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“教育格差”とは何なのか - 2

(前回はコチラ↓)

さて、ここから「“教育格差”とは何なのか」について本腰を入れて調べていきましょう。

そのために、大雑把に調べていく道筋を立てます。なので、細かい部分については、次回以降に述べていきます。今回の記事はあくまで仮説、まだ根拠のある話ではありませんのでご注意を


その前に一応。
・私はわかる範囲で“教育格差”について理解しております。“まったくの無知”ではありませんのでご安心ください。調べもののチュートリアルとして、一から調べる目線に立ってお話をしております。どうぞお付き合いくださいませ。
・説明を簡単にするために、詳しい方からすれば不要な説明、不足している説明があるかもしれません。「いくらなんでもそれはダメ」という部分があれば、ご指摘いただけると助かります。。


“教育格差”について、一から考えてみます。

“教育”“格差”に分けて考えてみましょう。

“教育”について心理学者の安藤寿康氏は、動物行動学者のCaroとHauser(1992)が挙げた“積極的教示行動”の定義を要約し、以下のように述べています。

教師役の個体Aが、自分のためだけにならばやらない特別な行動を、自分のメリットには直接ならないにもかかわらず、わざわざ未熟な他者(個体B)の学習(知識獲得)のために行い、それによって個体Bの学習が成立するとき、その行動を教育として定義しているのです。

安藤寿康(2018)『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』 講談社. p.73
“積極的教示行動”についての引用元:
Caro, T. M., & Hauser, M. D. (1992). Is there teaching in nonhuman animals?. The Quarterly review of biology, 67(2), 151–174.

そして、教育社会学者の耳塚寛明氏によると、”格差”を成立させるのは以下の3つだと述べています。

①優劣の価値を伴うまなざし
学力の差異を格差と呼ぶのは、高い学力は低い学力よりも望ましいというふうに、そこに優劣の序列を想定しているからである。
②告発性
差異を格差と呼ぶのは、特定の差異を問題視するからである。そこには差異を問題視させるイデオロギーが存在し、そのイデオロギーに照らして差異が問題化される。
③行動要求
差異と異なり格差は、その是正や縮小、緩和を目指した行動を要求している。

耳塚寛明編(2014)『教育格差の社会学』有斐閣. p.2

教育に上の①~③が絡むと、“教育格差”があるということになりそうです。

①の例では“学力の格差”が挙げられていますが、学力はあくまでも教育のアウトプット(?)であり教育そのものではないのでここではスルーします。

学力を教育に置き換えると「教育の差異を格差と呼ぶのは、質の高い教育は質の低い教育よりも望ましいというふうに、そこに優劣の序列を想定している」ということになります。

つまり、教育格差があるということは、教育には相対的に“質の高い教育”“質の低い教育”があり、かつ、それらには優劣の序列があるということになります。もしくはもっと極端に、教育の有無を両極に置いても良いかもしれません。

そして教育の質を測る“ものさし”が存在しているという前提があるということも言えるでしょう(それがはたして「正しいものさしなのか」ということはここでは触れないでおきます)。ものさしがなければ優劣も序列もつくれませんからね。

②の“告発性”は、「“質の高い教育”・“質の低い教育”の差異が問題視されていると、“質の高い教育”・“質の低い教育”の差異は格差として認識される」ということを表しています。

③の“行動要求”は①、②に依存して決まる要素であると、ここでは考えておきます。

各々の考えによって①②の当てはまり具合が変わってきます。教育の優劣・序列を決める“ものさし”や、差異を問題視する/しないなどは、その人の考え方によるためです。

よって、人により“教育格差が存在する”or“存在しない”、それぞれの判断がなされているはずです。
(このように1か0かで判断しない人もいるかもしれません)


さて、教育の定義や、格差の構成要素①と②について気になることが大きく3つあります。
教育の定義通りに教育をしている“教師役による教育”についての格差なのか
・教育の質を測る“ものさし”とは何か
・なぜ“質の高い教育”/“質の低い教育”の差異が問題視されているのか

次は、上のいずれかを深堀りしていきます。

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