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「意味の深みへ4」

前回のブログで、『「場の意識」と「関係の意識」』の言葉にまつわる、不思議な発声体験について書きましたが、正確には、「バトカンケイ」というコトバが、まず初めにあったのです。そして、そのコトバの意味を探求する中で、『「場の意識」と「関係の意識」』との言葉に、発展して行きました。さて、「ハイヤーセルフ」という言葉は、「禅」から派生して、日本に逆輸入された言葉です。あのライトなイメージに、万人から指示される、説得力はない様に思います。誤解もあるかも知れませんが、欧米スピリチュアルと呼ばれる「癒し系サービス業」の一種に、思えてしまうのです。
では結局何が違うのか。。。以下は、「スーフィズムと言語哲学」のつづきです。


『ところで、私はすでに「スーフィー」という語に対して、「イスラームの神秘家」という訳語を用い、「スーフィズム」を「イスラーム神秘主義」という表現で置き換えましたけれども、たしかにスーフィズムは実践的にもまた理論的にも、普通、西洋でミスティシズムと呼ばれ、また日本語で「神秘主義」と訳しならわされているある特殊な 精神現象に、ほぼ正確に該当するものであります。したがって、スーフィズムとは英語などでいわゆるmysticismのイスラーム的形態、つまりイスラームという特殊な文化枠の中で発展した神秘主義の一種、一つの型として理解しておいてよろしいと思います。といたしますと、それではイスラーム的とか、キリスト教的とかいうふうに特殊化される以前の一般的な広い意味での神秘主義とはどういうものかということに、当然、なってまいりますが、これがまた大変な仕事でありまして、とうてい簡単に処理できるような問題ではございません。
面倒な議論に足をとられて、かえって迷路に踏み込んでしまう危険を避けるために、ここでは仮に神秘主義とは人間が自己自身、すなわち・わ・れ・の真相、本当の姿を直接自覚すること、そして次にまたその自覚の境地に開けてくる意識のある特殊な認識地平に顕現する存在の究極的な様相を把握することである、といたしておきたいと思います。簡単に申しますと、意識の深層を開くことによって、主体、客体を含めた意味での存在の 深層、存在の深みをギリギリのところでつかまえるということであります。』


この部分は、とてもよく理解できます。この一般化された欧米文化的な「ハイヤーセルフ」の概念は、「次元水平的な現実(ヌース的には、幅でしょうか)」しか生み出せない宿命を負っている様にも見えます。反対に、「科学精神」と呼ばれる欧米文化の強力な知性は、「次元水平的な文化」の産物と言えそうです。
さて、実はあるユーチューバーのビデオを見て思ったのですが、そこには「シンクロの嵐」と「楽しくて楽しくてしょうがない」胸の内が切々と語られており、「自分と同じだ。」と思ったのです。表現している内容こそ異なりますが、「誰かに伝えたくてしょうがない」その胸の内は、「全く一緒」だったのです。。。いったいぜんたいどこの誰が、私の人生(意味深長な明晰夢や、運命的な居住地の変転)のシナリオを書いているのでしょうか。。。。現実の出来事の中に、意味性の共鳴を感じ取れますが、人格が全く感じられません。


『ところで、神秘主義がそのようなものであるといたしますと、当然、それは特殊なプラクシスを必要とするということになってまいります。そのプラクシスの側面は、都合上、ここでは一切省略いたしますが、とにかく、どのような方法をとるにせよ、それはいずれも知覚、感覚、思惟、感情などの普通の人間の内的体験の次元の彼方に働く一種独特な認識機能の場としての意識の形而上的次元を開発することを目指す特殊な精神的訓練の方法、修行の道、いわゆる「タオ」(道)すなわちイスラームでいう「タリーカ」(tariqah)であります。
この種の訓練、心身訓練は、必然的に一種の形而上的実在体験に導きます。つまり意識の深みにこのような形而上的次元が開かれますと、そこに存在、あるいはリアリティの日常的意識次元では全く見られない形而上的様相が見えてきます。意識のこの次元で働く認識主体の機能を、イスラームでは「バシーラ」(basirah)と呼びます。「バシーラ」とは、普通のアラビア語では「視覚」を意味する言葉ですが、スーフィズムの術語としては精神的な目、あるいは内観というような意味でありまして、肉眼の視覚から区別された意味で使います。要するに事物の形而上的真実、真相(=深層)を見通す目ということであります。』


いわゆるこれが、「場の意識」だと考えています。これからこれが、多くの人々に開かれるのだと思います。「自己」と呼ぶ存在を「関係の意識」に埋没させないことが重要です。しかしそこに至る道は、「多くの葛藤を乗り越える道」でもあります。「関係の意識」は、これらの葛藤を「他者の責任」にしたがりますが、ここで争いに発展しますと、せっかくのチャンスが失われます。これが「場の意識」開発のための「心身訓練」となるのです。


『古来、東洋の、例えば中国の芸術論、特に画論などでは、見る働きの深化、見る働きを深める、深化させるということを非常に重要視いたしますが、それはつまりいわゆる骨法、すなわち存在の表面的形態や様相の底に伏在する根源的構造を直視するということでありまして、これがまさに「バシーラ」に該当いたします。神秘主義とは、ですから「バシーラ」を通じて実在の真相(=深層)を覗き見る体験なのであります。今日の記号学的意味論の考え方に組み入れて申しますと、「無」とか「空」とか、つまり未だ全然どのようにも分節されていない、未分節の存在的カオスを、日常経験の成立する場とは全然違った意識の次元において、常識では考えられないような新しい形で新しく分節し、新しく分節したものを新しく組み直す能力を「バシーラ」と呼ぶということになると思います。新しく分節し、その新しい分節単位を組み直していくのですから、そこに全く新しい存在世界のイマージュが起こってくることは当然であります。』


さて、多くのスピリチュアルティーチャーと呼ばれる人達が、「人生がこう変わる」とか、「社会がこう変わる」とかの夢物語を語りますが、地に足の着いた体験談は稀なのではないのでしょうか。「社会や人生が反転する」と言っても何のことやらでしょう。「社会の反転」はまだまだ先としても、多くの人の「人生の反転」は、すぐそこにまで迫って見えます。いや、「社会の反転」もすぐそこかも知れません。煽る訳ではありませんが、心の備えあって憂いなしです。それでは、「反転後の世界の感じ方」について、体験から感じたままを述べてみたいと思います。あくまでも、一つの感じ方として受け取ってください。
さて、「反転」を経験しても世界の見え方は変わりません。相変わらず世の中に不条理は見えますし、世界も違った色には見えません。では何が変わったかと言いますと、「他者との接し方」や「行動の動線(職場への行き来等の)」「居住地の変転」「偶然との関わり方」「生きる意味の再構築」、などなどです。どういう事かと言いますと、

① 他者との接し方
 偶然の出会いが起こります。具体的には、あまりにもあり得ない嫁との出会いがありました。また、交友関係が変化してしまい、親族や、ある一名を除いた過去の全ての人間関係が途絶えました。

② 行動の動線(職場への行き来等の)
 行動範囲や方向性に変化が生じました。具体的には、職場が変わりました。また、通勤にストレスがなく快適で、帰省や出張でも多くの人の移動の方向と反対で、混雑もなく快適になりました。

③ 居住地の変転
 職場の変化により居住地も変わりました。ですがただの変化ではなく、その居住地の変転にスピリチュアルな意味(産土の神のご縁など)が、見られるようになりました。また、東京都から京都府への移転や、それ以前の転職最初の転居先の県番号が、東京(13)から鳥取(31)への変化であったとかがあります。

④ 偶然との関わり方
 嫁との出会いもそうですが、偶然の出来事の中に、スピリチュアルな必然が感じられる様になりました。例えば、「結婚前に知らずに参った箱根神社の摂社が九頭竜神社といい、縁結びの強烈なエネルギーを持っていた。」や「偶然引っ越した先の土地神である松尾大社のご祭神が、私の産土の神の一柱である市杵島姫命であった。」などなどです。

⑤ 生きる意味の再構築
 生きることにスピリチュアルな意味を感じるようになりました。ここにいる事がまるで生前に決めた約束ででもあるかのように感じ始めました。具体的には、私の実家のある 土地や、母親の里、更には今の職場の場所に「市杵島姫命(弁財天)」が関わることです。さらに驚くべきことに、「市杵島姫命」は、「秦氏」が祭った神々の一柱であり、私が偶然移住したここ一帯が、「秦氏の聖地」と呼ばれる場所だったことです。その結果、「今」ここで生きる事に「何らかの意味」が感じられ、人生が楽しくて楽しくて仕方なくなりました。

こういった「空間共鳴の嵐」が、頻繁に起こるようになりました。自分はこういった変化に「反転の証」を見るのですが、他者からは全く見えない世界なのではないのででしょうか。

そうでした、嵐山の天龍寺の座禅の会(龍門会)との出会いも、偶然の賜物であり、そこを中心とした「空間共鳴の嵐」が、数々の気付きを運んでくれています。

次回も、「スーフィズムと言語哲学」の続きです。

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