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二度目のインパクト4

以下は、「井筒俊彦、言語の根源と哲学の発生」に付いて、以前に考察した内容の抜粋です。全てを書くことはできませんが、「禅」において、現在では多くが忘れさられてしまった、「東洋の知啓」が要約されています。それでは、仏教学者の未木文美士氏の寄稿による、「禅から井筒哲学を考える」の章です。
未木文美士氏によると「井筒哲学」は、「本質」の理解を大きく二つの立場に分けるそうです。一方の「禅」に代表される「本質は無い」と考える立場と、キリスト教やイスラム教などの、多くの宗教にみられる「本質は有る」との立場です。そして「本質は有る」との立場で、意識の深層に関わる部分(イスラーム哲学では、個体的表層の部分をフウィーヤと表現し、全体的深層の部分をマーヒーヤと表現するそうです)を、さらに三つに分割し、次の3つのタイプで表現します。

① 「タイプ1」:「無意識層」のみがこれを捉えうるとする
② 「タイプ2」:「象徴表現」を通してこれを捉える
③ 「タイプ3」:「顕在意識」により理知的に把握可能とする

概略すると、フロイト心理学が「タイプ1」、ユング心理学が「タイプ2」、「タイプ3」はとても微妙で、井筒俊彦は、ユング心理学の「元型論」を当てはめるのだそうです。

私の今の見解では、フロイト心理学の「タイプ1」、ユング心理学の「タイプ2」までは一緒ですが、「タイプ3」を「ヌーソロジー」と位置付けています。ヌーソロジーには、「タイプ1(チャネリング)」と「タイプ2(次元観察子、大系観察子)」の要素もありますが、メインは「タイプ3(量子論と複素数学)」だと考えています。

話を戻しますと、「井筒哲学」では、「本質は無い」と考える立場と、「タイプ1」と「タイプ2」の立場に着目するそうです。「本質は無い」との立場では、後年の「禅」の研究があげられ、「タイプ1」と「タイプ2」の立場では、「心理学的なアプローチ」と「自らの神秘体験」があるようです。それでは、後年の「禅」の研究に付きまして、本書を引用しながら、引続き述べて行きたいと思います。

未木文美士氏によると、「井筒哲学」における「禅」解釈は、わりと古い理解の「禅」であると言います。ですが、非難にあたらないとも言います。「禅」自体が、固定された「概念」ではなく、時代を追うごとに変化していく、「本質」を持たない「念ねん起滅の無分節(概念に分節化される以前の意識エネルギーの状態)」から、発しているからです。井筒俊彦は、「無分節」から発する「念ねん起滅」の「永遠性」を、「共時的構造」とも表現します。

それでは次に、倫理学者の頼住光子氏による「井筒俊彦と道元」からの考察です。「道元」は、「禅」の理論家として、「井筒俊彦」が、最も信頼する宗教者であり、思想家なのだそうです。そのあたりの知識が全くない私にとって、無謀な試みではありますが、現代を代表する思想家の知識を、二重、三重に借りながら、述べて行きたいと思います。
「道元」の最も有名な書物として「正法眼蔵」があります。これらは、西洋の思想家にも、多くの影響を与えているそうで、ギリシャ哲学以降、西洋が閉ざしてしまった「神秘主義的方法論」が、東洋思想の流れの中に、残されているのだそうです。「井筒俊彦」は、「イスラーム神秘主義(スーフィズム)」を通してそれに触れ、探求を始めた一人です。その根底には、「絶対無分節の自己分節(概念化される以前の意味的エネルギーが、自らの意志(力)で、概念として展開される様子)」なる「生きた概念」があり、「井筒俊彦」は、そこに着目します。
さて、「井筒哲学」の深奥に入ってきました。前回述べた、「念ねん起滅」の「永遠性」に付いて、もっと掘り下げていきます。井筒俊彦は、「禅」における「分節と無分節」の哲学を以下の三段階に分けて、説明するそうです。

「分節Ⅰ(未悟)」
[意識の志向的次元/表層世界における分節:Aは、Aである/Aは、非Aでない]」

「無分節(悟)」
[意識の非志向的次元/深層世界における無分節:Aは、Aでない/Aは、非Aである]」

「分節Ⅱ(悟後)」
[意識の非志向かつ志向的次元/表層世界を超えた無分節かつ分節:Aは、(非Aである、ゆえにそれは)Aである]」。

この「分節Ⅰ(未悟)」「無分節(悟)」「分節Ⅱ(悟後)」は、「表層意識(実:実数)」「深層意識(虚:虚数)」「表層意識+深層意識(実+虚:複素数)」とも解釈できます。つまり、「人間の進化」は、この経路を辿ると、解釈できるのです。
僭越ながら、私の体験でいうと、「現実→虚無→2重写しの現実」をたどります。
「勝手に進化を決めるなよ。。。」とのお叱りが聞こえてきそうですが、そうなのです。まあ。。。「単なる妄想」です。。。そしてこの「絶対無分節の自己分節」は、「言葉」としても、発現するのだそうです。その発現を辿ったのが、「真言」であり、「シリウス言語」であり、「場の意識」と「関係の意識」のコトバであると、勝手に理解しています。
それでは次に、井筒俊彦が考える、「仏教思想<禅>」と「イスラーム神秘主義思想」の「共時的構造」に付いて、テキストを参考にしながら、述べてみたいと思います。
引き続きの引用です。

『「創造不断-東洋的時間意識の元型」と題された論文の中で、井筒は、道元とスーフィズムの神秘主義哲学者である、イブン・アラビー(イブヌ・ル・アラビー)とを比較する。両者は歴史的、文化的コンテクストを異にしながらも、その思想の透明性ゆえに東洋哲学の最深淵に達しており、「絶対無分節の自己分節」を「創造不断」という時間論として結実させたというのである。この「創造不断」について、井筒は、瞬間ごとに新たなものとして存在が立ち現れてくることであり、それは「時の念々起滅」であるとともに、「存在の念々起滅」であるとして、この「創造不断」において存在即時間が成り立っていると指摘する。神を立てるか否かをめぐって正反対の立場を取る仏教とイスラームに属しながら、両者は、観想的主体に開けてくる本源的時間論を打ち立てており、その点で、「時間の原初的直観における根本的一致」を示しているのである。』

ここに示される一致は、「存在」に対する、「場(東洋)」の文化からの見方と、「関係(西洋から中東)」の文化からの見方の立場の違いを示しており、根本において一致していると読み解くことが出来ます。この立場の違いは、「多神教(中空構造の意識)」と「一神教(中心構造の意識)」の立場の違いとも読み替えることが可能です。この一致の事を、井筒俊彦は、「仏教思想」と「イスラーム神秘主義思想」の「共時的な一致」と表現しています。「宇宙の深層構造」に横たわる「念々起滅の自己分節」は、「文化的な相違」を越えた、普遍的、客観的な「実存の存在」へと繋がる、「思想的(思考的)営みのひとつの到達点」であると考えられます。
さて、井筒俊彦につきましては、批判的な見方をする思想家もいらっしゃいます。その一つに、「イスラーム」に対する、日本的な偏った紹介の仕方を指摘します。でも井筒俊彦の「イスラーム理解」に偏りがあるとは、考えません。あくまでも、「紹介の仕方」を、指摘するのです。その偏りとは、「法学」の軽視と、「神秘主義」への過度の傾倒です。そこには、以下に引用する氏本人の告白が絡んできます。

『こうなればもう、「東洋」をどう受け止めるかは、個人個人の意識の問題である。そしてこういう観点からすれば、私が述べたことも、私自身の「東洋」の意識にもとずいた、結局私だけの今後の仕事のプログラムにほかならないということになるだろう。だが、それは私にはどうにも仕様がないことなのだ。主体的、実存的な関わりのない「他人の思想の客観的な研究」には、初めから全然興味がないのだから。』

この一文を「神秘主義哲学」を「合理主義哲学」の上位におき、「主観的な思想史叙述を肯定している」と批判するのです。一見そう見えます。「関係の意識」の立場なら。。。。でも、「場の意識」の立場だとそうは見えません。井筒俊彦が述べる、「文化間の深層に横たわる共時的な一致」を探求するには、「場の意識」の立場が欠かせません。つまり、「自らの文化(私自身の「東洋」)」を入り口として探究するしかないのです。
そこには、「宇宙大の普遍性」へのあくなき探究心が垣間見えます。「場」は、「関係」を超えて含む、深層(ヌーソロジー的には奥行き)に普遍なる位置を内包した概念です。これを「陰陽二元相対」として捉える、「思考の誤解」を解かなければなりません。

如何でしょうか。以上が過去に書いたブログの要約です。
この「陰陽二元相対」とは、二つの立場が、次元水平的にぶつかり合う「関係の意識」の立場を指しています。つまり、お互いの関係性が、社会的、政治的な対立へと駆り立てる逃げ場のない世界です。そしてその閉塞的な状況に、新たな地平を切り開くのが、私が「場の意識」と呼んでいる意識の境地でもあります。
それでは次回は、「井筒俊彦」氏の著作である、「意味の深みへ」内容に、言及して行きます。そこには、更に驚くべき内容が書かれていました。

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