【#22】メシマズ母ちゃんと縦列駐車。

上達、という要素で言えばクルマの運転と料理は似ている。
一部の都心を除きクルマは日常の必需品で、場合によっては毎日使う。これが地方になれば尚更でSUZUKIのディーラーは3kmおきに建っているのではないかと思うほど。父母に加え子供が三人となればクルマが5台。置き場所に困らない地方の持ち家となればSUZUKIやDAIHATSUのKカーに加え型落ちのクラウン、一人一台が珍しくはない。そうじゃなきゃ困るほど、料理同様、毎日と密接に関わっている。(だからラジオというメディアもエリアによってその重要性が変わってくる)

カー雑誌を買うような”クルマ好き”でなくても、車に乗っている間は運転技能という問題がつきまとう。コーナーに差し掛かったとき、パーキングに止めるとき、すべての動作が己の技術に由来する。ところが3年乗ろうが50年乗ろうが、ボーッと運転していては技術は右肩上がりには向上しない。ヘタクソは50年間ヘタクソで、ここに高齢化という身体的スペックダウンが加わるから問題になる。同様にメシマズ母ちゃん(僕はこの言い方をヨシとはしていません)は永遠にメシマズ母ちゃんで、「俺が高校の時、突如実家のメシがうまくなった」という話は聞かない。でも、これはただ一点のポイントで変えることができると考えていて、これは「意識」だということができる。

運転が上手くならない人は総じて大事なことを意識していない。「荷重移動」を意識していない、したことがないのだ。運転というものは地球の物理学の原理原則からは逃れられないのだからアクセルを踏み込めば重心は後ろへ、ブレーキで前へ、コーナーを曲がれば右へ左へ乗員は体を持っていかれる。これが酷いと酔うだけでなく、クルマに余計な荷重がかかるから次の動作が遅れる。切り遅れる、曲がれない。つまりこの先道がどうなっているかを意識していない。下手な人ほど目の前を見て、上手い人は遠くを見ているからすべてが準備できている。日本の道路も必ずしもフラットではない。路面がこのさきデコボコしているな、それが分かれば緩やかに減速をしておく。ガタガタと突っ込んでから対処に追われるからイケナイ。

僕の運転は上手いとは言わないが運転中は常に上手くなろうと意識している。路面の状況、積んでる荷物の多さや乗員数でもブレーキで止まれる距離は変わるし、周辺の込み具合も違うからイザってときに左右どっちに逃げられるかも変わる。ゲームみたいに真俯瞰から見た映像のように状況を捉えていて逃げ場を常に把握しておく癖がある。バックミラー見てる方が多いんじゃないかというほどチラチラ見てしまう。クルマというのはそういう固定できない”変数”のなかで無事故で安定して目的地にスムーズに行かなければいけないから意識のアンテナはMAX状態。特に30歳や40歳という高齢の古いクルマに乗っていたこともあって振動や匂いにも敏感で、今何が起こっているか?に気を張り巡らせる癖は未だに抜けない。
60m前方に赤信号が見える。そこでやるのは”踏力一定ブレーキング”。踏み足しも踏み戻しも無く、最初に踏み込んだ力のまま停止線1.5m手前にクルマを着けることを意識する。赤信号の度に、これをやる。レンタカーでも最初の1、2回を除けば3度目からはピタリと止める。どの瞬間も自分の感覚と現実のズレを合わせ込む作業を繰り返し続けることで確実に上達方向へにじり寄っているはずだ。あ。今これを書いていてふと頭をよぎった余談をひとつ。ある時期からのメルセデスなんか大雨の日に下手なオバチャンが無茶な運転しても絶対にスピンなんてしない。電子制御によって助かる命って素晴らしい。なんにも付いてなかったビンテージカーの運転は、それはもう、それなりだった。1週間放置してもサビないステンレスの包丁みたいなものか。(余談おわり)

〈下手な運転はデジタル〉〈上手い人はアナログ〉だという表現が当てはまる。アクセルを踏むとき、戻すとき。ハンドルを切るとき、戻すとき。下手な人は0→100だったり0→50→100という操作になりがちだからギクシャクするしステアリングの切り足しやブレーキの踏み足しが日常。でも上手い人は0〜100の間がまるで機械式時計の秒針のようにきめ細かく区切られている感じで乗員の姿勢は穏やか。クルマの重心も常にニュートラルだから、危険があっても即座に回避が可能。また、それでいてメリハリも効かせられる。荷重移動を知っているドライバーは生死を分ける急ブレーキでは親の仇の如くガツンとブレーキを蹴って止めることができるが、多くの人の急ブレーキは実は半分ほどの踏力でしか踏めていない。減速とは、前につんのめってフロントタイヤを地面に目一杯押し付けて仕事をさせるのだから、後に荷重など残しすぎても意味がない。だからパニックブレーキでは踏むというよりは蹴るに近い。こんな話がある。亡くなったモータージャーナリストの徳大寺有恒氏は免許取り立ての奥さんが運転するVWゴルフ1(徳さん風に言えば「ゴルフじゃない。グァルフ。風って意味だよ」)の助手席に乗り込み、人気(ひとけ)のない駐車場で雨の日にたった一度だけパニックブレーキの練習をさせたら、それ以降ただの一度も事故を起こしていないという。意識すること、やってみること、これが財産になってくる。
ちなみに力いっぱいのフルブレーキングでステアリングを切っても曲がらないのはなぜか?それはタイヤの性能を100としたとき、止まるために100使っているから左右方向へ使うパラメーターが残っていないから。
またアイスバーンで一旦滑り出すとステアリングもブレーキも効かないのはなぜか。本来100使えるはずの摩擦力が滑って機能していない=0になっているから何をやっても0なのだ。だからそのまま待って少しでも摩擦が復活したトタン、その時切っていた方向に急に向きを変える。つまり雪道は4駆がいい!というのは”進むとき限定”なのであって、一旦滑り出してしまえば4駆だろうがなんだろうが”鉄の塊が滑ってる状況”は同じ。だって2駆だろうが4駆だろうがブレーキは4つ付いてるし、その4輪が滑って摩擦0になるだけなのだから。
またしても余談。飛行機の着陸はノーショックで滑らかなのが上手いというのも嘘だ。雨の日などランウェイが滑りやすい状況で超滑らかにタッチすればタイヤと路面の間に水の膜ができるハイドロプレーニングを起こしやすい。前述のアイスバーン同様摩擦が0になるアレだ。だからパイロットはあえてガツンと接地し荷重圧をかけてやる。これを”ポジティブに着ける”という。やはり物理の原理原則には逆らえない。(余談終わり)

フライパンに火を入れ、野菜を炒めます。火が通りました、盛り付けました。たったこれだけなのに、おいしくない。なぜなのか。一部が生焼けだったり、火が入りすぎていたり。なんでこーなっちゃったのか分析をせず明日も料理をするから上手くはならない。人参とじゃがいもでは美味しく味が出せるサイズが違うから切り方が違う。固いものから先に火を通す。味が出る前に焼けちゃうので困る!それならごくごく弱火でじっくり炒めてみようか、などなど試行錯誤は続く。料理は化学実験なのだから失敗の補正なしには成功はない。
僕は料理を上手いとは言わないけど上手くなりたいと思い続けているから、「もうこれ以上はない、完璧だ!」とならない限り野菜の切り方ひとつとっても毎回mm単位で変えているし野菜という不確定要素を相手にする限り完璧に固定した料理法はありえない。うねっているのか凹んでいるのか、道路を見て運転を変えるのと同じだ。

でも、そんな自分が直面しているものに盲目的に体をうごかしてしまってやしないか。クラシルやクックパッドはよくできていて動画を見たまんまコピーすれば同じものが作れるけれど、なぜひき肉を先に炒めるのか?なぜ強火なのか?は論じない。いや、そういうのがカッタルイから皆自炊を嫌いになっちゃったんだという説もある。そこを大胆にカットした。そのとおりやればいいじゃん、うまいじゃん、だ。よくできている。真俯瞰から撮った料理動画は確実に料理人口を広げたという意味でその功績は大きい。デジカメもそうだ。絞りだシャッタースピードだ被写界深度だメンドクサイ理屈抜きに撮れる、失敗したら消せる。写真文化を生き返らせた功績はデカい。そう、素晴らしいのだ。だからその中から一部、本質に迫ってみようとする人が出現したら素晴らしい。

失敗料理も傑作も、因果応報の塊だ。ペロリと舐める。まずい。しょっぱい。科捜研ならその原因を探るはずだし、同じ轍は踏まないだろう。

車庫入れがうまくいかない?じゃあ次回はステアリングを切り始めるタイミングを早めてみればいい。それでもだめなら遅らせて。変え続けるといつか必ずハマるし、変えない限り鍵穴は見つからないのだ。

♪〜何も変っちゃいない事に 気がついて 坂の途中で 立ち止まる
(C)忌野清志郎

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