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いつか還る

関東が梅雨入りしたらしい。

自分の統計的に、梅雨の時期に思考が滞るということがここ数年の日記を見ているとわかる。梅雨のせいか、体調のせいか。「人間」疲れがすごい。

SNSを開くだけでも、広告などのキャッチしたくない情報がバーっと目と頭に飛び込んでくる。昔はどのSNSもこんな状態ではなかったが、今はほぼ広告だとか知らない人の投稿とか。ブロックしても次から次へと湧いてくる。そんなのばかり見ていると「人の欲」が目に見えるように伝わってくる。不自然に美しく整えられた写真も、心のない文章も。最近はどこへ行っても、節操なくスマホやカメラで撮影しまくる人がたくさんいて、スーッと血の気がひく。

なんだか自分のタイムラインにも、自身の欲が見えてきて嫌になってしまった。人間と欲は切り離せないし、悪いことではない。夢や成功には欲が必要だ。そんなのわかってるし、誰かを否定したいとかではない。

幼い頃から感じてきた、自分の天邪鬼さ。これほどめんどくさいものはなくて、一つ疑問を抱くと透明な水に黒いインクが広がるように一瞬で心が真っ黒になってしまう。厄介だ。だから人に関わりすぎないように、会社には所属しないと決めているし、一人で生きていくと決めている。自分の歪さで、人を困らせたり傷つけたくない。

今一度「つくる」ことを考えている。社会に出て一番最初に飛び込んだのがデザインの世界で、たくさんの広告も作ってきた。人がどんな言葉に弱いか、目線がどう動くか、何が新しいか、どうしたら注目を集められるか、伝えられるか。クライアントのため、あらゆることを考えてデザインすることが自分の仕事。だから余計に、流れてくるものの背景が手に取るようにわかってしまうのかもしれない。

今も本業はデザインで、広告は作り続けている。だけど、違和感と心の消耗が激しいのも事実。プライベートで自分がつくりたいものを自由につくるようになってから、戦略的に何かを伝えていくことが困難に感じるようになってきた。自分の中に疑問があっても、作る。言われた通りに、作る。お金のために、作る。結構しんどい。

本当に無理になったら、やめて清掃員になりたい。残りの時間は好きなものをつくることに時間を捧げたい。完全に作家に集中することも考えたけど、それはそれで時間に追われて作業のようにつくることに疲れてしまう気もする。世間は生きてるだけでえらいっていうわりに、生きているだけでお金はかかる。無職だった時、いろんなバイトや派遣をしたけど、清掃の仕事が一番集中できた。それに日本の清掃員の人達って、すごいと思うの。東京の駅とか施設とか道路ってゴミがなくてとても清潔じゃない。本当に評価されるべき人達は、影で人のために働いてくれている人達だと思う。

自分が生み出したもので、過度な広告はしたくない。人の心を意図的に動かすんじゃなくて、感覚的に何か感じるものをつくりたい。伝わらなかったらそれまでだと思うし、それでも手を止める気はない。誰かを救えるとか、世界を変えられるとは思わない。だけど寄り添うことはできると思ってる。自分も、誰かがつくったものに感動や共感をして、寄り添ってもらって生きてる。

自分がしたいことは、心の中にあるもの、感じたものを、ことばにすること、かたちにすること、絵にすること。ていねいに、つくること。

太陽が顔を出して体調が整ったら、心も晴れるだろう。その辺はほんと単純なのだ。今の自分が心地いいと感じる音は、ピアノの音と、雨の音。人からうまれた音と、自然からうまれた音。調和して、やさしく耳に溶けるから不思議。

「人は死んだら森へ還る」という、スウェーデンの死生観を信じている。死後の世界や生まれ変わりは信じてない。死んだら自然へ還ると思ってる。自然と野生に、ずっと憧れている。人間の手が加わっていない無垢で美しいもの。宝石より山や海の石が好きなのは、無垢だからだろう。

子供の頃からその魅力に惹かれて集めてきた石は、死ぬ前に海へ還すつもりだ。地球と共に生きてきた石達のほんの100年程度の記憶に、私の部屋にいたことを刻ませてね。波の音が消えちゃう前に、もとの場所へ還すので。

子供の頃感じたちょっとした寂しさや悲しさ、今でもずっとある。人を木にたとえたら、年を重ねることは年輪を重ねていくのと同じで、一本の木の中に、子供の頃の私も、高校生の私もずっといるから、消えるはずがないんだよね。想いや記憶は、重ねていくもの。簡単に断捨離などできない。

そして私も、いつか自然に還る。そこに向かって生きている。シンプルな心のままで、ずっとここにいたい。

とっちらかった文章になったけど、これが今のモヤモヤの正体なのだと、なんか納得。出しきってちょっとすっきり。


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