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浅田次郎『終わらざる夏』

浅田次郎『終わらざる夏(上)(中)(下)』(集英社文庫)

一年ほど前にnoteで紹介したいわた書店
(https://note.mu/mrn_123_mrn/n/nac918ea47122)
の素敵なサービス「一万円選書」が先週届いた。

今年のお正月に申し込み(約7ヶ月待ち…!)、やっと届いた11冊!どれを読もうかな〜とうきうきしながら背表紙のあらすじを流し読み、浅田次郎『終わらざる夏』を手に取った。

先週8月15日は言わずもがな終戦の日。
当日は靖国神社にお詣りし、先の大戦で亡くなられた人々の想いを想像しながら黙祷を捧げた。戦争文学であることと「終わらざる夏」というタイトルが気になってさっそく本書を読んだ。
届いた日は偶然だけれど「今、読みなさい!」と言われているような気がした。

浅田次郎『終わらざる夏』は先の大戦が終わった直後、北海道の北方四島よりさらに北東の孤島・占守島(しゅむしゅとう)で起こった戦いを描いている。(上)(中)(下)の3巻構成になっているのはその戦いの記述のためではなく、占守島へ召集された人々とその家族たちの物語を緻密に丁寧に描いたためである。
中心的な登場人物は翻訳書編集者の片岡直哉、4度目の召集の軍曹・富永熊男、医学生の菊池忠彦の3名。彼らは本来召集されることのない人員だったが、大本営の秘密裏の作戦のために占守島へ召集されることになった…。
詳しくは本書を読んでもらいたいのだが、戦争の理不尽さ、矛盾、悲劇があますところなく語られている一冊である。

本書のなかで特に響いたのは、集団疎開中の小学六年生の女子・静代が疎開先から脱走する場面である。
静代は父親からの手紙で空襲で家が焼けたことと母親の死を知り、家のある東京へ向かうために脱走した。小学生が疎開先の長野県から東京までの途方もない道のりを歩き続けることは不可能に近いが、静代はもう戻れないと腹をくくり、弱音を吐かず、考えることをやめず、物事の本質を突き詰めて判断し行動するのである。

考えねばならないと静代は思った。浅井先生がつねづねおっしゃっていることだ。自分が幸福に感じたとき、その幸福がいったい誰によって、何によってもたらされたのかを、必ず考えなければいけない。そうでなければ幸福を受けとめる資格がない。(中略)
意地悪をする村の子も、脱走する学童も悪くはない。悪いのは戦争だと、子供らはみな知っている。そうした正義を等しく共有していればこそ、子供ゆえに力の及ばぬことを恥じて、あの少年は「ごめんな」と言ってくれた。「銭は持ってねえから」を今少し正しく言うなら、「誰も銭は持ってねえから、ごめんな」ということになるのだろう。
静代は歩きながらとうもろこしを目の高さに掲げた。しっかり考えたと思う。幸福がもたらされた経緯がわかったのだから、食べる資格がある。
(中巻 253頁 第五章)

明日死ぬかも分からない緊迫した状況下で、目先の欲に惑わされずに幸福がもたらされた経緯を考える静代の信念に心打たれた。

何が大事か、ものごとの本質を見極めることが大事だ、とnoteでも書き散らしておきながら、わたしは忙しさにかまけて考えることを放棄し「とりあえず仕事!!」「とりあえず○○!!」状態になることが多い。
考えることを放棄したまま日常を送ることは出来る。放棄すればするほど自分の価値観がボンヤリしてきて、動きが鈍くなっていくのを体感する。小学六年生のわたしはこんなに立派なものの考え方をしていなかっただろうし、今もそれができている自信がない。

こんな立派な人たちがなぜこんな目に遭わなければならないのか…占守島の戦いの理不尽さや戦争の矛盾をそれぞれの物語が主張し、呼応している。読み終えるとタイトルの「終わらざる夏」という言葉が戦争という理不尽に振り回された人々の痛切な叫びに聞こえてくる。

ちょうど70年前の昨日今日に起こったことで、その後日本がどうなるかを知っているから余計に胸が痛む。◯◯の戦いがあったという史実を語ることは、その戦いを計画した人ではなく、実際に遂行した人々を語ることなのだと言っているようだった。

いわた書店さんはわたしが北海道育ちだからこの本を選んだのだろう。
終わらざる夏を戦った偉大な日本の先輩方に恥じない生き方をしよう、と心から思った。

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