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「意味の深みへ2」

前回のブログで、【「井筒俊彦」先生の『意味の深みへ』の第6章、「イスラームと言語哲学」から本論に入ってゆきます。】と書きましたが、本題に入る前に、嵐山天龍寺の「座禅の会(龍門会)」での現実の体験も、ちゃんと伝えておきたいと思い、以下に書いてみます。これがないと、どの様に「現実の出来事」と「この本の内容」が空間共鳴しているかが伝わりにくいと思いました。
以下も、当時の私のブログからの引用です。どこやらの偉い先生の文献の引用ではなく、過去の自分の体験ブログの引用ばかりで申し訳ありませんが、お付き合いください。

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洗練された「龍門会」
2019/10/14 [19:40]
http://nooslodge.sns.fc2.com/exec/member/blog/view/2844834/

昨日は嵐山天龍寺の「座禅の会(龍門会)」に行ってきました。天気はさすがに、台風一過とは行きませんでしたが大きく崩れることもなく、洗練された「座禅の会」となりました。空気感も軽く涼やかで、いつになく「禅の講義」にも力が入った様子でした。
私が「龍門会」に足繁く通っているのは、「禅」について深く知りたいからです。これは、「宗教への興味」というよりも、「自己」と呼ばれる「存在の本質」を知りたいとの意味があります。「科学的合理性」が極まった今だからこそ、その「門」が開かれるはずだと思うからでもあります。「仏教の歴史」は、まさにその本質追及の道でもあった訳です。本日の講義は、まさにそう言った「洞察の歴史」を垣間見るものとなりました。まさに「第一級の講義」と呼ぶに相応しいものです。イヤーこんな素敵な講義を無料で聞ける、この「稀有な立ち位置」とは、いったい何なのでしょうか。。。「佐々木容道」老師も、何時になく饒舌でした。

さてさて、思い返せば、この様な「稀有な立ち位置」に至った経緯は、「人生の諦観」と「地母神との薫修」に始まります。まさにそうとしか思えない劇的な「反転の体験」です。リーマンショックに始まった「社会的立ち位置」の変化は、アルクテゥルスカウンシルが指摘した通りの「偽りの自己を放棄する」プロセスでした。そのプロセスは、「苦しくも楽しい」変容のプロセスです。まさにこれらは、「場を信頼して生きる」ことで起こっています。この変容のプロセスは、「自己のアイデンティティーを捨て去る」ものではありませんでした。否、「それを強化する」とでも言いますか、今思えば、生きながらにして、「ほんとうのわたし」に繋がって(変容して)いくプロセスのようにも思えます。そういった意味でも、今までブログに書いてきたことに、ウソ偽りはありません。これらは、「信仰や思想」と呼べるような類のものではなく、『体験に寄り添う「言葉と意味連関の作用」』そのもの。もっと言うと、「体験と心の意味共鳴(空間共鳴現象)」とでも言えば良いのだろうと思っています。
それでは、「佐々木容道」老師の講義の内容を、掻い摘んで書いてゆきたいと思います。
夢中問答集の第48問答、「座禅は賢愚をえらばず」の続きです。この内容を真に理解するには、「座禅の歴史」を理解している必要があるそうです。「佐々木容道」老師の講義は、通りいっぺんの内容解説に終わらず、この部分から始まります。

「座禅」と呼ばれる仏法の流れは、遠くインダス文明から受け継がれて来ているようです。これらの伝統は、アーリア人のインド侵入以前からあり、「ヨーガ(ウパニシャッド)」と呼ばれる技術が、その流れです。私には、インドの大地が生み出した、意識エネルギーの作用にも思えます。「禅」の語源もインドでは、ディーナまたは、ジャーナと呼ばれ、「考える」とか「静かに思いをはせる」との意味のようです。インド人は、気質的に個人主義が強く、小乗仏教的な「自らをたすく」の精神で仏教(ヨーガ)を発展させました。中国や日本の仏教にある「自給自足」の考え方は、インドの仏教にはなく、多くは「王族の寄進」に依存して生計を建てたそうです。「座禅」の前身である「ヨーガ」は、「ヨーク」などとも言い、牛のくびき(牛の手綱)を意味し、「結合させる」とか「結びつける」との意味だそうです。つまり「ヨーガ」あるいは「座禅」とは、凡夫(動揺する牛)の手綱を「自ら」に引いてもらって「本来の自己(ほんとうのわたし)に目覚めていく」ための技術だったようです。これらの伝統は、中国に引き継がれるにあたり、その性質を大きく変化させていくのだそうです。「ヨーガ」は、個人主義的で観念的なインド人から、集団的で現実的な中国人に受け継がれることで、大乗仏教的(救済的)な色彩を帯び始め、「座禅」となります。ここでひとつの疑問が沸きます。『インドの大地に発する「意識エネルギー」が、なぜ「本質」を失わずに、中国に引き継がれた』のかです。そしてその答えが、「薫修・薫習」にあるように思うのです。以前ブログにも書きましたが、以下の意味となります。

【薫修・薫習】
『香気が衣服に移りしみこんで、ついにはその衣服自身が香気を出すに至るように、体や言葉、心のはたらきが心に残す影響作用』

「肉体」や「言葉」「心の働き」を通して中国に引き継がれた「座禅(開祖達磨禅師)」は、「六祖慧能禅師」を経て大きく発展します。ここで「仏教」は、極端な苦行や超能力の要素を排し、洗練させ、中庸を重視する「中国仏教」へと結実させるそうです。実は「禅」には「神仏をお祭りする」との意味があり、「座禅」も「禅宗」だけのものではないそうです。「密教」にも「浄土教」にもあるのだそうです。もともと「浄土宗」にも「十六観想」の伝統があるのですが、日本では、「浄土・浄土真宗」にある「観想念仏」が教義の中心となって行きます。そして日本に伝わった「禅(仏教)」は、やがて中国での使命を終え「ただの学問」へと変わってゆきます。
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嵐山天龍寺の「座禅の会(龍門会)」の「佐々木容道」老師の講義は、私の好奇心を満足させるためだけにしては、余りあるクオリティーの高さです。これらの「体験」とともに、「井筒俊彦」先生の『意味の深みへ』との出会いが、見事に空間共鳴しあっているのです。それでは以下に、『意味の深みへ』の「あとがき」の抜粋を記載して、この度は、終りにします。


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どんな些細な、取るにも足りない(と思われる)ような、ほんのかすかな動きでも、「こころ」の奥に、ひそかな影を残さずにはいない、と唯識は説く。我々のあらゆる経験が、我々自身の存在の底知れぬ深層を、刻々と「薫習」していく、というのた、あたかも、衣に薫きしめられた香の匂いが、消えずにそこに残るように。
しかも、この「薫習」のプロセスは、個人としての我々の個人的経験だけに終始するものではなく、そこには、先行する諸世代の全ての人の全ての経験が、文化遺産という形で含まれる。つまり、我々がまったく気付かないうちに、我々の実存の深みは、まず自分自身の、そして結局は全ての人の全ての経験の痕跡をとどめていく、というのである。
ところで、唯識哲学の説く「薫習」とは、現代的な表現で言い換えるなら、「意味化」のプロセスということになるだろう。すなわち、一々の経験は、必ず・こ・こ・ろ・の深層にその痕跡を残すとはいっても、生の経験がそのままの姿(たとえば、普通の意味での記憶というような形)で残留するのではなく、すべてその場で、いったん「意味」に転成し、そういう形で、我々の実存の根柢に蓄えられていくのである。それを唯識の術語で「薫習」と呼ぶのだ。
人間の・こ・こ・ろ・の機能を、表層から深層に及ぶ八つのレベルに分けて構造モデル化する伝統的な唯識の意識論では、このように過去の一切の経験が「意味化」して蓄えられる内的場所として、この構造モデルの最深層(第八番目のレベル)を指定し、これを「アラヤ識」(文字通りには「貯蔵庫意識」)と名づけ、そこに貯蔵される「意味」を「種子」と名づける。
「種子」、すなわち、この段階での「意味」、は我々が常識的に理解しているようなコンヴェンショナルな「意味」ではない。コンヴェンショナルな「意味」の成立は、表層意識のレベルでの事態。「アラヤ識」のレベルにおける「意味」は、「意味」というより、むしろ「意味」エネルギーというほうが真相に近い。つまり、「アラヤ識」は、全体としては、カ動的な「意味」の流れである。
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