NHK特集ドラマ・太陽の子を観て
まず、この作品を語る前に、故・三浦春馬さんについて触れる必要があるだろう。
三浦春馬さんは2020年7月18日に、この世を去った。
『太陽の子』では、陸軍下士官で主人公修の弟・石村裕之を演じた。
作品内には裕之が海で入水自殺をするシーンがあるが、「三浦春馬さんが亡くなった」事実と重ねてしまった視聴者も多いだろう。
私もその1人で、この役は三浦春馬さんだったからこそ、ここまでリアルに裕之の思いを感じ取ることができたのかもしれないと思った。
主人公・石村修は化学者。
”原子の力を解放して日本を救う”ために、化学の知識を深めて「原子核爆弾」の開発に明け暮れていた。
修の幼馴染みである朝倉世津は、建物疎開で家を壊されて石村家にお世話になる。
”建物を壊されても住むところがない”ことが日常になっている世の中を如実に表しているシーンだと思った。
いくら「空襲で戦火が広がるから」という理由であれ、人間が住んでいた建物を壊して、その後の保証を何もしないという政府の対応に、怒りを通り越して呆れることしかできなかった。
修は、はじめこそは原子核爆弾の開発に熱心だったが、徐々に「人殺しに加担しても良いか?」という思いに駆られていく。
「僕たちがやっていることは正しいですか?」
そういった修を、科学者の先輩は罵ったが、修の考えが普通だと私たちは思ってしまう。
ただ、その時代に「先に原爆を作ったものが、世界の運命を決める」「エネルギーをうまくコントロールできれば、戦いを終わらせることができる」と考えていた教授の思いも、また分からなくはない。
”世界を変えるために化学を研究する”という言葉が特に印象に残ったが、結果的に原爆は人間にとって残忍以外のなにものでもなかった。
修を始め、原爆を開発していた日本の化学者がそのことに気づくのは、原爆投下後の広島を訪れてからだ。
「これが僕たちが作ろうとしていた正体なんですね。」
修が、ぽつりと放ったその言葉が忘れられない。
人間は実際にその惨状を目の当たりにしないと学習しない生き物なのか、と改めて考えさせられた。
実際に私も、もし修と同じ立場だったら「原爆を開発して戦争に勝って、世界の優位に立ちたい」という思いで日々努力していたのかもしれない。
ただ、実際にはアメリカが原爆開発を成功させたのが先だっただけで、もし日本の方が先に原爆を開発して、さらにそれを投下してしまっていたら。
原爆被爆国ではなく、原爆投下国になっていたのだ。
「広島に原爆が落ちた」というニュースを聞いた化学者の先輩が泣き叫ぶシーンがあったが、原爆が投下されたその瞬間、当時の日本の化学者は、全員”化学の力で日本を守れなかった”という憤りでいっぱいだっただろう。
そして、陸軍下士官の裕之。
一旦戦線を離れて家に帰ってきた裕之は、任務のことを何一つ言わずに家族に笑顔で接する。
先述したが、裕之は修と世津が寝ている間に入水自殺を図ろうとする。
「俺だけ死なんわけにはいかん」「でも…怖い」
たった26歳の若者に、こんなことを言わせてしまう世の中だったのかと思うと、想像すらできないむごさを感じる。
ずっとこの2つの思いの狭間を抱えながらも笑顔を絶やさなかった裕之は、どれだけ苦しい思いで生きていたのだろう。
また、世津が「戦争が終わったら…」と将来の夢を語っていた時。
石村兄弟は揃って「戦争が終わったことを考えているのか?」と首をかしげる。
2人とも、形は違うがそれぞれ日本が勝つために日々戦っているのに、そんな人たちの頭の中には”終戦”という2文字はなかったのだ、と思うと何のための戦争なのだろう?と疑問に思ってしまう。
世津が「日本を良くするための戦争だから」と言っていて、戦争の本質を見た気がした。
だれも戦争のせいで死にたくはないし、この戦争に勝って豊かな日本を手に入れたいと思っている。
それなのに、毎日毎日誰かのお葬式が執り行われたり、しなくてもよい別れを繰り返している。
そんな世の中だから、少女ですら「早く結婚して、たくさん子どもを産んでお国のために捧げる」と、何のためらいもなく言えてしまうのだと思う。
ついに、裕之が戦場に戻ってしまう日。
別れるのが寂しいのにお互いがそれを伝えられない親子。
「行って参ります。」泣かないように唇をかみしめる裕之。
どれだけ苦しく悲しい思いを抱えたまま、家族を背に向けたのだろう。
裕之の遺書には、「26年の長い間」「お国のために笑って死にます」「ありがとう。さようなら」という言葉が次々に並べられていた。
戦地に行く若者は、本当に心からこんな言葉を書いたのだろうか?
今、自分以外に「死ぬ運命」を決められたら、怒りを通り越して何も考えることができなくなりそうだ。
26年という月日は人間にとって長いものではないし、これから光輝く将来が待っている、スタートラインだ。
現在の「普通」の若者にとっては。
ただこの時代の「普通」は、希望も将来も持てない状況で、次々に死んでいくことだった。
最後に、修が「原爆が落ちる時は、高台から惨状を見たいから」と、世津と母親だけでも逃げるように伝えるシーン。
母親がポツリ。
「見物。化学者はそんなに偉いんか。」
キノコ雲の下には、何千何万という人間が生きていて、1人1人に幸せがあり、将来を掴むことができる命がある。
化学の力を得るためとは言え、そんな状況を他人事のように見物する修は、おかしいと思った。
と同時に、「戦地で戦わずに申し訳ない」という思いに駆られて原爆の開発をしていた化学者たちの葛藤も分からなくはない。
修も裕之も、”日本のために自分が出来ることをしたい”と願っていたのには変わりはなかったのだと思う。