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無題

2024/8/25(日)

この日は所用で広島へと向かった。
千葉から車で約13時間。非常に長旅だった。

午前11:00。次の予定まであと3時間あった。
そのため、観光などの予定はなかったがせっかく来たのだからと私たちは原爆ドームへ足を運ぶことにした。

原爆ドームの知識としては
・"広島県物産陳列館"として使われていたこと。
・原爆被害のシンボルであること。
この二つぐらいしかなかった。日本人であるが「核が落ちた都市の遺産」であることしか知らない。だからこそ、この機会に深く知ろうと思った。

初めて見た原爆ドーム。第一印象は"思ったよりも小さい"。それ以外の感想は無かった。教科書で見た姿と変わらず、それ以外の印象は特に無かった。

原爆ドームの写真。79年が経ったにも関わらず綺麗に保たれていた。


原爆ドームを過ぎ、広島平和記念資料館へと向かう途中に"原爆の子の像"が建っていた。ここら辺で外国人観光客がやけに多いことに気がついた。

原爆の子の像。この像が建てられるきっかけとなったのが
被爆者・佐々木禎子さんの死であるそう。


広島平和記念資料館に着くと紙か電子でチケットを購入する流れとなっていた。時間の関係上、並ばなくても入れる電子チケットを選択した。この時、購入サイトが"アソビュー"だった事に少し引っ掛かりを感じた。

入り口には地球平和監視時計が設置されていた。
この時計には原爆が広島に落ちた日から今日までの日数、最後の核実験から今日までの日数が刻まれている。

地球平和監視時計。
この時計はこれから先、絶対に広島以外には作ってはいけない。


地球平和監視時計を過ぎいよいよ資料館へ。
資料館は写真を撮ることが許されていた。(フラッシュは不可)






1枚も写真を撮ることはできなかった。

多くの観光客でごった返していたからではない。

写真を撮る余裕なんてなかった。

写真、絵、言葉、資料…全て見落とす事なく一つ一つ目に焼き付ける事で精一杯だった。

写真に映る人の心情、言葉を残した時の気持ち、シャッターを押すカメラマンのやるせ無さ、全て思い起こす事で気持ちが重くなった。生き地獄に近い。

このような言葉に表せない凄惨な地獄を体験した人達からすると、この程度で生き地獄と言うのは生温いだろうし、申し訳なさすら感じる。ただ、それ以外の言葉がない。

その中でも特に印象に残ったのは、資料館の異様な静けさと本館を抜けてすぐの通路での光景。
椅子に座っている見学者のほとんどが静かに項垂れていた。日本人、外国人問わず。

その姿を見て、言語化できない気持ちがある。強いて言うのであれば筆舌し難い無力感を感じた。

予定時間の事もあり、本館以外は見ることはできず、平和資料館を後にすることとなった。
資料館を見学した後に見た原爆ドームは静かにそこに佇んで、来る人々に歴史を伝えるかのようだった。

今回原爆ドーム、広島平和記念資料館に行ったことで「平和は誰かの犠牲の上で成り立っている」と感じた。原爆を投下した事は一方の目線で見ると確実に"悪"である。多くの人がそう答えるだろう。

ただ、当時のアメリカの視点で考えると原爆投下は"善"だったのだろう。自国を守る為には必要な手段だったのだろう。

誰かが犠牲になる事で誰かは平和に過ごすことができた。ただ、原子爆弾は誰かが平和に過ごすための代償としてはとても大きなものであった。

善や悪は見る人や見方によって変わってしまう。
善や悪がみんな違うからこそ、それぞれがそれぞれの正義を振り翳すことによって、争い事は起こるし無くならないのだと思う。

解決策があるかはわからない。一個人が考えたところでどうなるとも思ってはいない。

ただ、自分ができる事は日本人として、教育者として広島と長崎に投下された原子爆弾の恐ろしさと凄惨さを絶えず伝えていく事だと思っている。

これから生きる子どもたちもその先を生きる子どもたちもずっと平和でありますように。



その後、気を取り直してお好み焼きを食べた。
気は取り返せなかった。凄惨さを忘れていない良い証拠である。お好み焼きの味は覚えていない。

本場のお好み焼き。

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