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フェミニズムは「女性」だけのためのものか

性差別、性的搾取、性的抑圧を終わらせるための運動
hooks, bell. (2000) Feminist Theory: From Margin to Centre. London: Pluto, p.33.(筆者訳)

フェミニズムは女性を抑圧から解放する運動であってそれ以上ではないと言う人もいれば、フェミニズムは全ての人のためのものだと言う人もいます。社会科学であればどの学問分野でもそうであるように、広く使われる言葉だからこそ画一的な定義はアカデミアでも合意できないでしょう。冒頭で引用したのはSara Ahmedが著書 "Living a Feminist Life" で採用した定義で、シンプルながら多くを語っています。

「フェミニズムは、性差別、性的搾取、性的抑圧という未だ終わっていないものがあるために必要なのです。」
「フェミニストやアンチレイシストの仕事のかなりの部分は、性差別や人種差別は終わっていないと周りを説得することになります。性差別と人種差別は後期資本主義における不公正の根源にあるのだと——重要な問題なのだと。」
Ahmed, S. (2016) Living a Feminist Life. Durham: Duke University Press, pp. 5-6.(筆者訳)

その後の版においてbell hooksは、「フェミニズムは性的抑圧を終わらせるための闘争(a struggle to end sexist oppression)」と、よりシンプルな定義を打ち出しています(Hooks, B. (2015) Feminist theory : from margin to center. New York : Routledge, p.26.)。

一義的には「女性」のためのもの

「性差別、性的搾取、性的抑圧」と言った時、基本的に想定しているのは「男性中心」の社会における「女性」に対する差別であり、搾取・抑圧です。これは、feminismという言葉が女性に関する単語から来ていることからも明らかでしょう。広く使用されるようになったのは女性参政権を求める第一波フェミニズムからだと言われており、男性を市民社会の主体・スタンダードとするのが当然だった社会において、女性にも男性と同等の権利を求めた運動でした。それに対し、(もちろん安易に単純化できるものではありませんが)そもそも男性を基準として女性を男性に近づけようとする思考が問題だとするのが第二波以降のフェミニズムです。このように制度の背景にある考え方・社会規範を問い直すに当たり、「男・男らしさ」と「女・女らしさ」という二元論に異を唱える思想が優勢になっていったのです。

「女性解放」にはステレオタイプを打破する必要がある

女性の政治参加が認められない、会社で男性と同じようには評価されない、家事・育児を全て女性がすることになる、痴漢・セクハラに遭う…どれも、「女はこういうもの」というステレオタイプに基づいて起こるものです。痴漢・セクハラについては一見ステレオタイプとは関係ないような気もしますが、同意なしに女性に性的行為を行う(=レイプの)描写、ポルノ、女性の身体の「女らしさ」が強調された写真やイラストを含む広告、漫画などが溢れている社会において、男性は女性を性的搾取の対象として見ても許されると錯覚する土壌ができているということは言えると思います。(男性は生物的に性欲を理性で抑えられないなどという言説は、そんなことには手を染めない大多数の男性に失礼です。)「男」は力が強く、論理的で生産的であり、女性を従わせるもの、対して「女」は弱く家庭で他者をケアするのに長けており、従順なもの、といった「男/女」の二元論が、社会で起きる多くの不公正の根源にあるのです。
 このような視点を持つと、フェミニズムが闘う相手は「男性」ではなく、「男」と「女」というステレオタイプ・社会通念そのものということになります。生まれた時の身体的特徴で「男」か「女」に分類され、そのラベルに付随した特性を持って生きることを求められる。そしてその型から外れると、「男のくせに女々しい」だの「女のくせに可愛げがない」だのと言われて排斥される。これはLGBTQの人々についてはなおさらで、社会が用意した「男」と「女」という箱のどちらかにきちんと収まっていないと、「障害」や「病気」かのように扱われてきました。「女」として生まれ育った人が、子どもを産まずパンツスーツで仕事に邁進して何が悪いのか?「男」として生まれ「女」と自認する人が、スカートを履いて自分らしく生きるのになぜ白い目で見られなければならないのか?同様に、「男」とも「女」とも定義したくないという選択の何が問題なのか?
「女」が「女」という型から自由になるためには、「男/女」という二元論自体を打破する必要があり、それは必然的に、あらゆる人がジェンダーによるステレオタイプから自由になることを目指す運動なのです。だからそういう意味で、フェミニズムは全ての人の生きづらさを減らすための運動なのだと私は思います。生まれた時に「女」と分類され、そのまま「女」と自認し続ける私のような人を、無意識に普遍的な「女」だと考えてしまうことへの自戒を込めて「シス女性」と呼びます。フェミニズムはシス女性の権利を訴えるだけのものではなく、LGBTQの人々や、「男らしさ」を押し付けられているシス男性をも固定観念から解放しようとするものであり、「男」だからフェミニズムからは利益を得られない・フェミニストにはなれないといったことは全くないのです。

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