排気口であることは間違いない。このことは、ガス室の屋根にある両方の開口部が、空気加熱器の吸引パイプの延長軸に沿って貫かれていたという事実からも明らかである。

ガス室は、殺人目的で設計されたものではない。第一に、マイケル・オクニク社からの請求書に記載されているような煙突の設置は、チクロンBの導入には使用できなかった。なぜなら、HCNで飽和した顆粒は、コンクリートの天井にある2つの平行な煙道に入ることなく、単に暖炉の床に落ちたからである。2つ目は、南側のガス密閉式のドア(シャワールームに通じるドア)が、もちろん外からは閉まっていたことである;しかし、その反対側のドアは内側から閉じられていた。つまり、チクロンBの粒を注入する消毒担当者は、ガスマスクをつけて部屋に入り、北側のドアを閉めて、チクロンを注入し、南側のドアから部屋を出て、シャワールームから部屋を密閉する必要があったということである。殺人ガス処理では、北側のドアの前には死体が山積みになっていて開けられず、2つのドアのうち1つしか開けられなかったとすると、換気が大きく妨げられたことになる。

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図5、図6:強制収容所マイダネクの小屋41の脱酸素施設の天井にある東側(上)と西側(右)の開口部(地図、イラスト1参照)。© C. Mattogno

現在、部屋の天井に見える2つの開口部の大きさは、約60cm×60cm(東側の開口部)[54]と約40cm×40cm(西側の開口部)である[55]。どちらも木の軸につながっていて、板でできた小さな煙突が作られていた。このシャフトは、小屋の屋根の上にある同じく木製の蓋で閉じられていた。煙突の高さは、部屋の天井から測ると約1.15m。現在の状態(サイズと原材料の選択を除く)は、1942年11月18日付のコスト見積もりのドラフトに対応している;建てられた実際の構造は、後に修正されたものである。このことは、部屋の中で、開口部の周りの木の軸が、天井の漆喰のプルシアンブルーの染色を邪魔していることからもわかる。

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図7:強制収容所マイダネクの小屋41の害虫駆除施設の部屋IIIの東側の壁の床近くのパイプの周りに青い染色がある(裏表紙のカラー写真参照、地図、イラスト1参照)。© C. Mattogno

漆喰の色が雪のように白いことからもわかるように、シャフトの周りの多くの場所で漆喰が更新されていた。最後に、シャフト自体には、窓枠とは全く対照的に、青色の色素が少しも見られない[56]。したがって、シャフトが設置されたのは、この部屋でチクロンBが使われなくなった時期に限られていることは議論の余地のない事実である[57]。また、窓枠に青い染みがあったことから、この窓は収容所解放前に存在していたことがわかる。この部屋で殺人的大量ガス処刑が行われた可能性についてのプレサックの判断の拠り所となっている質問には、これで決定的な答えが得られたことになる。

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図8:強制収容所マイダネクの小屋41の部屋Ⅳ(害虫駆除・ガス室)の東側壁の窓(地図、図1参照)。© C. Mattogno

このような変化は、チクロンBの使用をやめ、東側の壁の後ろに設置された空気加熱器を使って、部屋IVでは熱風による害虫駆除が行われていたという前提で説明できるかもしれない。

この仮説は、1943年の夏以降、特に不足していたチクロンBが常に不足していたことからも裏付けられている。その頃、マイダネクではチフスが大流行しており、「収容所の消毒のため」に大量のチクロンが必要とされていた(第5項参照)。これらの改造は、この時期(1943年夏から1944年初)に行われた可能性が高い。収容所に割り当てられた少量のチクロンは、小屋を消毒するために必要だったので、シアン化物ガス室IIIとIVは熱風消毒室に変えられた。

部屋IIIとIIIaの改造に関する上述の仮説は、ガス室IVの設置の説明にもなっている。毛皮・衣服工房の建物プロジェクトのために計画された消毒設備の建設中に、中央建設管理局は、その設備の2つの部屋を追加の死体安置所として使用することを決定した:1つ(部屋I)は常設の遺体安置所として使用され、もう1つ(部屋III)は臨時の遺体安置所として計画された[58]。これにより、元々あった部屋ⅢaはチクロンBの消毒には使えなくなってしまった。これらのエリアの損失を補うために、また、当面使用できなくなった部屋Ⅲの代わりに、もう1つの仮設シアン化物ガス室が小屋41に設置された。その表面積は、部屋IIIとIIIaにほぼ対応している。技術的な管理上の観点からは、これらの建物は、たとえ捕虜収容所の建物プロジェクト内の建物にあったとしても、毛皮と衣服の作業場の一部であった。ガス室設置のために小屋41を選択したのは論理的であった。なぜなら、消毒された衣類は、その性質上、元々の消毒設備の上にあった保護用の屋根の下の「清潔な」部門に簡単に並べることができるからである。1942年10月22日にすでに計画されており、1942年10月7日と10日の2つの見積書にも記載されていた、4つのガス室からなる殺菌消毒設備は、最終的に、毛皮・衣料品工房の建物プロジェクトに、決定的な設備として割り当てられた。

c)部屋Ⅳ、Ⅴ

まず強調しておきたいのは、2つのチクロンBガス室(部屋I-IVが稼動する前に、最初の殺人ガス処刑に使われたとされている)が小屋28に設置されていたという重要な証拠はないということである。

ポーランド・ソビエト委員会の記述、特に同委員会が描いた設備の図[59]は、害虫駆除設備よりも洗濯物の乾燥設備にはるかに似ている。小屋28の中央には、11.75m×6.00mの大きさの部屋が2つあった。それぞれの部屋の天井には、30cm×30cmの開口部がある。これらの開口部は密閉されています。どちらの部屋も、対向する2つの長手方向の壁にある2つの扉を通って、2m×12.15mの2つの錠前(Schleusen)につながっていた。この錠前には、部屋の扉の反対側に、7.50m×12.15mの2つの部屋に通じる2つの扉と、側壁に設けられたアクセスドアがあった。この構造では、2つの部屋の換気が非常に難しくなる。また、空気加熱器は1本のパイプで当該部屋に接続されていたため、空気加熱器は循環用ではなく、空気加熱器から流れてきた熱風を天井の小さな開口部から導入するために使用されていたことになる。気密性の高い蓋は、エアヒーターを使わない時に部屋の中の熱気をより長く保つためのものである;夜間に衣類を乾燥させるときなどに使用する。

この仮定は、ポーランド・ソビエト委員会自身が作成した図によって一部裏付けられている。そこでは、「ガス室VとVI」があったとされる小屋は、乾燥設備を意味する「スシュチルカ」と呼ばれている[60]。

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図9:強制収容所マイダネクの新しい火葬場の殺人ガス室とされる天井の開口部。© C. Mattogno

ジャン・クロード・プレサックは、これらのことを全く知らず、両方の部屋が除湿室であったと信じているが、殺人目的での使用は除外している。彼はこう書いている。

「これらの2つの即席の部屋は、個人の持ち物をチクロンB(HCN)で乾燥させるために使われた可能性が高い。洗濯機の近くにあることは、この仮定を支持する追加的な論拠である」[61]。

これらの部屋での殺人ガス処刑は単にありえないというだけではない。ポーランドの歴史学では、最近、小屋28のガス室とされるものに言及するのをやめて、1つのガス室に置き換えているが、その正確な位置はもちろん、決定できないものである。公式収容所史の中で、ジョセフ・マーシャルはこの点について書いている。

「マイダネクのチクロンBを使うために作られたコンクリート製のガス室は、1942年10月に稼働した。このガスは、アウシュビッツで蓄積された経験を生かして、暫定的なガス室でソ連軍の捕虜の殺害に利用され始めていた」[62]。

収容者の「直接絶滅」を研究してきたCzław Rajcaは、マイダネクに関する膨大な著作の中で、この主張を繰り返している。

コンクリートでできた[ガス]室の建設が完了するのを待っている間、つまり10月の時点では、収容者たちは、風呂(正しくは洗濯機)の近くにある木製のガス室でチクロンBを使って殺され、おそらく中間エリアI(いわゆる小さな火葬場の位置など)に設置された小屋でも殺された。」[63]。

マイダネク収容所への最初のチクロンの配送は1942年7月30日に行われたので(チクロンの配送については第5節で説明する)、問題のガス室は、8月までにはいかないまでも、その年の9月と10月には稼働していたはずである。

しかし、第2項で述べた1942年10月22日付の中央建設局からの書簡には、このガス室についての言及は少しもなく、それは、チクロンBの殺菌消毒室であったに違いない。これは、当時は存在していなかったことを意味している。

d)ガス室Ⅶ

J.-C. プレサックが書いている:

マジダネク博物館の代表館長は、このガス室はほとんど使われなかったと書いている;というのは、率直に言って、まったく使われていないということである。これは、アウシュビッツ・ビルケナウの火葬場のように、すべての火葬場にはガス室がなければならないという一般的な迷信を怒らせないためのフィクションである。その部屋で人々をチクロンBで殺そうと思ったら、建物の中で解剖室、廊下、横たわっている部屋の間にあるその飛び地状の場所は、必然的に人工的な換気を必要としたが、その痕跡はわずかにも存在しない。空気の吹き出しによる自然換気は、推定することが困難な期間、火葬場の完全な避難を必要としただろう」[64]。

これらの発言は驚くべきことであり、異論の余地はない。このことは、ポーランド・ソビエト委員会が施設を視察した後に作成した火葬場の図や、「犯行現場」を目で見て確認することができる。「ガス室(komora gazowa)」と呼ばれる部屋は、実際には解剖室と死体安置室の間にある。

私としては、次のような点を考慮したいと思う。

a.この部屋の壁には、青の色素が少しも残っていない。
b.屋根[65]に開けられた26cm×26cmの開口部については、ポーランド・ソビエト委員会は言及していない。実際には、この開口部は後日、鋼鉄製の補強棒を切断することもなく、部屋Ⅳのように木製の軸を作ることもなく、粗末に突破された。
c.死体安置所に隣接する壁には、2つの覗き窓がある。この窓を閉める方法はなく、ポーランド・ソビエト委員会も言及していないので、両方の覗き窓が元の状態であることを意味している。このことは、両方の覗き窓がオリジナルの状態であることを意味している。したがって、ガス処刑の際には、ガスは死体安置室とオーブン室の両方に侵入したであろう。

4. 殺人的大量ガス殺:告発の起源

以上のように、問題となっている施設は技術的に大量殺人を行うのに適しておらず、その結果、そのような大量殺人は行われなかったのである。ここで、マイダネク強制収容所での大量ガス処刑疑惑の発端を検証しなければならない。

最初の詳細な目撃証言は、1944年に著者名を伏せて発表された。それはA.シルバーシャインによって出版された。今回のテーマで最も関心のある箇所は以下の通りである。

オーブン小屋(強調)は、第1の小屋と第2の小屋の間の10mほどの場所にあった。

外見は他の小屋と似ているが、工場の煙突のような巨大な煙突が2本あるのが特徴だ。

この小屋は3つの部分に分かれており、それぞれがほぼ完全に密閉されていた。第1の部分は脱衣室(図面では「ワードローブ」)。2つ目は、密閉されていた。ここではガスの実験が行われていた(図の「ガス化室」)。3つ目の部屋には、3つの巨大なオーブンが立っていた。この小屋は第1エリアと第2エリアの間にあった[...]。

老人や病人はすぐにオーブンのある小屋に入れられた。最初の部屋では、服を脱ぐように命じられた。2番目の部屋では、2分以内に窒息死した。そして、第2の部屋からオーブンへと運ばれていった。火は地下で燃えていたが、オーブン自体は燃えなかった。しかし、2,000度の熱風を集めた。死体はオーブンに放り込まれた;燃え盛る熱で、体液や水分を完全に吸い取ってしまったのだ。わずかに残った水泡は、乾燥してひび割れていた。その後、特別なトラックが遺体をあらかじめ掘られた墓に運び出した。

1942年の間、毎日、何千人ものユダヤ人がガス室で殺された。毎週のように新しい塊がここに運ばれてきて、それが今日まで続いているのである」[66]。

この目撃者の報告は、歴史的、建築的知識に照らし合わせて、マイダネクでの殺人的大量ガス処刑の物語をその根源までたどることができるように、マイダネクの図で説明されている。

この図は、「脱衣室」、「衣類預り所」(衣類の受け入れ)、「風呂」(シャワー)、「収容者衣類配付室」(新しい衣類の配付)を完備した「風呂・消毒設備II」小屋42を、実に正確に描いたものである。しかし、この報告書は1943年に作成されたものであるにもかかわらず、ポーランド・ソビエトの記述によれば、絶滅計画全体の中心であり、1942年10月にはすでに絶滅が始まっていたとされる「風呂・消毒設備I」(小屋41)についての記述はない。

絶滅施設自体に関しては、目撃者は、確かに存在したが、同じ場所にはなく、同時に存在しなかったさまざまな建物のコラージュをつなぎ合わせた。「ガス室」とは単に小屋28のことであり、目撃者は、XIIA棟にあった殺菌消毒室III、あるいは小屋41にあったガス室を(誤って)配置しているが、これらはいずれも空気加熱器を備えていた。1944年7月には乾燥設備しかなかった小屋28に、それ以前にはチクロンBの害虫駆除設備があったと仮定しても、小屋が火葬場から約110m離れた場所にあり、洗濯機が2つの建物の間にあったという事実は変わらない。

火葬炉についての誤った記述は、一見すると謎に満ちているように見えるが、それは一見しただけに過ぎない。肝心の文章を見てみよう。

「火は地下で燃えたが、オーブン自体は燃えなかった。しかし、2,000度の熱風を集めた。」

この記述は、火葬炉のことではなく、小屋28のコークス焚きの空気ヒーターと害虫駆除室の部屋III、IVのことを指している。第2章で示したように、これらの設備はコークス炉であり、炉は床下にあったため、「火は地下に燃えている」と言っても過言ではなかったのである。オーブンの上部では燃焼が行われていないため、「オーブン自体は燃えず」、「熱風を集める」だけであった。証人が言及した摂氏2,000度という温度は、もちろん、熱風室だけでなく、火葬炉としても、あまりにも高すぎるだろう[67]。報告されている犠牲者の数―1日あたり数千人-別の時点では1943年末までに200万人の犠牲者[68]―は、もちろん純粋に残虐行為のプロパガンダである。

コンスタンティン・シモノフの報告は、解放直後にマイダネクを訪れた無名の著者が、元収容者たちから収容所の話や設備の機能を聞くことができたという点で、特に重要である。シモノフの報告書は、目撃者の証言に基づいており、1944年の7月から8月にかけて収容者の間で流布していた「公式」の収容所の歴史に対応している。したがって、ポーランド・ソビエト委員会のバージョンよりも前のものである。いくつかの点で、その直後に確立された今では義務となっている歴史のバージョンから逸脱している。また、旧火葬場の「ガス処刑室」については言及しておらず、殺人ガス処刑の容疑者を小屋41に隣接する消毒施設に誤って配置している。記述されている殺害方法はかなり独特である:

「小さな窓はどこにつながっているのか? その答えを見つけるために、私たちはドアを開けて部屋を出る。この部屋の隣には、もう一つの小さなコンクリートの部屋がある。小さな窓の先はここである。ここには、電灯とスイッチがある。ここで、小窓から外を見ると、第一室のすべてが見える。床にはチクロンBと小さな文字で書かれた丸い密閉缶がいくつか置かれている:「東方領土での特別な使用のために」[69]。缶の中身は、満員の時にはパイプを通して隣の部屋に導入される。

裸の人が隣り合って立っている;彼らはあまり場所を取らなかった。40平方メートルの表面積に250人が詰め込まれていた。彼らは中に追い込まれた。鉄製の扉は閉じられ、隙間には粘土が詰められて密閉されている。ガスマスクを装着した特別チームが、丸い缶の中のチクロンをパイプを通して隣の部屋に導入した。「チクロン」は小さな青い結晶で構成されており、見た目は無害である。しかし、酸素に触れるとすぐに毒ガスを発生させ、同時に人体のあらゆる中枢に影響を与えるようになる。パイプからザイクロンが導入された。[70]作戦を指揮するSSの男が電気のスイッチを入れた;目撃情報によると、その時間は2分から10分程度だったというが、SSの男は小さな窓から窒息の様子を見ていた。窓からは、死にかけている人たちの無残に歪んだ顔や、ガスが徐々に効いてくる様子など、すべてが危なげなく見えた。死刑執行人の覗き穴は、ちょうど目の高さに位置している。犠牲者が死んだ後、犠牲者は倒れなかったので、観察者は下を見る必要はなかった。実際、ガス室は満杯で、死者は立ったまま動かない状態だった」[71]。(強調は付け加えたもの)

このように、技術的には全く無茶苦茶な殺害方法の記述は、元マイダネクの収容者が殺人ガスを見たことがないことを証明している。シモノフは、ガス室の屋根の上でガスマスクをつけ、チクロンBの缶を手に持ったSS隊員の話をした目撃者はいない;犠牲者がガス管のある2つの場所で一酸化炭素により死亡したことを誰も教えてくれなかった。J.-C. プレサックが正しく述べているように、シモノフが発見したチクロンBの缶は、部屋ⅠとⅢの前の側室に置かれており、缶の中身がパイプを通して室内に導入されているように見せかけていた。元収容者が現場を設定するこのプロセスは、いかなる場合でも、目撃者が大量の殺人ガスの発生時にいなかったことを先験的に証明する。収容所内で大規模な殺人ガス処刑の噂が流れ、元収容者たちが圧制者への復讐のために粗雑にその噂に信憑性を持たせようとしたことは疑いの余地がないが、実際には殺人ガス処刑は行われなかったことを彼らの発言が示している。

シモノフが部屋Ⅳに関して何も述べていないことも注目に値する。元収容者たちが、この部屋を殺人ガス室とは考えていなかったことは明らかである。

後世の目撃者は、あまりにも曖昧で矛盾しているので、今回は省略することにする。長い間、マイダネク記念館の館長を務めてきたヨゼフ・マルサウェクが、収容所の公式歴史の中で、ガス処刑について2行しか言及していないのは、非常に興味深いことである。実際、彼は、アウシュヴィッツでのSS隊員ペリ・ブロードの目撃証言を引用する以外に、マイダネクでのガス処刑の手順について述べることが思いつかなかったのである。

「ガスで殺す技術は、アウシュヴィッツ収容所の政治部の職員ペリー・ブロードによって次のように説明されている。同様の技術がマイダネクで利用された」[72]。

これは館長自身の言葉である!

5. マイダネク強制収容所へのチクロンの納入

ドイツでは、デッサウのDessauer Werke für Zucker und Chemische Industrie A.G.と、コリンのKaliwerke A.G.の2つの工業工場でチクロンBが製造されていた[73]。販売は、特許と製造ライセンスを持つ実質的なメーカーであるディゲシュ社(Deutsche Gesellschaft für Schädlingsbekämpfung GmbH)が行った。ディゲシュ社は直接製品を販売しておらず、フランクフルトの法人であるHeerdt und Lingerl GmbH(Heli)とハンブルグの法人であるTesch und Stabenow, Internationale Gesellschaft für Schädlungsbekämpfung(Testa)という2つの主要な代理店を通じて販売していた。ヘリはエルベ川の西側で、テッシュはエルベ川の東側で、スデーテン地方、総督府、オストランド国家弁務官統治区域、デンマーク、ノルウェー、フィンランドのスカンジナビア諸国を中心に活動していた。マイダネク強制収容所は総督府の領土内にあったため、テスタからチクロンの供給を受けていた。

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収容所の管理者と、テスタと官僚的な理由でチクロンの配布に関わったSS機関との間で、チクロンの配布に関する非常に詳細なやり取りが発見されている。この書簡[74]は、アデラ・トニアクが、書簡のやりとりを構成する60枚の文書のうち37枚を再現して研究している[75]。ポーランド人の著者は、合計7,711kgのチクロンがルブリン収容所に届けられたと計算しているが[76]、彼女の計算には二つの誤りがある。表Iは、チクロンBの注文と実際の配達をまとめたものである。

ルブリン収容所の管理者が、他の目的を排除して、殺菌目的でチクロンを注文したことを、文書が少しも疑わないにもかかわらず、アデラ・トニアクは、歴史的に根拠のない議論を提出して、自分の殺人説に固執することを好んでいる[76]。詳細は省くが、収容所管理者とテッシュ・スタベナウ社との間のやり取りでは、「伝染病の危険」、「収容者の住居と衣服の消毒」、「徹底的な消毒」、「消毒作業」、「収容所の消毒」、「消毒ガス」(すなわち、チクロンB)が繰り返し言及されていることに注目すべきである[77]。アデラ・トニアクでさえ、壊滅的なチフスの流行が繰り返しマイダネクを襲っていたという事実を隠すことはできないし、彼女も認めているようにチフスに対抗する最も効果的な手段がチクロンBであったのだから、チクロンの配達がシラミの駆除以外の目的で使われていたという仮定には正当性がない[78]。

チクロンの配送に犯罪目的を持たせようとする試みは、それまでの数十年間に悪しき効果を発揮していた時代遅れの解釈システムの一部を構成しているが、ジャン・クロード・プレサックによって決定的に破壊されてしまった。1989年に書かれたプレサックは、アウシュヴィッツに配送されたすべてのチクロンBの97から98%は消毒目的で使われ、わずか2から3%が収容者の殺人ガスとされるものに使われたと述べている[79]。実際には、アウシュヴィッツに届けられたすべてのチクロンの2〜3%は、報告されている数の犠牲者をガス処刑するのに十分な量であったので、プレサックの計算は理論的には正しい。しかし、出荷されたすべてのチクロンの2〜3%は統計的に有意であるには小さすぎる量であるので、出荷されたチクロンBの総量は殺人ガス処理の主張を証明するものではない。同じことがマイダネクにも当てはまる[80]。

(註:脚注は省略)

▲翻訳終了▲

長かったですけど、全然内容が飲み込めません。多分、マットーニョの元の書籍には図面なども載っていると思われるのですが、元の書籍のpdfもないようですし、マイダネクのガス室についての図面もなかなか見つけられませんでした。知らないことが多すぎて、ほぼ論評不能です。「この記述は怪しい」と思うところは何箇所かありましたが、無知なのでそれ以上はなんとも言えません。

アウシュヴィッツのガス室とはまるで違うようで、どうにかしてもっと情報を得ないことには、何がどうなってるのかさっぱりわかりません。ただ、ヒント的に思うのは、マイダネクは、ラインハルト作戦上に位置付けられる収容所であることは確かでして、アウシュヴィッツとは異なります。アウシュヴィッツはラインハルト作戦上にある収容所ではありません。ですから、へフレ電報にはアウシュヴィッツは記載がないのに、マイダネクは記載があるのです。

でも、マイダネクには7つのガス室があったとされますが、殺人ガス室はその全部ではないようですね。

ともかく、次回は他の記事を翻訳してお勉強してみましょう。



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