山田ズーニー『人とつながる表現教室。』
山田ズーニー『人とつながる表現教室。』(河出文庫)
山田ズーニーさん。あなたに、10年前に出会いたかった!
以前『おとなの小論文教室。』
(https://note.mu/mrn_123_mrn/n/nbad28ba3de5f)
を読んで著者の言葉に魅了された。10年前にウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」上で連載されたものを書籍化したものだが、わたしが高校生の頃に知っていたら…大学生の頃に出会っていれば…の「たられば」が止まない。
『おとなの小論文教室。』も『人とつながる表現教室。』もわたしを揺さぶる「問い」に溢れている。しかも放っておいてはいけない種類の「問い」がうじゃうじゃと出てくる。
『おとなの小論文教室。』では自分を表現するための基本要素を学び、著者がヒントを与え、問いを投げかけ…まるで本当に「講義」をしているような感じだったが、『人とつながる表現教室。』では著者も悩み苦しんでいる様子が強く描かれている。
著者の文章は、適度に行間を空け、リズム良く読者に「問い」を投げかける。投げかけながら著者自身も悩み、なぜ?を連発し、読者からのメールを引用しながら自分なりの答えを導きだそうとする。著者の思考の「痕跡」を残した文章は、整理整頓された講義よりも親近感があって、とてもリラックスして読むことができる。
表現とは、自分の外に表れ出た、人から見えるものすべて。
肉体も、着るものも、化粧も、たたずまいも、言葉も。
こどものころ、自分の内面はこうなのに、それと全然違う髪型に切られてしまったときのくやし泣きをいまも思い出す。
あれは、こども心に、「表現と自分の不一致」のつらさだ。
常に常に、自分の湖をくみ上げるポンプ、つまり、考える筋肉を鍛え、その連携をよくしている人は、しだいに、自分の想いと、ピタッと言葉が一致してきて、自由だ。
その解放感は、人をも、すがすがしくさせる。
表現とその人の一致。
そのための、「考える力」、それがある人を、私は、心底、自由で、話のおもしろい人だと思う。
(109頁)
とても当たり前のことを言っているはずなのに、言葉のひとつひとつがグサっとくるのは、わたしがそれをやり切れていないからだろうと思う。
変な髪型にされちゃったときの苦しみ、不快感は自分のしたい髪型を伝えないと解消されない。
「意志を伝える」こんな当たり前のことをおとなになってしにくいと感じるのはなぜだろう?仕事のせい?こうありたい、を自分の言葉にするのがめんどくさいほど忙しいから?
などと悶々と考えさせられる。
感じたことを、外に表すための勇気、それが育つ場、それらがないことによって、つらいことや、やなことは、ただただ、不快な気分となって身体にたまっていくだけ。
そう考えると、やるせない。(中略)
表現すれば、むしろつらいことこそ力に変わる。(中略)
表現する、それだけで尊いではないか。
表現とは何か、小説を書くとか、絵を書くとか、音楽をすることとは限らない。
音楽つくったって、自分の中のものを何も出さなければ、表現ではないし、仕事の指示だって、自分の想いを言葉にすれば表現だ。
表現とは、自分の想いを形にして人に通じさせること。(中略)
表現する、それだけで尊い。
(153頁)
放っておくと気化してしまう「超おもしろかった!」という思いを言葉に残すために始めた読書感想文は、わたしの中のモヤモヤを言葉にすることでもあり、それはある意味でわたしを表すことでもあり、自分の意志の原石として蓄積されているのだな、と確信させてくれた。
読みながら、読書感想文を書き続けていることが認められたような、なんとも言えない安堵感に包まれた。
表現すること。
意志を伝えること、伝えるための言葉を考えること、それを突き詰めること。これを意識していこう、と思った一冊だった。
自分の意志をなかなか伝えられない人、日常にモヤモヤを抱えている人、普段忙しすぎて自分のことをじっくり考える暇の無い人におすすめしたい。