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残り香ばかりを大切に抱きしめてしまう

セーターが洗えないのは、縮むからとか以前に匂いがうつりやすいからだ。喫煙者である時点でだいぶタバコ臭くてどうしようもないんだけど、自分の香水の匂いとか、その場の空気感とか、そういうのをひっくるめて吸い込んでしまうのがセーターなんじゃないかと思っている。

記憶というのは恐ろしい。匂いと紐づくせいで、忘れたいことさえ忘れさせてくれない。

香水はどちらかといえば苦手だった。よくわからないけど、色々な香りが混ざりたつのが好きじゃなくて、とりあえずいい感じの柔軟剤を使って終わらせていた。私の香り、って何だろうと思いながら。

会社の飲み会の後、人目を気にしながら酔っ払って酒臭い息と一緒にキスした人は、甘ったるい香水の匂いがした。これがその人の匂いなんだって、茹で上がった脳の奥でぼんやり思った。

次の日、着ていたセーターを脱ぐと、その人の匂いがした。
何となくもったいなくて、洗うことができなかった。

その後、二人で飲みに行った時はテーブル向かいだったからか、匂いは全然わからなくて、帰り道に並んで初めて香水の匂いがした。
マフラーに移ってくれないかな、何の香水か聞いたらダメかなと思っているうちに、あっという間に駅の改札まできてしまった。

深夜に「起きてる?」「起きてますよ」「寝なよ」「そっちが家に着くまでは起きてます」なんて会話をしていた時期もあったけど、次第に疎遠になってしまって、結局恋だったのか、何も起きなかったことへのもったいなさなのかわからなくなって、会うことも連絡することもなくなってしまった。
決定的な理由もわかっているけど、どうしようもないことだったから特筆はしない。
私にはどうにもできなかった、間接的な原因の存在だから。

一回だけ、真夜中に新宿の伊勢丹の裏でその人に泣いてすがった。
「二度と会えなくてもいいから、今夜だけは一緒にいて」と。
「俺はまた会える方がいい」って誤魔化された。
またある日は「うちに来る?」と言った後に、慌てて訂正された。
もうどうにもならないんだろうな、と惨めになって、家に帰ってからまた泣いた。

そうして会わなくなってから、一回だけその香水の匂いをかいだ。
誰もいないエレベーターに匂いだけが残っていて、私と彼の関係そのものだなって思った。

先日急に「元気にしてる?」と連絡がきて、ちょっとドキッとしたけど、気まぐれだったみたいで、二言三言返信をしたら既読無視された。

そんなもんだよなとわかっていても、ふっと香水の残り香を思い出してしまう。
洗えなかったセーターはもう手元にない。
今なら洗えるのだろうか。それともまた懲りずに、抱きしめて夢で会えることを願って寝てしまうのだろうか。

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