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ホロコースト否定論者の筆頭格マットーニョ論文を自分でやっつけてみよう(3)

マットーニョ論文を前々回前回で見てきましたが、ネット、というか一般の否定派は、マットーニョの論理の誘導に引っ掛かって、「アウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場の図面に書いてあった死体置き場はやはり書いてあるとおり死体置き場だったんだ! ガス室じゃなかったんだ!」と納得してたりするのでしょう。

その理屈が単なるハリボテ理論に過ぎないことを見抜けない限り、説得力はそれなりにあるとは思われます。ネットの素人さんのお話を見ていると、当時の文書資料を豊富に使って論証しているところに魅力を感じている様子です。しかも、マットーニョ理論を反論するのはなかなか大変です。わかって仕舞えばそのトリックは簡単ですが、ガス室否定・大量殺戮否定の結論へと導くためのその理屈は長いので、例えば一言で済むような「ここにこう書いてあるのでそれは間違っている」のような単純な反論ではなかなか反論しにくいものがあります。

しかしながら、ハリボテはハリボテです。どんなに精巧に人の顔そっくりに作られたハリボテのお面でも、ほんのわずかに突っついてそのハリボテお面に小さな穴を開けるだけで、誰もがそれがハリボテだと気づく、みたいなものです。例えば前回までの部分で言えば、肝心の「死体シュートが図面から消え去った」ことをマットーニョは否定出来ていなかったので、実はすでにマットーニョ理論は全面崩壊しているのです。チフス死亡者数の誤魔化しもそうですし、火葬場へのシャワー設備設置計画も実は殲滅作戦終了後の話だったとか、死体安置部屋(場所)は別に図面上の位置を正確に指しているわけではないとか、どれひとつ欠けてもマットーニョ理論は成立しません。

それをこうやって、そのハリボテ自体を一つや二つの穴を開けるだけでなく、ボコボコにして完全破壊するのが今回の論破目的なのですが、ハリボテと言っても、その理屈は当時の文書資料などの様々な情報でその骨組みの補強は施されているので、簡単には崩せません。我々素人には専門家であるマットーニョらのプロ否定派の情報収集力には敵わないので、真正面から論破するのはなかなか困難です。

しかしながら、以前も述べましたが素人でも「あれ?」と思う箇所に気づくことが出来ます。その「あれ?」という箇所を見つけることは割と簡単で、例えば文章の末尾が「であろう」と推測形になっていたり、「であるに違いない」などと実はそれとは違う可能性があるのに、希望的に否定している表現になっていたりする場合です。他にも、例えば火葬場の焼却能力理論のように証明もされていない仮説理論をさも確定しているかのように言うなど、様々なこれに類する手法はありますが、要するに自身の理屈の弱い部分に疑いの目をかけられないように誤魔化してるのです。マットーニョの論理がどういう結論に導こうとしているかに注意して読むと意外と簡単に分かりますよ。

さて今回は、以下の翻訳記事を参考にすると分かりやすいかも知れません。

これは今回の記事の後に出されたマットーニョの記事への反論記事の翻訳ですが、内容は踏襲されていますので、参考になるかと思います。

一応前知識として、私が理解している「正史派」側の内容を如何に簡単に説明しておきます。

「正史派」側が推定する火葬場2の利用開始までの流れ

1943年3月にビルケナウに建てられた火葬場2が稼働開始しますが、建設完了は遅れました。個人的な推測をすれば、当初設計では火葬場2(および3)にはL字型に配置された二箇所の死体安置用地下室が設定されていましたが、1942年12月頃にガス室併設案に設計変更がされたのに伴って、こうした設計変更が色々とあった為に建設が遅延したのだと思います。ガス室は当初案の死体安置用地下室1に設定されましたが、死体安置用地下室2の方を脱衣室に設定する変更はそれよりも後になりました。ここでまず基本的な位置関係をおさらいしておきます。

さて、話は前後しますが、1942年12月に何故ガス室に設計変更されたのがわかるかというと、上の図面で階段Bとある位置付近の古い図面1311(プレサック本p.294)にあったはずの死体を死体安置用地下室に下ろすためのシュートが、1942年12月の図面2003(同p.302)から消えたからです。また新たに上の図面のように階段Bが火葬場2と3の間にある道路側に設けられています。それが以下の図面2003(地下部分)です。

一方で、階段A、つまり脱衣用地下室にガス処理される人々が降りるための階段は最初は設計にはなかったのです。では、最初は脱衣所をどうしようと思っていたのでしょう? よーく見て欲しいのですが、地下ガス室に降りるには階段Bで降りるしかありません。しかしその前には脱衣しなければなりませんので、脱衣所が死体安置用地下室2に設定されていたとすると、地下へ階段で降りて小部屋のようなところを抜けた後、左へ曲がって脱衣所に入ってから、脱衣してガス室に向かう必要があります。するとこの曲がり角は地上から降りてくる人と、すでに裸になってガス室へ向かう人とで混雑が起きてしまうのと、犠牲者たちを間違いのないよう案内しないといけないため、かなり不合理です。要するにこうなってしまいます。

ということは、1942年12月の設計変更時には、火葬場にガス室を併設することには決めたものの、脱衣所までは併設する考えはなかったと推定されます。ではどうしようと思っていたかの答えは、以下の図面です。

この火葬場2の階段Bの位置するところのすぐ側に、上の図で示される長方形が示すバラックを建てたのです。このバラックについて、ゾンダーコマンドのヘンリク・タウバーは次のように証言しています。

1943年3月中旬頃、夕方の仕事が終わった頃、当時の火葬場の親衛隊長であったヒルシュが来て、「仕事があるから火葬場にいてくれ」と指示されました。日が暮れると、最初のトラックが到着し、年齢も性別も違う人たちを運んでいきました。お年寄りの男性、女性、そして子供たちがたくさんいました。トラックは1時間ほど駅まで行ったり来たりして、どんどん人を運んでいきました(註:当時はまだビルケナウ敷地内直行の特別ラインはありませんでした)。トラックが到着し始めた頃、ゾンダーコマンドは奥の部屋に閉じ込められ、そこには先にも述べたように、検死を行った医師たちが住んでいました。その部屋からは、庭先のトラックから降ろされている人たちの泣き声や叫び声が聞こえてきました。彼らは、火葬場の建物に垂直に、火葬場IIの庭への入場ゲートの側にあったバラックに入れられていました。人々は門に面した扉からバラックに入り、焼却炉の右手にある階段(註:階段Bの事)を下りて行きました。当時、そのバラックは脱衣所として使われていました。しかし、一週間ほどしか使われず、その後解体されました。その後、火葬場の地下部分には、先ほど説明した地下脱衣所へ続く階段(註:階段Aの事)を通って、人々が追い込まれていきました。

なぜ最初は、脱衣所をバラックにしようと考えていたかについての答えは簡単です。ビルケナウの火葬場でガス処理を行う前はビルケナウ敷地外のブンカーでガス処理(1942年3月〜1943年3月)を行なっており、その時は脱衣所はブンカー近くにいくつかバラックを作ってそこで脱衣してもらっていたため、単純に同じ発想をしたからだと考えられます。

これらは、ホロコーストの事情をほとんど知らないレベルの人からすれば、あまりに打算的で無計画に見えるかと思われます。それらの人は最初からビシッと具体的な「ユダヤ人絶滅計画」なるものがあってそれに基づいて行動を起こしたと思っていますが、実情は全く違っていて、上部組織から降りてくる命令を可能な範囲で実行しようとして、現場の実情を考えつつ様々に試行錯誤を繰り返しながら、現場でその都度計画を立てて柔軟に変更を加えつつ実行に移していったのです。実際は、それらのホロコースト否定の初心者の考えよりもはるかに現実的でした。

では、マットーニョの以下の論文を、以上の解説および前々回前回の内容を踏まえた上で読解してみて下さい。マットーニョが極めて強引な論理展開をしていることがある程度は自力でわかるかと思います。今回は、一箇所の注意事項を除き、翻訳中には一切注釈を入れません。それをやろうとすると、細かい注釈が増えて非常に読みにくくなるからです。それくらい指摘可能な箇所はたくさんありますが、実際には翻訳終了後にマットーニョの論述より短い批判だけで論破完了なのです。いずれにせよまずはじっくり読んでみてください。マットーニョは非常に微に入り細に入り小細工を施してますので、騙されないように注意してください。

▼翻訳開始▼

註:ここでも前章同様、以下の通りの翻訳とします。
Auskleideraum:脱衣スペース
Auskleidekeller:脱衣用地下室
Entkleidungshütte:脱衣のための小屋
Entkleidungraum:脱衣のためのスペース
ただし今回はそれほど重要ではないので強調表示とはしません。とは言え注意して読んで下さい。

III) ビルケナウ火葬場の脱衣スペース II:起源と機能

1)脱衣スペース:生者のためか、死者のためか?

セクションIでは、ビショフが1943年5月13日の報告書で言及した「火葬場3の脱衣スペースにシャワーを設置する」というプロジェクトについて触れた。以下では、ビルケナウの火葬場にあったそれぞれの「脱衣スペース」の起源と機能を検証する。

J.C.プレサックの論文(R.J.ヴァン・ペルトが全面的に採用したもの)によれば、ビルケナウの火葬場IIは、通常の衛生的な施設として計画・建設されたが、[1]。

その結果、1942年10月末に、彼らは、1941年12月に第一火葬場の死体室で行われたように、ブンカー1と2のガス処刑を機械的に換気できる火葬場の部屋に移すという、それ自体は論理的なアイデアを思いついたのである。

プレサックによると、この考えは1942年11月に具体化しており、「SSの建設管理者は、火葬場にガス室を設置することを決定した」[2]。プレサックがこのことを最初に示したのは、すでに見たように、1942年12月19日の計画2003であり、「図面932と933のカバーシート、地下室入口の道路側への移転」であり、その中で死体シュートが削除されたとされている。通常の衛生的な施設として計画・建設された火葬場が、その後、絶滅施設に変更されたというこの解釈は、第2節で引用した文書に照らして、すでに根拠のないものである。なぜなら、自然死した囚人の死体を火葬場の死体安置ホールや地下室に保管し、火葬炉で火葬することができなくなったからだ。

プレサックにとって、火葬場での人体ガス処刑の決定は、1942年12月19日にすでになされており、それ以降は中央建設管理の計画に反映されていた。死体安置用地下室1に吸気・排気システムしか計画されていなかったので、この論理によれば、この場所は必然的にガス室として計画されたことになる。そして、大量絶滅が計画されていたのであれば、将来の犠牲者のための脱衣スペースの機能が死体安置用地下室2に割り当てられたのは、アウシュヴィッツ基幹収容所の火葬場1ですでに実践されていた(プレサックによれば、常にそうであった)のと同様に、必然的なことであったにちがいない。

したがって、死体安置用地下室1を人間殺しのガス室に改造するという決定は、死体安置用地下室2を脱衣スペースに改造することを意味しており、この2つの決定は同時になされたに違いない。実際、いくつかの文書では、クレマトリウムIIの死体安置用地下室2は「Auskleideraum(脱衣スペース)」または「Auskleidekeller(脱衣用地下室)」と呼ばれているが、これはプレサックにとっては「犯罪的表示」であり、この火葬施設の絶滅機能の疑いを指し示している。「脱衣スペース」という言葉が最初に登場するのは、1943年3月6日付のビショフからトプフ社への手紙である。中央建設管理の責任者は、死体安置用地下室2について次のように書いている。

同様に、脱衣スペースの換気システムの変更のために、追加の見積書を送るように要請されています。

しかし、この脱衣スペースは本当にガスによる大量殺戮計画の犠牲者のためのものだったのだろうか。

2)ビルケナウ火葬場IIの脱衣スペースの起源と機能

プレサックが知らなかった2つの文書は、火葬場2の地下に脱衣スペースを作るという決定について書かれており、今提起された疑問に明確な答えを与えることができる。

1943年1月21日、アウシュヴィッツのSS現場医師は、次のような内容の手紙を収容所の司令官に届けた[4]。

1.  アウシュヴィッツのSS現場医師は、ビルケナウの火葬場の新しい建物に計画されている解剖室を、仕切り壁で2つの同じ大きさの部屋に分け、その2つの部屋のうちの第1の部屋には、実際の解剖室として必要なので、1つまたは2つの洗面台を設置し、第2の部屋は解剖室として使用することを求めています。解剖標本の作成、ファイルや筆記用具、書籍の保管、組織の染色切片の作成、顕微鏡の操作などに必要な部屋。

2. さらに、地下の部屋に脱衣スペースを設けることを要望します。

この手紙のおかげで、私たちのテーマにとって最も重要な結論を導き出すことができた。

1. 火葬場に脱衣スペースを設置することを決めたのは、収容所司令官(ヘス)でも中央建設部(ビショフ)でもなく、SSの現場医師であった。

2. SSサイトの医師は、この要求を他の要求よりも重要視しておらず、むしろ解剖室に関する厳格な衛生的要求の単なる付録となっていた。

3. 火葬場は、衛生面と法医学の観点から、SSの現場医師に従属していた。彼は関連プロジェクトに精通しており、このケースのように、中央建設管理者に介入して修正を提案することもあった。今引用した手紙は、SSの現場医師が、死体安置用地下室2を将来のガス処刑犠牲者のための脱衣スペースに変えるという疑惑の計画について、少なくとも知らなかったことを証明している。彼は、死体安置用地下室2に特に言及することもなく、死体安置用地下室1を明確に除外することもなく、「地下室」に脱衣スペースを設置することを一般的に要求した。彼の重要な立場を考えれば、2ヶ月前に死体安置用地下室2に脱衣スペースを作るという決定を、SSの現場医師が知らなかったということはありえないだろう。しかし、彼は何も知らなかったので、そのような決定はなかったというのが論理的な結論である。引用された文書が示すように、脱衣スペースのアイデアは1943年1月にSS現場医師にもたらされ、同月21日にアウシュヴィッツ収容所の管理者に伝えられた。

1943年2月15日、捕虜収容所(すなわちビルケナウ)の建設管理の現場監督であるヤニシュ親衛隊少尉は、親衛隊医師指揮官に次のような手書きのメモを返信した[5]。

1)は配置されました。
2)の脱衣のために、地下室の入り口の前に馬小屋のバラックが設置されました。

火葬場の脱衣スペースは何のためにあるのか? また、そのためのバラックの建設は、どのような目的で想定されていたのだろうか?

プレサックは、火葬場2の前にある馬小屋が、ヤニシュが発表した場所、すなわち「地下室入口の前」に、1943年3月20日の「アウシュヴィッツO/S捕虜収容所の敷地図」に確かに登場していることを指摘している。彼はこの事実について次のようにコメントしている:[6] 。

この図面は、1943年3月に、火葬場2の北側の中庭に馬小屋タイプの小屋が建てられたことを確認している。 この小屋については、この火葬場でガス処刑された最初のユダヤ人グループの脱衣スペースとして使われた後、すぐに取り壊されたことを除いては、ほとんど知られていない(ゾンダーコマンドの証人ヘンリク・タウバーによると、わずか1週間後に取り壊されたとのことである)。PMOのアーカイブ、BW 30/40, p.68eで見つかった死体安置用地下室2のアクセス階段についての最初の記述は、1943年2月26日のものである(文書7a)。この入口が使えるようになると、脱衣のための小屋(Entkleidungshütte)が不要になった。

プレサックは後にこの問題に戻るが、次のような新しい説明をしている[7]。

1943年3月14日の日曜日、メッシングは「脱衣用地下室2」と呼んでいた死体安置用地下室2の換気装置の設置を続けた。その日の夜、クラクフのゲットーにいた約1,500人のユダヤ人が、火葬場2で行われたガス処刑の最初の犠牲者となった。 彼らが服を脱いだのは、まだ道具や換気装置がたくさんあった死体安置用地下室2ではなく、火葬場の北側の中庭に仮設された馬小屋のような形の小屋であった。

その後、プレサックは最初の解釈に戻っている:[8]。

建設管理者からのこの資料は、1943年3月中旬に、火葬場2の北側の中庭に南北に走る小屋が建設されたことを確認している。ヘンリク・タウバーによると、この小屋は脱衣のためのスペースとして使われていたが、これは、地下の脱衣のためのスペース(死体安置用地下室2)へのアクセス階段がまだ完成していなかったためであるという。

プレサックはここで、ヘンリク・タウバーの以下の発言に依拠している:[9]。

これらの人々(犠牲者)は、当時、火葬場の建物に平行して設置されていたバラックに詰め込まれました。バラックは、入り口部分から第2火葬場の中庭まで設置されていました。人は入口部分のドアからこのバラックに入り、工場の焼却炉(シック)の右側にあった階段を下りて(地下に)入りました。このバラックは当時、脱衣スペースとして使われていました。でも、1週間くらいしか使われず、取り壊されてしまいました。

プレサックは1943年3月20日の計画2216を全文掲載しているが、判読できないキャプションが付いている[10]。 しかし、彼はこの計画の別のバージョン(アウシュヴィッツ博物館に別のネガの形で保存されている)の拡大図にも言及しており、キャプションが容易に判読できるようになっている[11]。 ここでは、火葬場2の前にあるバラックが明るい長方形で示されている。この記号は、完成したバラック(そのようなバラックには暗い長方形が使われていた)や建設中のバラック(そのようなバラックには斜めの長方形が使われていた)に対応するものではなく、計画中のバラックに対応するものである。このことは、プレサックが発表したこの計画の別の拡大図を見れば、さらに明らかである[12]。

ちなみに、プレサックが引用した図面の直前に作成されたビルケナウの別の図面がある。1943年3月の「強制収容所および捕虜収容所の建設と拡張のための開発計画、計画番号2215」[12a] 2215という番号がついているので、1943年3月20日に完成した前述の計画Nr.2216の直前に作成されたものである。

このバラックがなぜプランNo.2216にしか登場しないのかは不明である。また、建設中の計画兵舎と完成した兵舎を示している1943年2月17日の計画番号1991[12b]にも、ヤニシュのメモによれば、この兵舎は1943年2月15日にすでに建設されていたにもかかわらず、表示されていない。その理由は、このバラックの仮設性と緊急性の高さにあったらしい。このバラックがいつ建てられたかはわかっていない。しかし、このバラックが疑惑の人間ガス処理とは無関係であることは確かである。

さらに、死体安置用地下室2の入り口がまだ完成していなかったためにバラックを設置したというプレサックの最初の説明は、ほとんど意味をなさない。実際、火葬場3に関して、プレサックは次のように書いている[13]。

1943年2月10日、フタの監督コルベの指示で、火葬場3の死体安置用地下室2(将来の脱衣スペース)への西側アクセス階段の開口部の作業が始まった。この作業は6日間かかり、15日に完了した(PMO Dossier BW 30/38, pp.25-27)。第二火葬場の対応作業がいつ行われたのかは不明である。唯一の記述は、第三火葬場での関連作業が完了した11日後の2月26日のものである。

ビルケナウ収容所の計画2216が描かれた日である3月20日に、アウシュヴィッツのSS現場医師である親衛隊大尉ヴィルツは、すでに引用した収容所司令官への手紙を書き、次のように述べている[14]。

囚人病棟から火葬場に遺体を運ぶためには、50体の遺体を運ぶことができる屋根付きの手押し車を2台用意しなければなりません。

これで一件落着だ。SSの現場医師は、死んだ収容所の囚人が安置されている劣悪な衛生環境に懸念を抱いていた。簡素な木製の小屋が安置室となっており、死体はネズミに無防備な状態で放置されていたため、ヴィルツが1943年7月20日の手紙で警告したように、ペストが流行する危険性があった。この危険性は、明らかに1月の時点ですでに存在していた。そこでヴィルツは、衛生的に安全な場所に遺体を安置することを要求したが、それに最も適していたのが、当時すでに建設が進んでいた火葬場2の2つの安置室であったことは言うまでもない。1943年1月21日、ヴィルツは火葬場の「地下室」に死体用の脱衣スペースを設置することを要求した。 1月29日、ビショフは、死亡した収容所の囚人の死体を死体安置用地下室2に安置することはできないが、「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)」をこの目的に使用することができるので、このことは重要ではないと伝えた(以下参照)。2月15日、ヤニッシュはSSの現場医師に、死亡した収容所の囚人の遺体を脱がす部屋として、第二火葬場の「地下室の入り口の前に馬小屋が建てられた」と報告した。このバラックは1943年1月21日から2月15日の間に建てられたものであり、この理由から犯罪目的ではなかったと考えられる。このことは、火葬場2が1943年2月20日に稼働したという事実からも確認できる。1943年3月29日付のキルシュネックの報告書には、この火葬場について次のように記されている:[14a]。

1943年2月20日に全ての石積みが完了し、サービスが開始された。

したがって、死体安置用地下室1の換気システムが設置される前から、火葬場は稼動しており、この地下室は、理論的には人間用ガス室の役割を果たす前から、死体の保管に使われていたのである。

それにしても、なぜバラックが必要だったのか。捕虜収容所の火葬場に関する1943年1月23日のカムラーへのビショフのレポートNo.1では火葬場2の建設状況は以下の通りとなっている。

地下室2鉄筋コンクリート床打ち終わり(型枠撤去は天候次第)

エンジニアのクルト・プリュファーは、1943年1月29日の報告書で次のように記録している[16]。

死体安置用地下室2の天井は霜が降りていてまだ剥がせません。

同日、キルシュネック親衛隊中尉は次のようなメモを確認した[17]。

死体安置用地下室2は、天井の型枠を除いて、今のところ完成していますが、この作業は霜のない日に限られます。

最後に、1943年1月29日、ビショフはカムラーへの手紙の中で次のように書いている[18]。

火葬場2は、言葉にならないほどの困難と、昼夜を問わず霜が降りるような天候にもかかわらず、総力を挙げて建設されました。

エアフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社のチーフエンジニアであるプリュファー氏の立会いのもと、炉に火が入れられ、完璧に機能しています。

死体安置用地下室の鉄筋コンクリートの天井は、霜が降りていてまだ剥がすことができませんでした。しかし、これは重要なことではありません。なぜなら、この目的のためにガス処理用地下室を使うことができるからです。

1943年2月の最初の2週間、ビルケナウの気温は少なくとも10日間、朝は摂氏マイナス1度からマイナス8度、夜は最低気温がさらに低く、午後の最高気温は摂氏マイナス3度からプラス6度だった[19]。そのため、死体安置用地下室2は、鉄筋コンクリートの天井の型枠を取り外すことができず、まだ使用できなかった可能性が高い。死体安置用地下室2(地下室入口)の外部入口の建設に関する唯一の現存する文書は、1943年2月26日付である[20]。 問題の作業は、おそらくその日か数日後に開始され、火葬場3の場合と同様に、おそらく1週間以内に完了した。3月8日、トプフ社から派遣された配管工のハインリッヒ・メッシングは、彼が週報で定期的に「脱衣用地下室」と呼んでいた死体安置用地下室2に通気管の設置を始めた[21]。作業は1943年3月31日に完了した(「換気システムを脱衣用地下室に敷設」)[22]。

したがって、SSの現場医師の要請に応じて、中央建設管理者は3月8日にはすでに、脱衣スペースを火葬場2の地下、すなわち死体安置用地下室2に設置することを決定していた。3月20日、メッシングはまだ設置作業を終えていなかったので、ビルケナウ収容所の火葬場2前の図面2216には、ヤニシュが2月15日に発表したバラックの「脱衣スペース」が、当面は「予定」としか表示されていない。その後、4月の初めから死体安置用地下室2が使えるようになったため、建てることはなかった。一方、死体安置用地下室1は3月13日にはすでに稼働していた(「地下の換気・脱気システムを稼働させる」)[22]。

2,191人のギリシャ系ユダヤ人がガス処刑されたとされる3月20日[23]、SSの現場医師は、収容所の病院から火葬場2への死体の移送に関心を持っていただけで、ガス処刑者とされる人々のことを少しも言及していなかった。

ここでは、冒頭の2つの質問に回答する。

1. 脱衣スペースは、死亡した登録囚人の遺体を入れるためのものだった。ベルゼン裁判では、1944年5月8日からアウシュヴィッツII(ビルケナウ)の司令官であった親衛隊大尉カルマーがこのことについて次のように述べている[24]。
「日中に亡くなった人は、死体安置用建物(Leichenhaus)と呼ばれる特別な建物に運ばれ、遺体は毎晩、トラックで火葬場に運ばれた。囚人がトラックに乗せたり、トラックから降ろしたりしていた。彼らは火葬の前に、火葬場の囚人たちに服を剥がされた。着用者が伝染病で死亡していなければ、衣服は洗浄されてリサイクルされた。」(英語からの逆翻訳)

2. 火葬場の前にバラックを建設するのは、もともと脱衣スペースとして計画されたもので、SSの現場医師が脱衣スペースの建設を要求した1月21日には死体安置用地下室2はまだ使用できず、3月31日までそのままだったからだ。

3)ビルケナウ第二火葬場の「ガス処理用地下室」

註:ここでは以下の単語を下記のように翻訳します。
Vergasungskeller:ガス処理用地下室
Gaskammar:ガス部屋

通常はどちらを訳そうと「ガス室」になりますが、念のためわかりやすいように区別します。強調はしません。

よく知られているように、プレサック以前から、公式の歴史学は、上に引用した1943年1月29日のビショフのカムラーへの書簡に登場する「ガス処理用地下室」という用語を、火葬場2に人間を殺すガス部屋が存在した証拠ではないにせよ、状況証拠として分類していた。ここでは、この表現が出てくる文脈と、文章全体の意味に主眼を置いている。

ビショフは、死体安置用地下室の鉄筋コンクリートの天井から型枠を取り外すことは、霜のためにできなかったが、「この目的のために」「ガス処理用地下室」を使うことができたので、それは重要ではなかったと書いている。この手紙によると、実際には、「ガス処理用地下室」が死体安置用地下室2の機能を果たしていたことになる。

「死体安置用地下室2」が犠牲者の脱衣スペースであり、「ガス処理用地下室」がガス部屋であったと仮定すると、ガス部屋が脱衣スペースと同時に使われることはあり得ないのではないだろうか

ガス部屋は同時に脱衣スペースの役割も果たしていたのではないかという反論もありうるが、それならば、なぜ、中央建設管理局は、タウバーやプレサックが断言しているように、犠牲者の脱衣のためのスペースとして火葬場の前にバラックを建設させたとされているのであろうか。

強調しておきたいのは、ビショフの手紙(註:「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)」の記述がある1月29日の手紙のこと)で提起された問題は、厳密には暫定的な性質のものであり、「死体安置用地下室2」がまだ稼働していない間だけの問題であったということだ。1943年1月29日とそれに続く日には、「ガス処理用地下室」を「この目的のために」、つまり死体安置用地下室として使用することができた。しかし、当時、ビショフが前述の手紙で指摘しているように、トプフ社は「貨物の封鎖のために」「吸気・排気装置」をまだ納入しておらず、したがって、「ガス処理用地下室」はいかなる場合にも人殺しのガス部屋として使用することはできなかったのである。

この解釈によれば、通常の衛生施設として計画・建設された火葬場が、その後、殺戮施設に変更され、死体を死体安置部屋に安置する可能性や、その後のオーブンでの火葬の可能性が排除されたことになるが、これは先験的に無意味なことである。換気装置がないためにガス部屋が機能しなかったのであれば、なぜ犠牲者がまだ服を脱ぐことが許されるのか? そして、実際、誰もガスを浴びることができなかった場合、どのような犠牲者が出るのだろうか?

まとめてみよう。犠牲者たちは死体安置用地下室2で服を脱ぐことができなかった。このスペースは使用できなかったからである。「ガス処理用地下室」で服を脱ぐことはできたが、そこでも死体安置用地下室2でもガス処理を受けることはできなかった。

このように、ビショフの手紙は全く別の解釈をしなければならないことは明らかである。死体安置用地下室2は、まだ稼働していなかったので、「自然」に死亡した登録済みの囚人のための死体安置部屋や脱衣するためのスペースとしての役割を果たすことはできなかったが、死体は脱衣して「ガス処理用地下室」に保管することができたので、このことはそれ以上重要ではなかった。しかし、なぜ死体安置用地下室1が「ガス処理用地下室」と呼ばれていたのかを明らかにしなければならない。

火葬場2の地下室の犯罪的改造とされる作業は、1942年7月にビルケナウで発生したチフスの流行が、まだコントロールされていない時期に始まった。囚人の死亡率は紛れもない減少傾向を示していたが、8月には約8,600人、9月には約7,400人、10月には約4,500人、11月には約4,100人、12月には約4,600人、1月には約4,500人と、非常に高い状態が続いていた(25)。

註:幼稚なトリックに引っかからないように繰り返し注意喚起しますが、その死亡者数は「チフス」だとはどこにも書いていません。

1943年1月9日、ビショフは、「捕虜収容所兼強制収容所アウシュヴィッツの衛生施設」というテーマでカムラーに書簡を書き、その中で、すべての殺菌消毒・害虫駆除施設を列挙した:強制収容所アウシュヴィッツには5つ、捕虜収容所ビルケナウには4つの施設があった。ビショフは手紙の最後に次のように述べている[26]。

以上のことからお分かりいただけると思いますが、衛生設備はかなりの程度整備されており、特に民間労働者用のトランジットバラックが完成してからは、いつでも多くの人が消毒・害虫駆除できるようになっています。

しかし、その後の数日間、火災のために、基幹収容所の第1ブロックの熱風装置(トプフ・ウント・ゼーネ社が設計)、「捕虜収容所男女駆除バラック」(すなわち害虫駆除バラックBW5a、5b)の熱風装置(ホッホハイム社が製造)、そして最終的には「部隊の駆除工場」の熱風装置が故障した[27]。

1942年12月17日、ビショフはビエリッツの「兵員登録事務所 Sachgeb W」に次のような手紙を書いている[28]。

1942年12月8日の問い合わせに対し、中央建設管理は、今後3ヶ月以内にキャンプの封鎖が解除される見込みがないことを伝えています。あらゆる手段を駆使して効果的な対策を講じていますが、これ以上の病気を完全に防ぐことはできませんでした....

同じ日にビショフは次のような趣旨の手紙を収容所の司令官に届けた[29]。

SSの現場医師の命令により、42年12月19日(土)に民間人労働者の最初の害虫駆除または消毒が行われることになっています。そのためには、強制収容所の消毒設備を利用できるようにする必要があります。1942年12月22日に行われた民間人労働者の個別害虫駆除についても同様です。承認をお願いします。

1943年1月8日の「収容所命令 Nr.1/43」で、アウシュヴィッツの司令官は次のように述べている[30]。

1943年4月1日のラジオメッセージでDⅢ室長はKLアウシュビッツの収容所封鎖がまだ有効であることを伝えた

1943年1月5日、ミズロヴィッツ(アウシュヴィッツの北約20kmにある村)の警察刑務所でチフスが数例発生した。この病気は囚人たちの間で急速に広まっていった。カトヴィツェの地区長は、病人をアウシュヴィッツに移すことを提案し、収容所の司令官に次のような手紙を送った[31]。

さらに、これらの囚人が、アウシュビッツ収容所に新たな感染症を持ち込む可能性があることも否定しません。他方で、アウシュヴィッツ収容所からチフスが根絶されたわけではなく、そこでは衛生警察によって広範な予防措置がとられているので、私はこの質問をするように促されていると思います[...]。

1月13日、ルドルフ・ヘスは、収容所内ではまだ「個々のチフス」が発生しているだけで、チフスの流行はもはや存在しないと回答したが、「これでは新たにチフスが発生する危険性が非常に大きくなる」という理由で、地区長の提案を拒否した[32]。

しかし、カトヴィツェの警察署長は、ミズロヴィッツ刑務所でチフスで死んだ囚人の死体を、害虫駆除剤で処理して棺に入れ、「火葬のために死体搬送車でアウシュヴィッツに移送する(...)」ように命じた[33]。

アウシュヴィッツの衛生的状況は、ルドルフ・ヘスが見せかけたほどには、決して満足できるものではなかった。1月25日、ビショフは「収容所内命令No.86」で次のように発表した[34]。

SSサイトの医師である強制収容所が出した命令に基づいて。アウシュビッツでは、中央建設管理のSS隊員のうち、建設管理宿舎のバラックに住んでいる者全員に、3週間の隔離措置が即刻取られた。

1943年1月にはチフスが再び流行し、2月の最初の10日間には、SS-WVHAのD班長である親衛隊少将のリヒャルド・グリュックスが抜本的な対策を取らざるを得ないほど憂慮すべき事態になっていた。これは1943年2月12日付のビショフからカムラーへの手紙に見られるように、「チフス熱患者の増加」をテーマにしたものである[35]。

看守の間でチフス患者が急増した結果、親衛隊少将兼武装親衛隊少将のグリュックスは、1943年2月9日に強制収容所アウシュヴィッツに収容所の全面閉鎖を課しました。これに関連して、1943年2月11日以降、すべての囚人が自由を奪われ、収容所から出ることができなくなったため、主に囚人が働いていた建設作業を停止しなければならなくなりました。作業再開の報告は、中央建設管理部が行います。

話を「ガス処理用地下室」に戻そう。上述した劇的な衛生的状況を背景にして、最も合理的な説明は、1月末に、SS当局が、火事の結果として失敗した殺菌消毒設備の代わりに、暫定的な青酸ガス部屋を火葬場2の死体安置用地下室1に設置することを計画したということである。BW5aと5bの青酸ガス部屋が「ガス処理スペース」とも呼ばれていたので、この場所は「ガス処理用地下室」と呼ばれていたようである[36]。

このようなその場しのぎの消毒室を設置したのは、SS-WVHAのAmtgruppe Cが主導したのではないかと思われる。ビショフは1943年1月29日にこのグループの責任者であるカムラーに宛てた手紙の中で、「ガス処理用地下室」という表現を、その意味を説明することなく使っているので、カムラーはこのことを知っていたに違いない。

このことは、SS-WVHAのC/III(技術分野)事務所が、アウシュヴィッツ収容所に設置される「熱風害虫駆除装置」の費用見積もりをベルリンの会社ハンス・コリに依頼していたことからも確認できる。郡は2月2日に返信し、「アウシュヴィッツ強制収容所のコンツのためのデロージング・プラント」というテーマの手紙を同事務所に届け[37]、それには合計4,152kgの金属のための「アウシュヴィッツ強制収容所の熱風害虫駆除プラントに必要な鉄の量のリスト」[38]と、合計4,960.40RMの「アウシュヴィッツ強制収容所のための熱風害虫駆除プラントのコストの見積もり」が同封されていた[39]。

同じ日の1943年2月2日には、SS-WVHAのC/VI/2部(経営管理)のチーフである親衛隊大尉コザーが、「強制収容所アウシュヴィッツの害虫駆除・サウナ施設の検査」を行った。C/VI事務所長のアイレンシュマルツ親衛隊大佐の「消毒施設」に関する関連報告書では、熱風装置はもともと摂氏30度の温度を必要とする青酸消毒のためのものであったが、その後、必要な温度が95度である熱風消毒に使用されたため、「過剰に使用された」と述べられている[40]。

現在、保護拘置されている囚人の数が日々増加しているため、施設への負担が大きくなっており、連続使用による消耗に対抗するには、コークス焼成に適した空気加熱器を設置するしかありません。

想定されるプラントの故障対策として、既存の消毒プラント用の鋳鉄製熱風機がすでに行政に約束されている。サプライヤーに問い合わせたところ、必要な病害対策を継続して実施するために、3週間以内に納品される予定です。

今回発生した火災の多くは過熱が原因であり、このような機器を使用する際には正確な運用規定を守ることが急務となっています。

火葬場2の死体安置用地下室1を害虫駆除室として使用するという考えは、その後、他の火葬場にも拡大され、それに対応する文書の痕跡は、後にプレサックによって、人間を殺すガス室の存在を示す「状況証拠」あるいは「うっかりミス」とみなされた。

中央建設管理局がそのような様々な計画を3ヶ月余り温めていた後、カムラーはビルケナウ収容所の「衛生施設の改善のための特別措置」というプログラムを押し通し、火葬場内に害虫駆除室を設置する計画はすべて一挙に水に流してしまったのである。

1943年7月末の時点で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所群では、54,000人の囚人の持ち物を毎日害虫駆除することができる害虫駆除・殺菌工場が稼働中、建設中、計画中であった。 [41] しかし、5月の時点で、アウシュヴィッツ中央建設管理の文書には、火葬場に緊急の殺菌消毒施設を設置する計画についての言及がなくなっている。あるいは、プレサックの解釈を採用すれば、火葬場の犯罪的な誤用を示す「状況証拠」や「うっかりミス」があることになる。

1994年の時点で、私は、ビルケナウの火葬場2に関する「犯罪証拠」は、この火葬場が収容所管理局に公式に受け入れられた1943年3月31日以降には出てこないと指摘した。つまり、この建物での大量殺人が本格化したとされるその後の20ヶ月間は、ちっぽけな文書による「状況証拠」すら存在せず、他の火葬場の一つの最後の「犯罪的状況証拠」は1943年4月16日のものとなっているのである[42]。この奇妙な状況をどのように説明するのか、公式の歴史家は誰も問題にしなかった。唯一の可能性は、1943年5月に決定された通常の消毒設備の改善により、火葬場に間に合わせの害虫駆除室を設置する計画がすべて無意味になったことである。収容者のために火葬場に100個の緊急用シャワーを設置するという計画も、構造体5aと5bに設置された100個のシャワーが正常に機能していたことと、すでにI.4)項で述べたように、中央サウナの試運転が間近に迫っていたことから、中止された。

▲翻訳終了▲

●「脱衣所は死体から服を脱がせる場所」論は成り立たない。

まず、脱衣室(脱衣用地下室や脱衣スペース)ですが、姑息にもマットーニョは、否定派が滅多に使わない裁判証言を根拠に持ち出してきました。その内容はこうでした。戦後の証言は信用ならないんじゃなかったのでしょうか?

「日中に亡くなった人は、死体安置用建物(Leichenhaus)と呼ばれる特別な建物に運ばれ、遺体は毎晩、トラックで火葬場に運ばれた。囚人がトラックに乗せたり、トラックから降ろしたりしていた。彼らは火葬の前に、火葬場の囚人たちに服を剥がされた。着用者が伝染病で死亡していなければ、衣服は洗浄されてリサイクルされた。」(英語からの逆翻訳)

私は注意して、翻訳ではっきり「死体安置用建物」と書いて騙されにくいようにしておきました。これを「死体安置所」と安易に書いてしまうと、火葬場にある死体安置所と誤解しかねません。「haus」ですから、これは単純に「家」のようなものを示すので「建物」にしたのです。明らかに火葬場の死体安置用地下室は独立した建物ではありません。要するに一旦、収容所内で出た死体は、どこかは知らないけど、定められた囚人区画の建物内に一旦運ばれてから、トラックで火葬場に運ばれた、と言ってるのです。で、火葬の前に服を剥がされたと。ここでは特に火葬場のどこで衣服を剥がしたとかは一切述べられていません。なぜマットーニョはこれを入れたかというと、明らかに、火葬場に関連した「脱衣スペース」は死体から衣服を剥がすためのスペースのことだ、と読者に思い込ませるため、つまり意図的な印象操作です

ですが、じっくり読んで下さい、一切どこにも脱衣スペースがマットーニョの言う通りのものだったことを示す明確な根拠は何もありません。脱衣スペースで死体を脱衣させていたことをはっきり示した当時の文書も証言も何もないのです。マットーニョはいろんな理屈を使い、そうした結論に誘導しようとしているだけなのです。

まずマットーニョの誘導はここから始まります。

したがって、死体安置用地下室1を人間殺しのガス室に改造するという決定は、死体安置用地下室2を脱衣スペースに改造することを意味しており、この2つの決定は同時になされたに違いない。

だから私は、翻訳に入る直前で、図面まで書いて説明しておいたのです。そうではなく、最初は死体安置用地下室1をガス室として使うと決めただけだったのです。当初はブンカーと同様に犠牲者の脱衣にはバラックを使うことにしていたのです。

なぜ、マットーニョはそのように死体安置用地下室1がガス室に設計変更されたなら、死体安置用地下室2も同時に脱衣所に変更されていなければならないと最初から断定したのかと言うと、実際にはそうではなかったのでガス室に設計変更されたわけではなかった、と読者に思い込ませるためです。マットーニョは以下のように述べています。

彼(註:ヴィルツ)の重要な立場を考えれば、2ヶ月前に死体安置用地下室2に脱衣スペースを作るという決定を、SSの現場医師が知らなかったということはありえないだろう。しかし、彼は何も知らなかったので、そのような決定はなかったというのが論理的な結論である。

設計変更はあくまでもアウシュヴィッツ中央建設管理部が主体になって行なっていたものであり、医師であるヴィルツが全てを把握する立場にあったとは決して言えません。確かに、後述するようにヴィルツは殺人ガス室の運用に密接に関わっていたアウシュヴィッツ医療部のトップですから、死体安置用地下室1をガス室へ設計変更することは知っていた可能性は高いです。医療部に属する消毒係は、チクロンBをガス室の天井の穴から落とす重責を担うのですから。しかし、設計変更案では脱衣用バラックを建設する設定であったことまでは知らなかった可能性は十分あり得ます。脱衣室は基本的には医療部の担当範囲外の話です。

じゃぁヴィルツは何故、火葬場の死体安置用地下室2を脱衣所に変更して欲しいなどと要望をしたかというと、参考のためにリンクで示しておいたHCサイトの記事中にも以下のようにあります。

しかし、ヴィルツは衛生状態や衛生状態だけでなく、アウシュヴィッツでのユダヤ人の駆除の実施にも頭を悩ませていた。アウシュヴィッツで殺される人々は親衛隊の医師によって選ばれ、実際にガス室を操作したのは、ヴィルツ自身の親衛隊の医師と親衛隊の救急隊員であった。ヴィルツは殺害処理装置の重責を担っていたので、地下室に直接脱衣場を設けるようにとの要請をヘスに提出したのはヴィルツであったというのは、もっともらしいことである。

ヴィルツは単にヴィルツなりに、死体安置用地下室1をガス室に変更するならば、死体安置用地下室2も脱衣室にすればいいのでは? と思っただけなのかも知れません。ヴィルツは脱衣用バラックで既に設定されているとはしらず、「もしかして、建設管理部は脱衣所をブンカーと同様にバラックにしようと考えているのではないか? それなら……」と要望した、というのは非常にありそうなことだと思います。脱衣所は医療部の担当範囲外ですが、ヴィルツは医療部のトップであり、他の部署に対して要望程度出せる立場にはあるわけです。もしかすると、医療部の内部でガス室への変更案が知られてから、誰かがヴィルツにそうした提案をしたのかも知れません。

以上で、基本的には論破完了です。その後だらだらとマットーニョは色々述べていますが、結局のところ前述した通り、火葬場に関連した「脱衣スペース」が、死体から衣服を脱がせるための脱衣スペースを意味した、についての直接的な言及は当時の文書にも証言にも一切示されていない上に、その脱衣室はガス室の犠牲者用の脱衣室であったこと、を全く崩せてもおらず、証言や証拠は豊富に揃っており(証言は決してタウバーの証言だけではない。また崩せていない以上、ヴィルツやヤニシュの文書も証拠である)、翻訳文の前に述べたような状況で脱衣室がバラックだったり地下だったりすることは説明できるので、脱衣室はガス処理犠牲者のためにあったものとしか考えられません。そもそも死体シュートはマットーニョの失態であり、計画から消えたこと自体は消えていませんのでマットーニョの脱衣スペース理論は最初から矛盾してます。

付け加えるなら、「これで一件落着だ」などとマットーニョは言っておりますが、囚人病棟から火葬場に死体を運ばないといけなくなったのは単純に火葬場が稼働し始めたからです。その他についてはこちらを確認するなど読者様にお任せします。「これで一件落着」どころではなく、こちらからマットーニョに対して言えば「お前は既に死んでいる」です。

●「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)は臨時の害虫駆除室だった」論は成り立たない。

この問題は、マットーニョの理屈を詳細に反論する必要性はないと思います。「臨時の害虫駆除施設? はぁ? そんなの誰も言ってねー」でおしまいです。強いて反論する箇所があるとしたら以下の箇所です。

強調しておきたいのは、ビショフの手紙(註:「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)」の記述がある1月29日の手紙のこと)で提起された問題は、厳密には暫定的な性質のものであり、「死体安置用地下室2」がまだ稼働していない間だけの問題であったということだ。1943年1月29日とそれに続く日には、「ガス処理用地下室」を「この目的のために」、つまり死体安置用地下室として使用することができた。しかし、当時、ビショフが前述の手紙で指摘しているように、トプフ社は「貨物の封鎖のために」「吸気・排気装置」をまだ納入しておらず、したがって、「ガス処理用地下室」はいかなる場合にも人殺しのガス部屋として使用することはできなかったのである。

この解釈によれば、通常の衛生施設として計画・建設された火葬場が、その後、殺戮施設に変更され、死体を死体安置部屋に安置する可能性や、その後のオーブンでの火葬の可能性が排除されたことになるが、これは先験的に無意味なことである。換気装置がないためにガス部屋が機能しなかったのであれば、なぜ犠牲者がまだ服を脱ぐことが許されるのか? そして、実際、誰もガスを浴びることができなかった場合、どのような犠牲者が出るのだろうか?

これも、翻訳文直前に述べておきましたが、私の個人的な意見としての設計変更による遅延や、マットーニョ論文中に登場するトプフ車の貨物の封鎖による換気システムの到着の遅れ、冬の寒さなどで、火葬場2の完成は遅れていたのです。それは、1943年1月29日のビショフからベルリンのWVHAのカムラーに送った手紙でもわかります。こちらから、ドイツ語本文からの翻訳で以下に示します。

火葬場2は、言葉では言い表せないほどの困難と、昼夜を問わず凍えるような天候にもかかわらず、建設上の細かい部分を除いて、利用可能なすべての力を駆使して完成しました。工事を担当したトプフ・ウント・ゼーネ社(エアフルト)のチーフエンジニア、プリュファー氏の立ち会いのもと、炉に火が入れられ、完璧に機能しています。死体安置用地下室の鉄筋コンクリートの天井は、霜の影響でまだ剥がすことができませんでした。しかし、これは重要なことではありません。というのも、この目的のためにガス処理用地下室を使用できるからです。

トプフ・ウント・ゼーネ社は、貨物の封鎖のために、中央建設管理部の要求通りに換気システムを時間通りに納入することができませんでした。しかし、吸気・排気装置の到着後、すぐに設置を開始するため、43年2月20日には完全に稼働できる見込みです。

トプフ・ウント・ゼーネ社のテストエンジニアによる報告書を同封します。

どう読んでも、これは明らかに工事が遅延している言い訳文書です。だからビショフは慌てていて「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)」とついうっかり書いてしまったのです。この1月29日の時点ではまだ、後に地下脱衣所となる死体安置用地下室2は死体安置室としての用途しか考えられていなかったのでしょう。だから、「死体安置用地下室の鉄筋〜」とその一文をすらすら素直にそのまま書いてしまっていると考えられます。本来なら、「ガス処理用地下室」は「特別処理のための地下室」と書くべきだったでしょう。その場合でも、戦後の裁判でこの文書が取り上げられたときには、証言で明かされていたとは思いますが、否定派は否定論者同士で解釈が違うなどと言うアホなことにはならなかったでしょう。

ところが、マットーニョ論文をよく見ると、マットーニョが引用した1月29日のビショフの手紙には、私が独自に引用した部分の後半がありません。そして代わりに、キルシュネックの文書を、脱衣スペースに関連した前項で引用しています。

1943年2月20日に全ての石積みが完了し、サービスが開始された。

マットーニョが書いているようにこれは火葬場の死体焼却だけの話だと考えられます。ちなみに、それまでビルケナウ収容所(敷地内)のガス処理以外の死体はどうしていたかというと、ブンカーの方の埋葬壕に捨てていたと考えられます。ヘスの自伝にこう書かれています。

 こうして、一九四二年十一月末までには、以前の大量埋葬壕が全てカラになった。それらの郷に埋葬されていた屍体は、一〇万七〇〇〇体にのぼる。この数には、一番最初から焼却開始の時期までに、ガス死させられたユダヤ人移送者だけでなく、一九四一年から四二年にかけての冬期、看護室脇の火葬場がかなりの期間使用中止されていた時に、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者の屍体も含まれている。さらにそれには、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者も全員含まれている

ビルケナウ、とは書いてありませんが「さらにそれには」と続けているので、ビルケナウを含めた上でのアウシュヴィッツという表現なのでしょう。

話を戻しますが、何故マットーニョは1月29日のビショフの手紙の後半をトリミングしたのかについては、まず間違いなく、それでは手紙に書いてあったガス処理地下室は殺人ガス室だったことを否定できなくなるからです。

マットーニョの理屈では、ビショフの手紙の日付、つまり「ガス処理用地下室」を殺人ガス室と解釈するならば、その1月29日時点でガス処理用地下室が使えたことを意味するとしています。

でもトリミングされた後半にあるように「43年2月20日には完全に稼働できる見込み」なのです。ややこしい話ですが、1月29日の手紙にある「死体安置用地下室の鉄筋コンクリートの天井は、霜の影響でまだ剥がすことができませんでした。しかし、これは重要なことではありません。というのも、この目的のためにガス処理用地下室を使用できるからです。」は次のように解釈されるのです。

・手紙の時点では死体安置用地下室といったナンバーが消え失せている。

・それ故、明らかに1月29日の時点ですでに実際には、死体安置用地下室1はガス処理用地下室に変わっており、死体安置用地下室は元々の計画だった死体安置用地下室2だけを意味するようになっていた。

・おそらく、この元々の死体安置用地下室2はガス室併設案変更後は、ガス処理された死体を一時的に安置する目的を考えていた。何故なら、そうすることで1日に可能なガス処理回数を多くできるからである(次の犠牲者に見えないように一旦隠しておく)、と推測できる。

・しかし、1月29日時点で、死体安置用地下室2の天井は型枠が外れていないような状況で明らかに工事が遅れていた。そのためビショフは、1月29日の状態でも、ガス処理用地下室に変更されているとはいえ、(ガス処理回数のことを考えなければ)ガス処理用地下室にそのまま死体を安置しておくことができる状態にはなっているので、死体安置用地下室2がこのまま完成が遅れても、使用上は問題はありません、という意味で回答した。

・だから、手紙後半で「しかし、吸気・排気装置の到着後、すぐに設置を開始するため、43年2月20日には完全に稼働できる見込みです。」と期限を明確に書いた。

・しかし実際には、換気装置設置工事が完成しなかったので、ガス処理用地下室を含めた完全稼働開始は3月まで遅れてしまった。

穿った見方ではありますが、マットーニョは以上のように解釈されてしまうのを恐れて、手紙後半をトリミングしたのではないでしょうか? しかし、以上のように解釈すれば、1月29日時点でガス処理用地下室も使用できたはずという無茶な解釈をする必要はありません。ビショフは単に工事進捗状況だけを説明して、2月20日には間に合いますと言っただけなのです。

ちょっとややこしい文章になってしまったかと思われますが、簡単に解説すると、マットーニョの論理構成は以下のようになっています。

1.まず、「正史派」側の理屈を否定する。

2.その上で、証拠文書に対するマットーニョの解釈を示す。

従いまして、マットーニョの論理に反論しようとすると、この二つともに反論しなければならず、結構めんどくさいです。

閑話休題

マットーニョの解釈はさまざまな文書資料を駆使していて説得力があるように見せかけつつ、ビショフの手紙に書かれた「ガス処理用地下室」が「臨時の害虫駆除室」だったことを示す、証言も文書もありません。「これほどの衛生上の問題があったから、必要とされたに違いない」と言ってるだけです。

しかし、仮にマットーニョの理屈がビショフの書簡に対して通ったと仮定しても、ガス処理用地下室だったことを示す否定すべき証拠はビショフの書簡だけではなく、他にも山のようにあるのです。

その山のような証拠を否定しないとガス室が否定できない、という事実の奇妙さを、一般の否定派さんは気づくべきだと思うのですけどね。

では次回、マットーニョへの反論ラストです。まだ読んでないのでどんなものなのか知りませんが、マットーニョ理論を自分でボコボコにするのは一度やってみたかったんですよね(笑)。



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