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3月8日「国際女性デー」に寄せて——大規模なデモでも熱狂的なフェミニスト集会でもなかったら、日本では何ができるんだろう

スペインでのフェミニズム会議

先日、スペインの首都マドリードで開催されたEIF2023というスペイン平等省(Ministerio de Igualdad、英語ではMinistry of Equality)主催の国際フェミニスト会議に参加してきました。3日間で約100名の登壇者に3,000人以上の参加者が集まったそうです。主にスペイン語圏(スペイン、中南米)、まれに欧米、中東、南アジアやアフリカ出身の活動家や学者、政治家がパネリストとなり、様々なテーマについて、出身地域の個別の状況から政治のような男社会で闘ってきた経験までとにかく広範な議論が行われました。私は各パネルディスカッションで学ぶことがあったりなかったりしただけでなく、何よりも参加者の熱量に圧倒されました。若者ばかりかと想像していたら、私の親世代やもっと歳上に見える方もかなり多く、feminismという言葉の受容のされ方や市民運動の歴史の違いをひしひしと感じました。

EIF2023、2月25日、マドリード


 政府が「フェミニズム」と銘打った会議を開催すること自体今の日本では想像できませんが、招待している登壇者の多様さ——表立って反権威・反権力という立場の方もいました——に特に感銘を受けました(流石にカタルーニャの活動家はいなかったと思いますが…)。一方で、手放しで日本もこうなってほしいと思えたわけではありません。私が参加した5セッションの登壇者は全員女性で、参加者も見渡した印象では9割以上女性という構成で、議論は「男女」の二元論と「普遍的な女性の抑圧」を前提として「私たち女性」の結束を訴えるものがほとんどでした。ジェンダー学の修士課程に属し、日々いかに安易な一般化が危険かを議論している身としては、単純明快過ぎる論理には躊躇してしまいます。一口に「女性」と言っても日常的に性暴力に怯えなければいけない人や明文化された性差別を受けている人から政治・ビジネスといった男社会で奮闘している人まで様々であり、男性と専ら良好な関係を築いている女性も多いはずで、参加者にも少ないとは言え確実に男性もいるのに、こんなにも「女性は」「女性は」と言うのはどうなのだろう…と複雑な気持ちになりました。敵は男性ではなく体制だと言い添えた方もいましたが、全体としては、女性による女性のための決起集会なのかなという印象を受けました。ヨーロッパのフェミニズムの風は存分に感じられたけど、私が日本にあってほしいと思うのはこれではないし、そもそも日本で起こることは考えにくい上に起こったとしても社会は変わらないだろうな…というのが正直な感想です。個々のセッションでは興味深い話も多くあったので、別の記事で改めて書ければいいと思います。

「国際女性デー」との関わり方

前置きが長くなりましたが、マドリードでは、街中で度々「国際女性デー」の広告を見かけました(見出し画像)。一緒に行った友人たちによると、チリやメキシコでは毎年3月8日は多くの女性が仕事をストライキし、女性の地位向上・権利拡大を求めて昼間から行進するそうです。ロンドンでも先週末に大規模なデモが行われました。日本語で国際女性デーと調べてみると、ELLEやVOGUEといった女性向け雑誌の記事、小池東京都知事からの短いメッセージ、そしてHAPPY WOMAN FESTAというイベントが見つかりました。デモ行進は全くないのかと思ったところ、ウィメンズマーチというものが東京では渋谷区で8日夜に開催されるようです。コロナの影響もあるでしょうが、昨年の参加者は約300人とのこと——やはりかなりローキーだなぁという印象です。
 デモというと極右の街宣車のイメージが強い日本では、デモや抗議活動に参加することへの抵抗感が大きいように感じますし、そもそも一般に政治的に立場を取ることを避ける風潮があると思います。その上、「フェミニズム」という言葉が過大に過激・急進的なものとして捉えられがちで、「国際女性デー」に何か積極的な発信を行うというのはハードルが高いかもしれません。その社会の風土に根付かないものは結局あまり影響力を持てないと思うので、欧米や中南米などデモ、抗議活動、ストライキが政治的意思表明の形として定着している社会のやり方をそのまま輸入する必要はありません。ですが、一年に一度の「国際女性デー」でさえ、デモにも集会にもそれほど人を動員できないのであれば、社会を変えるためにどういった手段が取れるのだろう?と考えざるを得ません。

「出る杭は打たれる」社会で穏やかな波を立てるには

「フェミニスト」と言えば、日本ではTwitter等で過激な「自称フェミニスト」だの「アンチ・フェミニスト」だのそのまた「アンチ」だのといった応酬が過熱しているイメージがあります。私は、140文字で政治的な発信をしようと思えばキャッチーでセンセーショナルな言葉を使わざるを得ず、誤解も生みやすく敵も作りやすいだろうと思うのでTwitterは使っていません。現実社会の格差や不平等はどうしたって複雑で、大衆向けする目を引く文句に凝縮しようとすれば、その大半を捨象しなければいけないからです。ですが、そういったインターネット、特にTwitterでの論争は過激化しやすいという点を横に置いても、「フェミニスト」「フェミニズム」という響き自体が日本で拒否反応を呼びがちだということは一般に認めざるを得ません。フェミニズムは大まかに言えば、社会に存在する「性」を理由とした格差・不平等をなくすことを目指す運動であり、一義的には歴史上不利に扱われてきた女性の地位向上を訴えるものです。例えば「人種差別反対」に真っ向から対立する人は少ないはずなので、「差別をなくそう」というだけの思想がこれほど警戒される謂れはないと思うのですが、一度ついてしまったネガティブなイメージはなかなか払拭が難しそうです…。そしてこの拒否反応は、「今の社会や男性のあり方全てを否定されている」という認識から来る守り・自己弁護の過剰反応だったりするのだろうと思います。
 フェミニズムやジェンダー学では通常個々人の「男性」と規範としての「男性性・男らしさ/masculinity」、仕組みとしての「家父長制/patriarchy」を分けて議論し、批判するのはmasculinityの規範性やpatriarchyによる支配・抑圧であって「男性」一般ではありません。だから、男性も「男だから〜あるべき・するべき」というステレオタイプから逃れられるよう後押しするもので、実際には多くの男性にとってメリットがあるはずです。それが、どうしてこうも嫌われてしまうのだろうと考えると、「出る杭は打たれる」というこの社会の風潮もあるのだろうと思います。フェミニズムに限らず、現状に違を唱え、根本的な改変を求めることは何であれ過激だと敬遠されがちです。「長い物には巻かれろ」と言い、多数に同調し波風を立てないのが「賢い」生き方です。だからこそ、大きな社会変革は全くもって始まっておらず、東大の女子率はいまだに20%を超えず、男女平等指数の世界ランクは落ちる一方なのだろうと思います。
 同じ東アジアでも、韓国ではフェミニズム文学・映画が隆盛しています。中国では最近、若い女性の間で上野千鶴子さんの本が流行しているそうです。SNSでは過激化してしまい、マスメディアは保守的過ぎるのであれば、本や映画といったものに期待するのも一つかもしれません。有名どころを含め読みたい本が溜まっているので、私も時間のあるうちに日本語でも色々読みたいと思っています。ジェンダー規範の多くは、あまりにも身近で当たり前になっていて疑問視すらせず、自分で自分を制約しているようなものだったりします。他の考えや経験に触れたり、「不公平だ」「おかしい」と思っていいのだと知ったりすることが、自分事として考えるための第一歩です。この3月8日、世界で起こっているフェミニズム運動に思いを馳せながら、本や映画を手にとってみてはいかがでしょうか。

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