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ホロコーストを疑っている人のために

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かつてナチスドイツが行ったホロコーストを「なかった」という人たちがいます。それらの主張の代表的なものを、ある海外サイトを参考に論破する試みです。
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#ヘウムノ絶滅収容所

ヘウムノ絶滅収容所(9):ユダヤ人絶滅の終了

ヘウムノ絶滅収容所は、ヴァルテガウのユダヤ人の大半を絶滅させた後、1943年4月に一旦、活動を終了します。今回の記事はその終末の部分に関する翻訳記事です。「ドイツ文書に見るゾンダーコマンド・クルムホフ」の翻訳シリーズはこれで終わりです。 但し、ヘウムノでの絶滅は1944年6月に再び活動を再開します。ウッチ・ゲットーに残っていたユダヤ人の絶滅を完了させるためでしたが、ヘウムノには約7000人が送られただけで1944年7月中にヘウムノでの絶滅は中止となり、残ったユダヤ人たちは1

ヘウムノ絶滅収容所:(7d):ヘウムノでの使用車両・燃料など(付録)

この付録資料を翻訳して紹介するのが、分量も多いけどそれ以上に、非常に面倒かつ「つまらない」作業が多いのでHolocaust Controversiesのひとまとめのシリーズ記事を完成させられなかったのです。だからといってこの付録資料を除いて完結させても、多分モヤモヤするだろうし、付録資料なしではこの付録資料の文書を必要とする記事の価値が半減するし…、と。 要は、いくつかの文書は、ちまちまとスペースキーを叩いて整形作業が必要なのです。できるだけ元文書のように見えるように、何度

ポーランドの戦争犯罪証言記録サイトに見る殺人ガスの証言証拠(6)

このポーランドの証言集シリーズをボケーっと眺めていたら、「あれ?」と気付いたのです。違うページに同じ名前が被っている、と。証言が複数回に分かれている人がいるのは知っていたのです。ポーランドでは多数の被告を扱った裁判が行われていて、それらの別々の裁判に証人として出廷していてその裁判別に記録があったり、あるいは法廷での尋問記録と裁判に先立って作成された宣誓証言記録などで複数の記録があったり、です。ところが、全く同じ証言の翻訳を何回か私はしていたのです。 実は、この証言シリーズは

ヘウムノ絶滅収容所(6):ポーランド人の作業員

今回の話は、ゾンダーコマンド・クルムホフには非ユダヤ系ポーランド人の作業員もいて、その紹介ですね。記事中にある通り、それらの作業員は「囚人と協力者の間のグレーゾーンに位置していた」ようであり、待遇も良く、相当な行動の自由まであったようです。とは言え、誤ってガス車で死んでしまったり、貴重品の横領で銃殺、あるいはまた結局のところは彼らも囚人なので、ヘウムノの後は他の収容所に移送されたりしています。 そうしたポーランド人作業員が当時実際にいたことは、戦後の裁判での証言だけでなく当

ヘウムノ絶滅収容所への否定論とその反論(2)

前回記事のヴェッカート論文に反論しようとすると、彼女が使っている多くの文献資料について確認が必要になります。しかし、邦訳のある本はラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパユダヤ人の絶滅』程度に限られ、ホロコースト研究者には必須文献と言っていい以下の文献など、邦訳本はあまりないのが私みたいな外国語もろくに理解できない日本人にとっては厳しいところです。 ですから、海外の反論記事があると自分でそれらを調べずに済むので非常に助かるわけですが、DeepLがあるとどんどん英語でもドイツ語でもフ

ヘウムノ絶滅収容所への否定論とその反論(1)

ホロコースト関連記事をずっと紹介し続けていますが、そのほとんどは反ホロコースト否定論側の主張ですけど、たまに否定論も紹介することにしています。別に公平とかを考えているわけではなく、一番の理由は実は「歴史修正主義研究会」にある翻訳がどーもいまいち信用できないからです。最近でも実際に原文を翻訳してみると、翻訳が不適切になっているマットーニョ論文を発見しています。この場合は議論で重要となるはずの「Leichen(「死体安置」を意味する)」を含む異なった複数のドイツ語単語の訳が、同サ

ヘウムノ絶滅収容所(7):ヘウムノでの使用車両・燃料など

註:上の写真はWikipediaにあったものですが、ヴァルトブリュッケン駅まで運ばれたユダヤ人たちがポビエルチェで下されて、トラックに乗り換えているところの写真だと思われます。 今回はちょっと退屈かもですが、ヘウムノで使われていた車や燃料に関する文書資料からの解説記事になります。これはこれで、実際に活動は行われており、燃料の部分もしっかり当時の資料に記録が残されていて、ヘウムノではきちんとそれなりに活動が実施されていた証拠になってるというわけです。 ヘウムノ収容所は、特別

ヘウムノ絶滅収容所(5):運転資金

註:トップの写真は、こちらからです。キャプションはこうあります。「ウッチ(リッツマンシュタット)のゲットーから大量の人々がチェルムノ(クルムホフ)死の収容所に送還された。1942年9月1~2日、ゲシュタポと警察は、ゲットー内のすべての病院から、400人の子供を含む2,000人の患者を暴力的に連れ去った。同時に、Jüdischer Ordnungsdienst(ユダヤ人ゲットー警察)とゾンダーコマンド(ゲットー政治警察の一種)が通りを封鎖した。病院が避難した後、ナチスはさらに2

ヘウムノ絶滅収容所(4):略奪品の選別ーパヴャニツェ収容所

註:トップの写真は、こちらからです。キャプションは「「Gehsperre(外出禁止)」行動の際、ヘウムノへの強制移送前に子供や病人、老人が収容されていたゲットーの中央監獄で、フェンス越しに子供と別れを惜しむ家族。1942年9月、ポーランドのウッチ」とあります。 今回は、ヘウムノにおける「再定住」したユダヤ人から奪った荷物に関する話です。ソ連地域の現場での銃撃等による虐殺でも、もちろん絶滅収容所でも、この奪い取った荷物(髪の毛を切ったり金歯抜いたりも含まれる)を仕分けていく作

ヘウムノ絶滅収容所(3d):死体処理に関する当時の文書

註:トップの写真は、こちらからのもので、キャプションは「ヘウムノ収容所への強制移送中に所持品を運ぶユダヤ人たち。ここに写っている人々のほとんどは、以前に中央ヨーロッパからウッチに強制送還された人々である。1942年1月から4月にかけてのポーランド・ウッチ」とある。 今回は前回再訳した記事の文献資料編ですので、冒頭で話すことは特にありません。41件の文書資料です。前回記事と合わせて読まないと何のことか分からないと思いますので、ご注意願います。 ▼翻訳開始▼ ドイツ文書に見

ヘウムノ絶滅収容所(3):死体処理

註:トップの写真は、こちらからです。キャプションは「ヘウムノ死の収容所への強制移送のために集められた子供たち(1942年9月)」とあります。 前回までの流れは、1942年前半ごろまでには、ヘウムノ絶滅収容所で、ウッチゲットーのユダヤ人で労働不適格者となる10万人がガス車を使って殺されたことまでが述べられました。今回は、森の中の埋葬地に埋められたそれらの死体を焼却処分し、骨を粉砕してその辺に捨てたり、肥料として使ったという話です。 ヘウムノ収容所に特徴的な事実は、定置式ガス

ヘウムノ絶滅収容所(2):ユダヤ人十万人の絶滅

註:トップの写真は、ウッチ(リッツマンシュタット)から移送されてきたユダヤ人が、コウォ(Kolo:ドイツ占領時代はヴァルトブリュッケン(Warthbrücken)と呼ばれた)で侠軌鉄道に乗り換えさせられるところの写真です。ここからポビエルチェ(Powiercie)というところまで行き、ゾンダーコマンドのトラックでクルムホフ(ヘウムノ)まで運ばれたそうです。 ヘウムノ絶滅収容所は、リビジョニストには何故かあまり人気のない絶滅収容所のようで、ガス車や写真については多少話題にする

ヘウムノ絶滅収容所(1):ヘウムノ絶滅収容所の始まりと基礎

トップの写真は、ガス車の証拠写真としてしばしば使用される有名な写真ですが、この車はガス車ではないそうです。今回は以下サイトから、その解説の部分を引用します。 戦後コウォ(ヘウムノ近郊)で発見されたマギルス車のよく知られた写真は、おそらくガス車を示してはいないでしょう。この書簡を参照。 ゴンビンのユダヤ人殺害に関する調査 レオン・ザモスク 日付:1995年8月25日 件名:ヘウムノ、ガス車 レオン・ザモスクより ヘウムノなどで使用されたガス車の写真や図版を探したいと思ってい

ヘウムノ絶滅収容所(序):ゾンダーコマンド・ランゲの安楽死作戦

註:トップの写真は、ポーランドのポズナンにある第七砦跡です。 今回から何回かに分けて、過去に翻訳してあったヘウムノ絶滅収容所に関するHolocaust Controversiesサイトの記事を修正して新たに新記事として紹介して行きます。 最初に翻訳した時は、翻訳の仕方もそうですが、当時の用語などをあまりよく知らず、知識もまるでなかったため、とにかく訳せばいいだろうという勢いだけだったので、改めて読み直すとあまり出来がよろしくありません。ヘウムノ絶滅収容所って、多分あんまり