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雑感 次は私の番かもしれないから。

ちょっと前の話だけど、十数年働いても手取り十四万の日本は終わってる、ということを言った人に対して、堀江貴文が「終わってるのはお前だろ」みたいなことを言ってちょっと炎上してた気がする。たしか。

どっちの言いたいことも何となく分かるから、別にどっちが正しいとかそういう話をしたいわけでもなく、どっちかを擁護したいわけでもない。最も平和な言い方を選ぶなら、多分日本は終わってるしその人も終わってるし、終わってるのはお前だろとか言っちゃう堀江貴文も終わってるし、そんなことをこういう日陰からこそこそいう私も同程度に終わってる。

まあそれは冗談だとしても(別に面白くはないけど)、この手取十四万の人を擁護して、堀江貴文を叩いた人たちは、きっと怖かったんだろうな、と思う。

何がって、「次は自分の番かもしれない」ことだ。

社会のせいだ、日本のせいだ、世の中終わってる、死ねニッポン。
そう言う人に対して、「そうだよね、わかるよ、あなたが悪いんじゃなくて、社会が悪いんだよ」って言えば、自分が苦しくなったときも社会のせいにできる。

却って、そう言う人に、何言ってんだ、ちょっとしたスキルさえあればあと数万簡単に稼げる今の世の中で、社会のせいにして自分で行動しないお前が悪いんだよ、って言ってしまうと、自分がいざ苦しい状況に追い込まれたときに、きっと自分もそう言われる。

それを「見捨てない」と呼ぶ人もいるし、「傷の舐めあい」と呼ぶ人もいる。
これはもう個人の考えの範疇のことなので、どっちが正しいのかなんて私にはよくわからない。
今、担任をしている子どもたちは、共通テストの記述式導入や民間試験の導入のあれやこれやに振り回され、サンプル問題の公表は平成三〇年で終わっているから、一ヶ月後にどんな試験を受けるのか、全くわからないものを受ける。おまけにコロナなんかがあって、卒業したところで「学生生活」が待っているかもわからないし、大学四年生になったときには私が学部生だった頃と同じくらい就職に苦労するかもしれない。つくづく、被害しか受けていない学年だと思う。そんな彼らを見て、思うように人生が立ち行かず、「社会のせいだ」と言い出したとしたら、多分私は「そうだよね、辛いよね」って言うと思う。

でも、正直に言って、顔も名前も知らないどこかの誰かだったら、「努力したの?」って思ってしまうかもしれないし、言ってしまうかもしれない。その可能性は否定できない。実際は、世の中にそんな人はたくさんいる。社会的に「悪者」のレッテルを貼られた人には何を言ってもいい、どれだけ傷つくような言葉でも投げつけていいと勘違いしている人なんてたくさんいるからね。石を投げればなんとやらだ。

顔も名前も知っている人と、そうでない人に、同じだけの情を(それは、色においても、温度においても、体積や質量においても)用意して、はいどうぞってするのは難しい。少なくとも私には難しいし、多分大抵の人にも難しい。

だとしたら、「そうだよね」って言ってあげるというポーズって。

それはもしかしたら「見捨てないぞ」という温かい心なのかもしれないし、もしかしたら「思いやり」なのかもしれないし、もしかしたら未来の自分かもしれない誰かを守っているのかもしれないし、もしかしたら悪者にならない振る舞いを探した結果かもしれないし、もしかしたらその「終わってるのはお前だよ」は「私」に向けられたものだと思ったのかもしれない。

だったら何だ、と聞かれたら、別になんでも無いんだけど。
ただ単に、思っただけ、という話。


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