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井伏鱒二 読書記録①(鯉/夜ふけと梅の花/山椒魚/屋根の上のサワン/休憩時間)

岩波書店のドリトル先生物語全集の翻訳で小さい頃から文章に親しんでいた井伏鱒二。
しかし、「山椒魚」を学生の時に読んで以来、作者の実作品を読むことはありませんでした。
今回、ふと思い立ち手に取ってみたので読了作品の感想を書いていきます。


鯉(1926年)

友人である青木南八から鯉を貰った私が、それからどれほど鯉に悩まされているかを描いた小品。

鯉を大切に思うあまり、鯉至上主義になっていく男。友人が亡くなってすぐに、友人の愛人に預けてある鯉を取りに行き、取る間に無断で枇杷を食べまくる姿が可笑しい。
しかも、早稲田大学のプールを勝手に鯉の棲家にするのも中々ヤバイ。最後には仕事もしていない男は、人間よりも鯉を選び、鯉のことを考えることが生きがいになっていました。


夜ふけと梅の花(1928年)

三月二十日の午前二時頃、村山十吉という酔っ払いに「僕の顔は、血だらけになってやしませんか!」と絡まれた私は、話の成り行きで五円札を受けとった。
この金で菓子折りを買って届ける筈が、うっかり使い込んでしまった。返さなければと思いながらも、急いで返すこともできず、心に村山十吉が引っかかっていた。
ある時、働いているという質屋へ行ってみるが、村山十吉は既にいないという。私は、もう気にする必要はないと思い、その夜は店から店へと飲み歩いたのだった。

酔っ払いに絡まれた男が、自身の良心に苛まれて酔っ払いの存在を気にしすぎるうちに、自身が酔っ払いになった時に幻覚を見てしまうという喜劇。
自身も酔っぱらう者は、酔っ払いを笑う事は出来ずというところでしょうか。主人公も村山十吉も酒癖が悪すぎであり、お酒は迷惑をかけない範囲で飲みたいと思いました。面白かったです。


山椒魚(1929年)

棲家である岩屋から出ることが出来なくなった山椒魚。山椒魚は周囲の物を嘲笑したり、身の上を悲しんだりしていた。ある時、蛙が岩屋へ入って来た時に、山椒魚は蛙が出れないように入口を塞いでしまった。

山椒魚の姿を借りて、自身の身の上に訪れた不幸に対して、どのように振る舞うのかをユーモラスに描いた短編。
山椒魚の姿を借りていますが、描かれているのは、自尊心を保つために他者を嘲笑したり、自身だけが不幸であると嘆いたり、他者を同じ目に合わせようとする、どこにでもいる人間の姿でした。
語り口のユーモラスさで短くも面白い作品となっていました。


屋根の上のサワン(1929年)

怪我をしていた雁を連れ帰った私は、治療をして一緒に暮らし始めた。サワンと名付けた雁と沼地を散歩するのが日課になったある日の夜、サワンは屋根の上で大きく鳴いていた。夜空には、三羽の雁がいた。その後も夜になると、サワンは屋根の上から鳴くことを止めなかった。

助けた雁に愛情を覚え、いつしか家族として一緒に暮らしたいと思うが、叶わなかった男の姿が描かれた短編。野に放つことを決めた時にも、自分といた証を付けようと考えていたが、それすらも叶わず別れの時が訪れました。
相手を好きになり、無意識に自己の視点からしか見ないようにしていた男の悲哀。それでも、最後に「彼の季節向きの旅行に出てしまった」となっている所に、季節が廻った後の再会の可能性を感じました。


休憩時間(1930年)

この大学で最も古く、最もきたない文科第七番教室で、学生たちは約四十分間の休憩時間を過ごしていた。僅か10ページ程で描かれる、休憩時間の教室で起こるちょっとした騒動を通した青春模様。

学校の非合理な決まり、不都合に積極的に立ち向かう者、静かに過ごしたい者、下らない騒ぎは嫌いだと言う者、ただ流れを楽しむ者、何も考えていない者。
短い中に色んな人間が集まる教室の風景を喜劇的に描くことで、青春のばかばかしい騒がしさと得難さを表現していました。
描かれる風景は当然昔ですが、現代を舞台に同じようなショートショートを描いても楽しそうです。

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