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幸運な誤解

親子であっても他者である

私のような幼少期からの先天性障害児…
成人すれぱ障害者…にとって、親というのは、最初にして最大の支援者であります。
しかし、『障害者と健常者』という枠組みで考えた場合…
親は健常者でも子には障害があるわけで
当然ながら親子や家族であっても、思考は個別のものであります。
しかし、だいたいの場合…私もかつてはそこに悩んだのですが…
『親と子は運命共同体』
という認識から、どうしても離れられず、なかなか分かち難く考える場面が多いのではないでしょうか?
私も八王子で自立するまでは、親元から離れた後に…どう暮らして行くのか。親以外に誰を頼ればいいのだろうか…という悩みを長く抱えておりました。
時が流れて、自立した今現在の私からすれば…
『最初にして最大の支援者(親)といえども…最高の理解者とは限らない』
ということは、折に触れ、忘れてはならないことかと思っています。
親は、たしかに…社会で出会う他の人…に比べれば、我が子と長く接し、深い所までよく知っているでしょう。
しかし…親には障害がなく、子には障害があるわけで…
障害を外から眺めている場合と、自分自身の心身の状態として直接感じる場合とでは、かなりの認識の差があります。
親が『この子にはできる』と判断したことが障害児本人には不可能と感じるようなことであったり、
あるいは親が『うちの子にはムリ』と判断していることも、いざ本人にさせてみればあっさりクリアしてしまったり、
親子であっても、意外な面、理解できない面は常にあります。

または…本人が見えていないものも親には見える。
本人が絶対無理だと感じることも、親に背中を押されることで…できるようになる、やってみたら上手くいった…という幸運で前向きな事例も、たまには、あったりしますね。

これより後にお話することは、別に障害の有無には関係なく、全ての親と子に当てはまることなのかもしれませんが…
『親なのだから、子どものことはなんでも理解できて当たり前』だとか
『子は親の心身の一部』というように、親も子も、互いを自己の延長、互いを自分の分身のごとく考えてしまう場合がよくあるようです。
身近に接する時間が長く、一見して仲の良い親子ほど、こうした錯覚には陥りやすいように見えます。
しかし真実は、親子であっても別々の人間。
脳と心が別である以上、せいぜい《赤の他人より、多少は相手の考えが読める》という程度のことに過ぎません。
親は子を、子は親を…完全に理解し把握することはできないのでしょう。
できるのは…相手を完全に理解している。…かのように個別に、勝手に
都合よく『思い込むこと』だけなのです。
親子で同居し、障害のあるお子さんを親御さんが支援する場合。
または障害のある親御さんを子どもさんが支援する場合…
『親子の絆』を根拠として、互いに依存している場面を、たまに見かけることがあります。
親子で同居し、親子で支援したりされたりすることについては…
それぞれのご家庭、ご家族によって、様々にご都合、ご事情のあることでしょうから、私からはとやかくは申しません。
親子で支え合うことが必ずしも悪いことだとは…思いたくはありませんが…
『家族の絆』という…
『たまたま、双方に都合の良い幸運な思い込み』に頼って生活するよりは…
何年にも渡る長い目で見た場合には、親子の間に第三者を入れる。
家族以外の誰かに支援を求めることも、いずれ必要になると思います。
どんなに仲の良い家族であっても、互いに疲弊する時は必ず来ます。
どんな人でも、自分以外の誰かに対して、無限に、無償で奉仕することはできませんし、無限に、無償で依存することもできません。
親も子も、真の意味で
互いを心から大切に思えばこそ…
いざと言う時には、互いに距離を置いてみることが肝要であると私は考えています。

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