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「関係の意識の価値観」と「場の意識の価値観」

先日洗濯物を干していた嫁さんから、「おはやしの音が聞こえる」と言われ耳を澄ましたところ、近くの物集街道から騒がしい音が聞こえて来ました。

ネットで調べたところ、今日は神幸祭(松尾祭り)の当日で、4年ぶりに御神輿の行列が、正式な形で通りを練り歩くのだそうです。

この祭りに付いては、以前もここで書いたことがあり、「イスラエルの失われた10支族」を彷彿とさせる由来のわからない不思議な祭りです。

『イスラエルの失われた10支族』

『松尾大社 磐座』

私は、嫁さんと一緒に通りまで見に行くことにしました。

到着すると多くの御稚児さんや時代衣装に扮した人々と共に、御神輿が目の前を一機通り過ぎました。

沿道には殆ど見物人がなく、何とも自分達だけではもったいない贅沢な行列です。

そして、しばらく眺めていると、向うの方から二機目が見えて来ました。この祭りには、七機が参列するそうで、ほんとうにもったいない盛大なものでした。

そして二機目の御神輿の隊列の先頭の旗を見ますと、「宗像社」とあったのです。

私の産土の神は、北九州の「宗像三女神」です。

そしてこの祭(松尾祭)の主催神の一人は、宗像三女神の一柱である「市杵島姫命」です。私と嫁の結婚に至る「奇跡の出会い」の顛末も、航海の神様でもある、この三女神が関係しています。

まるで「示し合わせたかの様な偶然」を、嫁と共に楽しませて頂きました。

さて、何と表現しましょうか、現実とは本当に不思議なもので、この様な奇跡とも思える偶然が突然起こったりするのです。

それは、過去の私の半生を振り返っても、指折り数えることが出来ます。

翻って、明治、大正、昭和の時代は、この様な偶然に出会っても特には問題とはならず、「宗教心」に還元されて、「信仰の現れ」として、万人が納得出来たのです。

しかし時代は「科学や経済一辺倒の価値観」となって、合理的には説明できない現象を「非科学的」であると一蹴し、「宗教」のみならず「イデオロギー」までもが、胡散臭い目で見られるのが現実です。

社会の中では、「人間の尊厳」としての文化的な「倫理観や価値観」は、失われつつあるのです。

再現できない現象は、「単なる偶然」であって、意味がないと一蹴するのが「社会の常識」です。

心ある人の中には、科学的、経済的価値とは違った別な価値を現実の中に探し求めますが、経済的な価値に抗う術はなく、科学なしでは生きられないのが現実です。

さて、では絶望しかないのかと言いますと、そうとも言い切れません。

中には、メタバースに活路があると、「仮想の世界」に心のより所を求めますが、それは、「再現性」を基盤とする「科学的価値観」の申し子であり、早晩パターン化を免れません。

生命が根差す根本は、「永遠性」であって、「再現性」の中にはないと私は考えます。

また、攻殻機動隊やガンダムの様な、「機械と生命の融合」を「システムやアーキテクチャー」に夢見る人も居ますが、いまの所、これが現実と重なることは難しく思います。

これらはいずれも、「関係の意識の価値観」であり「場の意識の価値観」とは違います。

あくまでも「意識の主体」は、「関係の意識」であって「場の意識」ではないからです。

これら「二つの意識」は、並行して対となって存在しており、それが多くの葛藤を心の中に「進化の方向性」として体験させているのです。

これらは、「良きも悪しき」も「被害者も加害者」も、一丸となって「進化の方向と圧力」を創り出すのです。

「暴力行為や戦争」は、これらの「アーキテクチャー(構造体)」を自ら破壊する行為であり、決して人類社会に良い結果をもたらすことはありません。

健全なる葛藤こそが、個々人を、ひいては社会全体を進化へと導くのです。

個人の心の中に「二元性に対する認識」が極まった現在は、これを軽々と「超えた意識」を産み出すことが可能です。

それは「共時性(意味共鳴)」であり、「永遠性(奇跡)」であり、「非再現性(偶然)」なのです。

これを現実の出来事の中に探してみてください。

これらは、二重写しとなって、現実の中に埋もれているのです。

私は、半生を捧げた「苦悩と奇跡の体験」から、これを確信するのです。

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