又吉直樹『火花』

又吉直樹『火花』(文藝春秋)

話題の本を読みました。
ネタバレを含めて感想文を書きますので、未読の方はご注意下さい。
今までもそうでしたが、今回は話題のものなのでなおさら。


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スリル満点のエンタメ小説も好きだけれど、読みの可能性が無限にある純文学が好きだ。芥川賞受賞作に代表される純文学作品は「なぜ、ここでこの言葉を使ったんだろう?」という風に言葉の意味を丁寧に考えないと物語が見えてこない場合が多い。ぐんぐんイメージが湧いてきたかと思ったら思いもよらないところで結末を迎えたりする。謎解き感覚で読み進めていても、結果「わからない」で終わることも多々ある。

予想外を与えてくれる純文学は想像力のトレーニングにぴったりで、その分頭を悩ませる。どんな物語なのか上手く言えないけど面白かった。そんな時の言葉が出てこない悔しさったらない。

又吉直樹『火花』も頭を悩ませる作品のひとつだ。お笑い芸人の先輩後輩の関係性から、お笑いとは何か、人生とは何かという哲学的な問いを通じて二人の人間性に迫る。

先輩の神谷はお笑いコンビ「あほんだら」のボケ担当、後輩の徳永はお笑いコンビ「スパークス」のボケ担当で、地方イベントで偶然出会い、お酒の席で意気投合し勢いで師弟関係を結ぶ。お酒の勢いとは言え、徳永は神谷の狂気的なまでの「笑い」を追求する姿に惹かれたのだ。師弟関係を結ぶにあたって神谷は徳永に「俺の伝記を作って欲しい」(13頁)と命じる。そのためか、この物語は徳永の主観で語られている。

「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」
「確かにそうやと思います」僕は率直に同意した。
「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん? 共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」と一語一語噛みしめるように言った。
(32頁)

お互い他のお笑い芸人と交遊が無く、師弟関係を結んで以降二人はほぼ毎晩連絡を取っては会い、お酒を飲みながらお笑いを語り合うようになる。お笑い業界の厳しい現実が語られる中、神谷は孤高の精神を貫き自らのお笑い哲学に沿う「笑い」を追求する。
神谷のネタは脈絡が無く、ひらめきに頼るところが大きい。世間一般の人には支離滅裂に思えてドン引きされることもある神谷のネタは、徳永にとって新鮮な予想外だった。まるで火花が飛び散るように産まれる神谷の"局面的な笑い"を目の当たりにしながら、徳永はお笑いと人生について思索する。

僕は面白い芸人になりたかった。僕が思う面白い芸人とは、どんな状況でも、どんな瞬間でも面白い芸人のことだ。(中略)
神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。この人は、毎秒おのれの範疇を越えようとして挑み続けている。それを楽しみながらやっているのだから手に負えない。自分の作り上げたものを、平気な顔して屁でも垂れながら、破壊する。その光景は清々しい。敵わない。(114頁)

徳永の努力もむなしく、相方の結婚を契機にスパークスは解散することになり、徳永はお笑い芸人を辞めることを決意する。結成10年、大成することは無かったが自分が熱中した「お笑い」を続けた結果を真摯に受け入れ、徳永は第二の人生を歩み出す。一方の神谷は借金を膨らませすぎてどうしようもなくなったという噂と共に突如姿を消してしまう。
連絡が取れなくなってから一年後に徳永と神谷は久しぶりの邂逅を果たすのだが、神谷は変わり果てた姿となっていたのだった。

神谷さんの頭上には泰然と三日月がある。その美しさは平凡な奇跡だ。ただ神谷さんはここにいる。心臓は動いていて、呼吸をしていて、ここにいる。神谷さんはやかましいほどに全身全霊で生きている。生きている限り、バッドエンドはない。僕達はまだ途中だ。これから続きをやるのだ。(148頁)

神谷は自分のお笑い哲学に忠実であり続けた。神谷は「火花」を産み出し続けていた。徳永は変わり果てた姿の神谷を見て、神谷の本質を「畢生のあほんだら」だと悟った。世間に認めてもらいたくて追求し続けている自身の笑いは、もはや世間には通用しないものになり果てていることに気付かぬあほんだらなのだ。そしてそんな神谷に憧れた徳永は、永遠に「火花」になり得ないまま芸人を辞めたのだ。現実を憂い、二人は一目も憚らず咽び泣くのである…。

挫折した徳永と絶望する神谷。二人の現実に切なくなるが、だけどどこかあっけらかんとした雰囲気で終わるのは、神谷がどうしようもない「あほんだら」だからだろう。
「これから続きをやるのだ」という言葉は、徳永は愛すべきあほんだらの伝記を書くという使命を果たすために「火花」の語り手であり続けるという宣言だと言えよう。永遠に「火花」を語らなければならないということは「火花」になり得なかった徳永にとっては挫折の追体験であるが、今まで熱中してきたものに近づける唯一の希望でもあるだろう。
最終行の揺れる乳房がとってもあほらしく、あっけらかんとした雰囲気を際立たせて、物語は幕を閉じる。

この作品には、二人の人間が熱中して、疲れて、挫折して、笑って、泣いて、呆れて、悟って、愛する様子が描かれている。いろいろと分析をしてみたが「これが、人間やで」(146頁)という神谷の一言に収斂されるような一冊だと感じる。
熱があるから火花が出るのだ。わたしは身を削ってでも火花を出そうとするあほんだらの神谷を憎めない。ネタを見たら多分ドン引きしちゃうだろうけれど(笑)、何かに熱中することが人生なんだ、と思わせてくれる渾身の一冊だった。

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