見出し画像

誰のための講話か

福祉講話の話し手として、気がつけば随分長く……実に20年以上も活動を続けてきました。
八王子市内の小学校や中学校が主な訪問先であり、道徳の時間や、総合的な学習の時間などにお呼びをいただいて授業の講師をさせていただきました。
学校さんからの依頼に比べれば、数は少ないものの……、
これまでには、市内の町内会さんや、民生委員さんの集まりの場など、大人の方に向けても、お話をさせていただいた経験もあります。
また、それなりに長いこと講演講話の依頼を引き受け続けていると、
八王子から離れた場所からも、どこからか私をお呼び立てくださる方がおられるようで……。
自分の経験や感想を元にしながら、
『障害者の自立生活』

『福祉をどう考えるか』
などの事柄について、あちこちでお話をさせていただきました。
今まで、話し手として活動を続けてこられた背景には、お呼び立て、ご依頼をくださるみなさんのお力添えがたしかにあったと思っておりますし、
わざわざ、私を選んでくださるからには……肝心の講話の中身についても、みなさんから一定の評価を得られているものと自負しております。
しかし、活動をやめてしまおうかと思ったことも、これまでに何度もあったのでした。
例えば、以前、大人の方に向けた講話をした時のこと。
合理的配慮……障害を持つ人が、
障害を持たない人と同様に社会生活を送れるよう、社会的障壁を取り除く配慮のこと……についてお話をしようという時に、
『合理的配慮と言うならば、障害者を社会に参画させないことが、一番合理的な配慮ではないのか』
と仰った方がおられました。
その場は私も……
「今のあなたが当たり前に享受している若さ、や、健康、といったものも、絶対不変ではありません。
年齢の経過、事故や病気などによって誰でもが障害者や病気患者、またはそれに近い状態になる可能性があります。
個人だけの若さや体力、活力に頼った生活は、一方で、とても不安定で不合理な生活とも言えるのです。
誰がいつ、どんな形で、障害や病気になることがあったとしても、なるべく、できうる限り……それ以前と変わらぬ生活を送れるようにすることが、私の話す合理的配慮の意味です」
とはお返事してみたものの……
頭の半分では
「きっとこの人は、おれの言ったことなど聞いてもいないし理解もすまい」
という後ろ向きの予感が浮かんできてしまったのでした。
俗に言う、話せばわかる……という言葉は、全くの嘘では無いにせよ、現実はかなり厳しいことであります。
人間は言葉を使う動物です。
言葉によって、円滑で濃密なコミュニケーションを取ることが可能となるものの、言葉を並べれば並べるだけ、物事の本質を相手に伝えるのが難しくなるのも事実です。
また……これまで、長く活動し、それなりに地域に知られているつもりになっていても……
いまだに、学校現場では、
『障害者はかわいそうな人、哀しい人』
あるいは
『障害者は自分勝手でわがままな人』
『障害者は逆境に負けず困難に打ち勝つ素晴らしい人』
などと、過大なほど哀れまれたり、蔑まれたり、持ち上げられたりすることも、後を絶ちません。
私としては、
「ハンディキャップのある人やマイノリティと呼ばれる人も、同じ地域に暮らしていれば、みな隣人である。
仲良くなれるか、親しくなれるかは相手と自分の関係次第ではあるものの……
食べ物の食わず嫌いが良くないように……まず食べて、味を確かめてから判断してほしい。
これが人同士であるならば、偏見ばかりで本人と顔も合わせず、相手を知らずに、想像だけで決めつけるのは良くないだろう」
と呼びかけているつもりなのですけれど……
なんとも、巷の人々は……偶像というか、虚像としての障害者の姿を自分たちの頭の中で作り上げ……
なかなか、生身の実体としての私たちの姿を見てくれない。
と感じ、自分の積み上げてきたものが、虚しく無意味に思えてしまうのでした。
到底、私一人の力量程度で、硬直した価値観を壊すには至らず……
誰のための講話なのか、なんのために続けてきたのか。
自分でも価値が分からなくなるのです。
しかし、とりわけ市民活動、地域活動の分野では、無言でいること、沈黙し、息を潜めていることは……
『私はその場にいない』というのと同じです。
個人的には……いわゆるクレーマーと呼ばれる人のように、小さなことを過大に騒ぎ立てて、注目を集め自己表現をするようなことは、
できれば、あまりやりたくないのですが……
マイノリティ……特に障害のある人を、地域の和(輪)からはみ出させないようにするためにも……
まだしばらくは、もう少し、話し手として、自分の活動を続けていこうと思います。
そして今後は、これまで同様
『人のため 地域のため』
というのは、もちろんですが、
何よりも、これまでずっと喋り続けた自分自身の過去に恥じないように、華やかさはなく泥臭くても、
自分で自分が、かっこいいと思えるような話し手を目指していきたいと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?