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「身体的・生物学的性(セックス)」と「社会的性(ジェンダー)」

だがそのさいに留意しておかなければならないことは、…「女」は、どのような場合でも、抽象観念として以外には存在していないことである。しかしそれにもかかわらず、あたかも一様な「女」なるものが、いつも、どこにも、存在しているかのように語られる。
竹村和子(2018)『フェミニズム(思考のフロンティア)』岩波書店、p.39

フェミニズムの歴史において、その主な主体であり客体である「女」の定義は常に争われてきました。それを特徴づけるのは、「身体的・生物学的性」とされるセックスと「社会的性」とされるジェンダーとの関係です。本質主義(Essentialism)と呼ばれる思想は、「女」には「女」を定義付ける絶対的な身体的・生物学的特徴があり、それに基づく(「女特有」の思考や知といった)「女の本質」にこれまで見落とされてきた価値があると考えました。この思想に基づけば、身体的・生物学的に「女」と分類されない人々は「女の本質」を共有しておらず、共闘する仲間にはなりえないことになります。つまり、シス女性(生まれた際に「女」と分類され、そのまま「女」と自認し続ける人)のみを「女」と認める排他的な動きです。
 しかし、そもそもの身体的・生物学的特徴が「男/女」で明確に分かれるという前提自体が社会規範の上に成り立っているという指摘もなされるようになりました。確かに、「男/女」の身体的差異としては生殖器・機能が一番に挙げられますが、性機能障害や無月経、手術による性器摘出や避妊治療等によって自然に生殖に至ることがないとしてもそれだけをもって「男」「女」という分類から外されることは通常ない(後継ぎをもうけることが最重要視される環境では、心ない言葉を受けることはあるかもしれません)ので、実際の生殖能力が基準となっているわけではなさそうです。その上、インターセックスと呼ばれ、遺伝子上「男女」両方の性質を備えていたり、生まれた時点でどちらにも分類できなかったりする人も存在します。

西洋文化は、Fausto-Sterlingが言うように「二つのセックスしか存在しないという考えに深く傾倒している」(1993, p.23)が、人類にはXX(通常女性を示す)とXY(通常男性を示す)以外の染色体の組み合わせも多くある:「生物学的に言って、女性から男性に至る間には多くの段階的変化がある;そして、どのように采配を振るうかによって、その変動範囲に少なくとも5つ、ひょっとするとそれ以上のセックスが存在するとも言えるのだ」(Fausto-Sterling, 1993, p.23)。
Hines, S. (2020) Sex wars and (trans) gender panics: Identity and body politics in contemporary UK feminism. The Sociological Review Monographs. 68 (4), 25-43, 35.(筆者訳)
文中引用は Fausto-Sterling, A. (1993) The five sexes: Why male and female are not enough. The Sciences (New York). 33 (2), 20–24.

そもそも、個人個人の身体的差異は数えきれないほどある中で、なぜ生殖器の見た目の差あるいはY染色体の有無だけがそれほど特別で、耳垢がウェットかドライかとか、足の親指と人差し指のどちらが長いかとか、アルコールを分解できるかできないかとか、血液型が何型かといったその他の遺伝的差異はそれほど重要でないということになるのでしょうか?
 このように考えると、全ての赤ん坊が「男」か「女」という札を提げて生まれてくるから「男/女」の分化ができたのではなく、「男/女」という分類が重要な社会だから生まれた瞬間にその振り分けの根拠となる特徴を見つけ出し、「男」又は「女」として育てるのだという説明ができます。つまり、「男/女」というセックスも社会規範の影響を受けた概念なのです。そうであれば、セックスとジェンダーという二分法も絶対的ではなくなります。

ここで重要なのは、生物学的差異の社会的認識であって、生物学的特徴それ自体ではないのです。
Hines, S. (2020) Sex wars and (trans) gender panics: Identity and body politics in contemporary UK feminism. The Sociological Review Monographs. 68 (4), 25-43, 37.(筆者訳)

 したがって、「女」の定義を絶対的な「本質」に求め、そこに不変の価値を見出す本質主義は、社会的に構築されたジェンダー規範に対抗するはずであったはずが、改めて「女」という規範を再構築してしまうという矛盾に陥るのです。

本質主義は、カテゴリーを「保持する」ために、そのカテゴリーの属性に当てはまらない者をカテゴリーのそとに排除するだけでなく、カテゴリーを「捏造する」ために、カテゴリーのなかに括られる者の多様な要素を看過するものでもある。したがって、もしも性抑圧からの解放のために「女」というカテゴリーを打ち立てた場合、そのカテゴリーは、べつの種類の排除を生み出す危険性をもつ。さらにそれだけでなく、「男」という支配的なカテゴリーを解体するために、それと相補的な関係にあった「女」というカテゴリーを持ち出すことによって、男女の二分法で現実を弁別する思想が封印してきた種々の権力関係を、解放の名のもとに、ふたたび封印するという皮肉な結果が生まれることになる。
竹村和子(2018)『フェミニズム(思考のフロンティア)』岩波書店、p.40

フェミニズムを語るにあたり、「女は○○だ」という安易な一般化をしてしまうことは身近な落とし穴であり、セックスもジェンダーも一見するより曖昧なグラデーションなのだと胸に刻んでおく必要があるでしょう。

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