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ホロコースト否定論者の筆頭格マットーニョ論文を自分でやっつけてみよう(2)

今回が実は本題です。これを翻訳しようと思った理由は、この話があるので、一応きちっと論破しておこうと思ったのです。

と言うのは、この話は、例のYoutubeにある動画も使ってるし、その影響で、ネットの素人否定派さんがどうも結構使いまくっているようなのです。私がみただけですけど、4例ほど確認してます。

正直、あまりに馬鹿馬鹿しい話なので、ずっと無視してたのですが、ネット否定派さんはマットーニョの戯言に全然気が付かないようなのです。火葬場の設計上の死体置き場がガス室に使われなかった、わけはないのです。プレサックが1989年に『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』を出版して、主に否定派向けに徹底的にガス室はあったと言うしかないことを証明してしまった、それ以前に、主に証言を中心として証拠があり過ぎで、否定なんかできるわけがないのです。

その上さらに、マットーニョはどうやら、今回の話は2000年代に使わなくなったようです。多分公式には「否定論証済み」なのでしょうけれど、私が見る限り、こんな恥ずかしい否定論、よくやるなぁと呆れるほどなので、マットーニョも本心では「こりゃダメだ」と思ってるんじゃないでしょうか? 論理が見え見えで強引すぎる上にあまりにも杜撰です。

と言うわけで、今回は注釈も回答も無しにしようと一旦は思いましたが、情報がないとわからない人も多いかもしれないと思い、ほぼ全面的に解説しておきます。私が気づいていないところがあったら教えて欲しいです。でも、要は、マットーニョがどの方向へ引っ張っていっているのかと読めさえすれば、自力で解読するのもそれほど難しくはないと思います。

▼翻訳開始▼


注意:
本項では、翻訳に注意すべきなので、以下の単語を次の通りの翻訳とします。
Leichenkeller:死体安置用地下室(クレマⅡ or Ⅲの図面上の記述を指す)
Leichenkammer:死体安置部屋
Leichenhalle:死体安置ホール
Leichenräume:死体安置スペース
区別しないといけないので、本文中はこれを強調表示とします。普通は、そんなに厳密に分けて翻訳することはありません。

II)1943-1944年におけるビルケナウの火葬場の死体安置部屋の使用について

1)ジャン・クロード・プレサックの論文

よく知られているように、J.-C.プレサックのアウシュヴィッツに関する基本的な論文は、彼によると、1942年末以降、ビルケナウの火葬場IIとIIIの死体安置用地下室1が殺人ガス室に改造されたというものである。さらに、彼は、火葬場IVとVの死体安置部屋は、最初はビルケナウのいわゆる「ブンカー」でガス処刑された人々の死体を並べるために使われ、その後、この2つの火葬場自体に設置されたとされるガス室の犠牲者のための安置室として使われたと主張している。

この論文を支持する最も重要な論拠の一つは、1942年12月19日の中央建設管理のプラン2003に基づくもので、これは前のプラン932と933のカバーシートであり、「地下室のアクセスを道路側に移す」ことを規定している [1]。 プレサックは、地下の図面には死体を降ろすためのシュート(死体を外からクレマトリアIIとIIIの半地下の死体安置用地下室に滑らせることができる滑らかなセメントの傾斜)が欠けていると指摘し、次のようにコメントしている。

死体を滑らせるように設計されたシュートを普通の階段に置き換えることは、あらゆる論理に反している。未来の死体が生きたまま火葬場に入り、階段を降りることができたのでなければ。

2冊目の本で、プレサックはこの議論に戻ってきた:[2]。

デジャコは12月19日に地下室の新しい図面(No.2003)を描いたが、これは大きな「建築的失態」だった。新しい図面の文字から判断すると、北側の階段が死体安置用地下室の地下への唯一のアクセスになっており、死者は階段を降りなければならなかったことになる!

ロバート・ヤン・ファン・ペルトとデボラ・ダワークは、プレサックの思考の流れに共鳴している[3]。

彼(デジャコ)は、初期の計画では半地下の死体安置用地下室の正面入り口となっていた、死体用のシュートの案を削除した。生きている人は階段を降りる。死体はシュートで降ろされる。犠牲者は死に向かって歩いていく。

もちろん、死体シュートは中止されなかったが[4]、火葬場の死体安置用地下室を「脱衣所」や「ガス室」に改造することは、深刻な結果をもたらした。火葬場には、収容所内で死亡した囚人の遺体を寝かせるための死体安置用地下室死体安置ホールがなくなっていただろう。ヴァンペルトはこのジレンマを自覚しており、次のように書いている[5]。

状況は実際にはもっと悪かった[6]。1943年2月には、火葬場2と3のすべての死体安置用地下室に新しい機能が割り当てられ、脱衣室とガス室の機能に転換されていたし、火葬場4と5の死体安置部屋は脱衣室に転換されていたからである。火葬場が完成した頃には、アウシュビッツには文字通り、死体を並べるための恒久的なスペースがなくなっていた。

そうなると、収容所内で死亡した登録済みの囚人の火葬を事前に計画することができなくなるため、衛生面で深刻な問題が生じた。そしてこれらは、ガスを浴びた(とされる)人々の死体が、火葬場の死体安置用地下室死体安置部屋で、何日も何週間も焼かれるまでは放置されていただろう[7]。プレサックの仮説が正しければ、収容所の死体安置スペースに囚人の死体を安置し、火葬場に運ぶ文書には、このような不安定な衛生的状況が生じていることが明記されていなければならないし、SSの現場医師による抗議や解決策の提案も含まれていなければならない。しかし、資料には何と書かれているのだろうか。

註:この項で言っている「シュート」についてマットーニョは「死体シュートは中止されなかった」と書いて脚注[4]で何やら説明していますが、実はマットーニョは認識を誤っていたのです。こちらから引用します。

「ATCFS (2010)では、マットーニョは、階段と死体のシュートが省かれたのではなく、新しい部屋に置き換えられたことに気付いた。しかし、彼は1994年に戻って単に間違っていただけで、1階の図面を考慮に入れなかったことを認めるまでには至らなかった。」

これを確認するには、プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』を確認する必要があります。これ(本のようにパラパラ捲れて一覧性はいいがテキスト選択して訳したりは出来ない)やこれ(機械翻訳はやりやすいが一覧性がないので探しにくい)などを利用するといいかもしれません。

また、「死体が、火葬場の死体安置用地下室や死体安置部屋で、何日も何週間も焼かれるまでは放置されていただろう」とかマットーニョは言って、脚注[7]でこう説明しています。

「 第2、第3火葬場では、2000人の犠牲者の火葬にそれぞれ1週間近く、第4、第5火葬場ではそれぞれ10日ほどかかっただろう。」

それは違うだろ、と。何故だか分かりますよね? マットーニョのように自説に対立する(矛盾する)データを示さないのは、ミスリードといって差し支えないでしょう。知らないのならともかく、対立データがあるのをマットーニョは当然知ってるからです。マットーニョの火葬理論は単なる仮説です(しかも間違ってます)。本当に否定派は姑息なのですが、この焼却能力の否定派との違いはよく覚えておきましょう。

さてしかし、ここでマットーニョはどのような否定論へと誘導しているのか、以降を読んで考えてみて下さい。油断していると、するするっとその否定論の方向へ誘導されてしまいますよ。

2) ビルケナウの火葬場の死体安置ホールと死体安置用地下室の使用に関する文書

1943年3月20日、アウシュヴィッツのSS現場医師である親衛隊大尉ヴィルツは、収容所司令官ルドルフ・ヘスに手紙を書いたが、これについては次のセクションで詳しく説明する。ビルケナウの囚人病院の拡張のための一般的な計画に関連して、ヴィルツ博士は次のように強調した[8]。

囚人病棟から火葬場に遺体を運ぶためには、50体の遺体を運ぶことができる屋根付きの手押し車を2台用意しなければなりません。

ヴィルツの言う「火葬場」とは、2月20日に限定的に操業を開始し、3月20日にはまだ唯一機能していた「第二火葬場」のことである。

1943年7月20日、ヴィルツは次のような内容の手紙を中央建設管理に届けた[9]。

すでに入居している建設区画IIのキャンプでは、コンクリートやレンガ製の死体安置部屋がまだ不足しており、その建設が急務となっています。

これまでの木造の小屋では、死体はネズミの被害に非常にさらされており、死体を取り出すとネズミの被害を受けていない死体はほとんどありませんでした。ネズミは死体に非常に強く惹かれて増殖し、戦いは事実上不可能となります。

ネズミノミはペストの媒介者です。収容所エリアでのペストの発生は、隊員にとっても、後続の捕虜収容所アウシュビッツの収容者にとっても想像を絶する結果となるため、死体を衛生的に保管し、同時にネズミを集中的に駆除することでしか回避することができません。

アウシュヴィッツの親衛隊医師としては、したがって、最も簡単な方法であっても、必要な死体安置部屋を直ちに建設することを緊急に要請します。

当時使用されていた死体用バラックのタイプは、1941年11月25日のHHB(予算及び建設本部(後の経済管理本部(WVHA)))の指令に従ったものであった[10]。

ビショフは8月4日にヴィルツ博士に返信している:[11]。

上記の手紙に関しては、1943年7月31日土曜日に行われた、親衛隊大佐ムルゴウスキー博士、親衛隊大尉のヴィルツ博士と以下の者との会合に基づいて、親衛隊大佐の上記の要請に従って、捕虜収容所の個々の小区域に死体安置ホールを建設することが放棄されたことが述べられています。

親衛隊大佐ムルゴウスキーは7月31日の会議で、死体は朝と夕方の1日2回、火葬場の死体安置部屋に移されるべきであり、そうすれば、個々の小区域に死体安置部屋を個別に建設する必要はないと述べました。

1944年初頭、SSの現場医師は石積みの死体用バラックの建設を推し進め、建築物8aと命名された[12]。

1944年5月、彼はシレジアの武装親衛隊と警察の建設検査の責任者である親衛隊少佐ビショフに宛てた手紙の中で、ビルケナウの建設区画IIの巨大な死体部屋の話題を再び取り上げた。これを受けて、ビショフは5月15日にアウシュヴィッツの中央建設検査局の責任者であるヨハン親衛隊中尉に手紙を書いて、ヴィルツの要求を伝えた[13]。

アウシュビッツの親衛隊サイトの医師は、アウシュヴィッツIIの建設区画IIに巨大な死体安置ホールの建設を申請しました。

アウシュヴィッツ中央建設管理は、SSアウシュヴィッツ・サイト管理との合意のもと、建設を計画し、対応する建築材料とGB建設申請書[[14]]を遅滞なく準備することになっています。

44年5月12日付の親衛隊経済管理本部からの手紙の同封コピーを、公式の理由として建築申請書に添付しなければなりません。

緊急性の高い工事のため、すぐに作業を開始することができます。

1944年5月22日、アウシュヴィッツでは、親衛隊中佐ヘス、親衛隊少佐ビショフ、親衛隊大尉ベーア(1944年5月11日にアウシュヴィッツIの指揮官に任命されていた)、親衛隊少佐ビショフ、親衛隊中尉ヨハンの間で会議が開かれた。ヨハンは、会話の結果をまとめたメモを書いている[15]。

前述の会議は、必要な死体安置ホールの位置とサイズを決定するために予定されていました。このままでは敷地内に収めることができないことがわかりました。死体安置ホールを建設するのに適した場所を作るためには、少なくとも廃棄物と洗浄用のバラックの一部を取り壊さなければなりません。しかし、このような状況を考えると、バラックをなくしてしまうのは難しいです。

親衛隊中佐ヘスは、既存の命令によると、毎日の死体の蓄積は、この目的のために特別に指定されたトラックによって、毎日朝の時間に集められることになっていると指摘している。この命令に従えば、死体の蓄積はまったくないことになり、したがって、上記の死体安置ホールを建てる強制的な必要性はない。

親衛隊中佐ヘスは、当分の間、議論の対象となっている死体安置ホールの建設を控えていただきたいと思います、と言っています。

しかし、ヴィルツは敗北を認めず、5月25日にアウシュヴィッツの親衛隊上級将校[16]に宛てた手紙の中で、この問題を再び提起した[17]。

1943年7月20日、私は、武装親衛隊とアウシュヴィッツ警察の中央建設管理部に、捕虜収容所アウシュヴィッツIIの女性収容所と建設区画IIの収容所には、コンクリートと煉瓦の死体安置部屋がまだ存在していないことを報告しましたが、その建設が急がれていました。

適切に保管されていない死体には、常に多くのネズミが集まります。捕虜収容所アウシュヴィッツII収容所の囚人区域では、毎日一定数の死体が自然に蓄積され、火葬場への移動は予定されており、朝と夕方の1日2回行われます。捕虜収容所アウシュビッツでは車両や燃料が不足しているため、死体が24時間も放置されることがあります。

疫病の衛生上の理由から、各病院には遺体を短期間保管するための安置所があります。総合病院の病人の数は平均して500床を超えませんが、捕虜収容所アウシュヴィッツIIの個々の囚人地区では、平均して3-4,000床です。私の考えでは、大量に蓄積された死体のために適切な保管室が用意されていることは、当然のことです。

7月20日の手紙では 私は、武装親衛隊の中央建設管理とアウシュヴィッツ警察に宛てたこれまでのすべての手紙の中で、常に死体安置部屋の建設だけを要請してきましたが、この目的のために特別に建てられた家や小屋の中に死体安置ホールを建てることは決して要請しませんでした。このような死体安置所を建設する必要性について、直ちに必要な措置を講じていただきたいと思います。 さもなければ、現在の不衛生な死体安置部屋が伝染病の衛生上の観点から、収容所全体に深刻な危険を及ぼすことがないように、私は上層部に頼らざるを得ないでしょう。

死体安置所のスケッチを同封します。女性用キャンプのHKB、建設セクションII、キャンプセクションa、b、e、fに死体安置部屋が緊急に必要とされています。これらの死体安置部屋は、救急隊のバラックに組み込まれているか、外部に取り付けられています。

この手紙は、収容所の司令官に宛てたものだが、その内容は、中央建設管理の責任者にも関係するものだった。6月12日、シレジアの武装親衛隊と警察の建設検査官のチーフに手紙を送り、5月23日のファイルノート(新たに5月30日の日付が付けられた)、5月15日のヴィルツの手紙、5月25日の手紙に添付された死体安置部屋のスケッチを同封した。ヨハンは、SSの現場医師が要求したタイプの死体安置部屋の建設を、要求が認められ次第、開始することに同意した[19]。

3)これらの文書の重要性について

前節で引用した文書は、ビルケナウの火葬場がその後犯罪目的に転用されたというプレサックの説を明確に否定している。SSの現場医師の手紙には、火葬場の死体安置部屋を犯罪的に誤用したことが少しも書かれておらず、それによって、彼が述べた衛生上の問題が計り知れないほど大きくなったであろう。それどころか、すべての火葬場の死体安置部屋死体安置用地下室が常に制限なく利用できたことは、書簡からも明らかである。私が「常に」という言葉を使ったのは、登録された囚人の遺体を並べる以外の目的でこれらの部屋が一時的にふさがれたことを示す文書がないからである。私が「無制限」という言葉を使ったのは、死体安置部屋が死者を安置する以外の目的で使われていたことを示す資料がないからである。

プレサックの仮説が正しければ、収容所の管理者は当然、火葬のための緊急令を出し、小さな火葬場の1つ以上の死体安置部屋を、収容所で死亡した登録済みの囚人の遺体のために確保しなければならなかっただろう。しかし、そうではなかった。

これらのことは、火葬場の死体安置部屋が通常の死体安置部屋として機能していたことを証明しており、3月20日のヴィルトの手紙からすでに明らかになっている。D.チェコのカレンダーによると、この日、2,191人のギリシャ系ユダヤ人のガス処刑が行われたとされている[20]。第二クレマトリウムでの最初のガス処刑は3月14日に行われ、1,492人の犠牲者が出たと言われている。これらの死体が火葬されるのは3月19日になってからであり、そうなると、3月16日に行われたとされる2回目のガス処刑[21]は不可能にいた。しかし、ヴィルツ博士は実際の遺体にしか関心がなく、病院から火葬場まで遺体を運ぶための手押し車を2台要求した。

1943年7月20日のヴィルツの手紙は、収容所内で死亡した囚人の遺体を並べるという当時まだ一般的だった習慣が、衛生的な観点からいかに危険であったかを示している。もしプレサックの仮説が正しければ、この危険性はかなり高まっていただろう。というのも、登録されていた囚人が死んだ場合、その死体は収容所の不十分な死体安置部屋に長い間放置され、それに伴ってネズミが膨大に増殖したからだ。しかし、ヴィルツ博士は、そのような仮定の状況を、たとえベールに包まれた形でも口にしたことはなく、常に収容所の現実の状況を改善するための提案をしていただけで、彼の手紙には何の不審な点もない。

ビショフの1943年8月4日の手紙は、7月31日にムルゴウスキー博士が出した、朝と夕方の1日2回、死体を「火葬場の死体安置部屋に」搬送するという命令に言及している。この命令はすべての火葬場を対象としたもので、1日2回従うことになっていた。つまり、問題の死体安置部屋は制限なく使用できるということだ。

プレサックの論文が正しければ、この命令は裸の狂気だったことになる。というのも、この命令が出された日には、ベンツブルクとソスノヴィッツのゲットーからアウシュヴィッツへのユダヤ人の強制移送の準備が進められていたからである(アウシュヴィッツの公式見解によれば、1日から12日まで、ユダヤ人はアウシュヴィッツに移送された)。8月にビルケナウの火葬場で28,000人以上がガス処刑された[22])、武装親衛隊の衛生研究所の所長であったムルゴウスキーがこれらの準備を知らないはずがないのである。ヨハンもそうだ。死体が1日2回、火葬場の死体安置部屋に運ばれていたという事実が証明されており、それが、この火葬場での大量ガス処刑の仮説に対する根本的な反証となっている。この事実は、5月23日のヨハンのファイルノートによって初めて証明された。そこには、収容所の司令官が前日の話し合いで、朝に適切な車両で死体を回収するというすでにあった命令を思い出したと書かれている。さらに明確なのは、5月25日付のヴィルツの手紙で、死体を火葬場に運ぶのは通常のやり方で、朝と夕方の1日2回行われたと書かれている。したがって、必要な自動車と十分な燃料が手に入る限り、この命令が存在し、1944年5月の後半に遵守されたことは、少しも疑う余地がない。

ちょうど同じ時期の1944年5月後半に、ハンガリーのユダヤ人のアウシュビッツへの強制移送が始まったが、このことは、ルドルフ・ヘスをはじめとする収容所の責任者たちはもちろん知っていたはずである。最初の輸送列車は1944年5月17日に到着した。5月はアウシュヴィッツに到着した。前述の会議が行われた5月22日までに、ハンガリーから62,000人以上のユダヤ人が到着し、公式の歴史的説明によれば、そのうち約3分の2にあたる41,000人以上がガス処刑されたとされている[23] アウシュヴィッツの公式の歴史は以下の通りである。ビルケナウの火葬場は、死体の火葬には不十分だったので、焼却のためにいくつかの追加の穴が掘られたと言われている。これはもちろん、ビルケナウの火葬場の死体安置部屋は、この期間中、ガス処刑された人々の死体で恒常的に満たされていたことを意味している。ルドルフ・ヘスは、収容所で死亡した登録済みの囚人の死体を1日に2回、まさにこの死体安置部屋に運ぶようにという前述の命令を冷静に思い出すことができただろうか。この場合も、そしてこの場合はなおさら、証明された確かな事実が、ハンガリーのユダヤ人を火葬場で大量に絶滅させたという仮説の決定的な反証となっている。

要約すると、次のようになる。ビルケナウの火葬場の死体安置部屋の使用に関する文書に照らしてみると、1943年3月に稼働したときから、「脱衣所」や「ガス室」としての役割を果たしていなかったことは明らかであり、そのような役割をまったく果たすことができなかったので、ガスによる大量殺人がそこで行われたという主張は、歴史的な根拠を欠いている。

▲翻訳終了▲

私は当然知っているのですが、もしかすると知らない人がいるかもしれないと思って図面を載せました。これは火葬場Ⅱの図面ですが、注意書きしてあるとおり、ガス室がまだ反映されていない頃の図面です。火葬場Ⅲはこれが単純に上下反転していると考えて下さい。また火葬場ⅣとⅤは私はまだよく知らないのですが、死体安置部屋はあります。下図は火葬場Ⅳですが、6の広い部屋が死体安置するところだそうです(脱衣室として使用、ガス室は4と5)。

さて、すでに1)が粉砕されているので、どうでもいいと言えなくもありませんが、2)〜3)を論破してしまいましょう。

まず、わざわざ翻訳文冒頭で、翻訳の注意を書いたのは、例えば上の図面には実際には「Leichenkeller」と書いてあるのですけど、本文中の8月4日のビショフからヴィルツへの書簡内で、ムルゴフスキー大佐から「はぁ? 囚人区画のための死体安置ホールを作って欲しい? んなもん火葬場の死体安置部屋(Leichenkammer)に持ってきゃいーじゃねーか」と却下されてるのは、特に火葬場ⅡやⅢの図面にある死体安置用地下室(Leichenkellerを明確に指しているわけではないのです。また火葬場ⅣとⅤについては、上の図で示した死体安置部屋を当時どう記述していたのかについては分かりませんでした。ただし、普通に「Leichenkammer」と呼んでも差し支えはないとは思います。

で、何度も言うようであれですけど、よーく読まないと本当に騙されるのですが、ムルゴフスキーらが言った火葬場の死体安置部屋が、火葬場の図面上の定められた死体安置部屋を指すだなんて、どこにも書いてません。で、そもそもですけど、死体安置部屋を指す「Leichenkammer」って何なのでしょう?そこで、Google先生に助けてもらうことにしました。「kammer」を翻訳してみると……。

名詞
1
EARLY
通常、家の実際の居住エリアの外にある)寝るための小さな(簡単な家具付きの)部屋
狭い部屋
2
アパートの小部屋、収納用の家(2a
掃除機が入っている
3
海事用語
船上のリビングルームとスリーピングルーム
4
MILITARY
部屋、衣類や機器などの保管場所
スペアパーツのためにチャンバーに行かなければならなかった
5
BIOLOGY
医学
臓器や植物の一部などで(仕切りで)分けられた空洞
種子のカプセルは部屋に分かれている
6
テクノロジー
技術的な設備、装置、エンジン、炉などの[壁で囲まれた]空間
窯の中の様子
7
兵器技術
拳銃の一部の円筒状の部分で、ロックを含む
8
兵器技術
カートリッジ室
9
採掘
鉱山でできた堆積物の中にある、ほぼ長方形の地表の空間(6a
10
狩人の言葉
ビルの入り口の管の後にある部屋の拡張(5a)、ボイラー(5a
11
狩人の言葉
ボイラー(4a)
12
CONSTITUTIONAL
ポリティクス
人民代表の立法機関
第一、第二会議室、国会の両院
13
法律用語
地方裁判所や行政裁判所の特定の分野を担当する複数の裁判官で構成される組織
高等地方裁判所の刑事事件担当室
14
専門機関
薬剤師の部屋にいる
sending the feedback
side panel

断言はしませんが、必ずしも「部屋」とは限らないというか、これで言うと4番の「衣類や機器などの保管場所」が近い気がするんですよね。それにヴィルツもこう言ってます。


死体安置部屋の建設だけを要請してきましたが、この目的のために特別に建てられた家や小屋の中に死体安置ホールを建てることは決して要請しませんでした。

ヴィルツが言っているのは、要するに衛生的な管理がしたいだけであり、レンガだったりコンクリートで固められたきちっとした安置部屋なだけなのです。囚人区画の木造部屋では衛生状態が悪いから、固めて欲しいっつってるだけなんですよ。つまり死体安置部屋「Leichenkammer」って、そんなきちっとしたものではないと言うことなのではないでしょうか?

それにヴィルツは「コンクリートやレンガ製の死体安置部屋」と述べており、これは現状が「木造の死体安置部屋」だと言っていることにもなりますが、単なる死体保管場所と考えてもいいのではないでしょうか? 私は誘導的な翻訳にしたくないのでわざわざこちらが不利になる「部屋」にしただけなのです。

しかも、マットーニョ自身が最後の項目で一回しか「Leichenkeller」を使っておらず、他は全部「Leichenkammer」にしています。つまり、マットーニョ流に、それなら死体を一時的に置いておく場所は全部「Leichenkammer」と言っていいんじゃないのでしょうか?

何が言いたいかというと、ガス室殺害後の遺体だって、例えば火葬場2や3なら、地下からエレベーターで上げた遺体の多くは一旦火葬待ちになります。その時に一時的に死体が置いてある場所を「Leichenkammer」と言っていいのではないでしょうか?

どう考えても、ムルゴフスキー大佐らは明確に火葬場の図面にある特定の「Leichenkeller」(あるいは私がまだ知らない火葬場ⅣとⅤの死体安置部屋(場所)の名称)とまでは言ってないので、そう捉えた方が遥かに自然です。要するに、ムルゴフスキー大佐らが言ったのは、「火葬場の死体の置いてあるところへ持ってけ」だけなのではないですかね。それを文書化すると、「Leichenkammer」になるだけの話だと思います。

また、3)でマットーニョは姑息な理屈を使って色々と誤魔化そうとしているようですが、そこだけは読者さんの解釈にお任せします。以上で、ムルゴウスキーらが言っていたLeichenkammerが、火葬場の図面に記載されていた死体安置場所であるとは誰も言っていないことはお分かりいただけたかと思うので3)の細かい解説は省略します。

それに、決定的なことがあります。2)の冒頭にこう書いてあります。

囚人病棟から火葬場に遺体を運ぶためには、50体の遺体を運ぶことができる屋根付きの手押し車を2台用意しなければなりません。

車が2台あるのなら一回あたり100体程度であり、朝夕の2回ですから、200体/日です。あのね、クレマ2や3の図面に書いてる死体安置用地下室が仮にそうだったとして、一体何㎡あると思ってんの? また、クレマ一棟あたりの燃焼能力を考えても15炉で一時間一体しか焼かなくても、24時間で360体です。マットーニョは読者をバカにしてるんでしょうか?

また、ヴィルツが衛生に必死になるのは当たり前のことで、親衛隊中将リヒャルド・グリュックス強制収容所総監から「囚人の死亡率を下げよ」などと指示を受けているから、って、否定派さんはよく知っているはずなんじゃないでしょうか?

というわけで、マットーニョが言いたかった「死体安置部屋を死体安置部屋として使ってたからガス室などに使えたわけがない」説は、簡単に粉砕されました。

でもまだ続きがあるので、一応は本論文は全部やっつけたいと思います。ラストに、デヴィッド・オレーレのこんな絵をはっつけておきます。

追記:加藤氏もどうやら単語の翻訳をきちっと分けなきゃいけないことに気がついていなかったようですね。


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