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「政治の本質」と「文化の本質」とは。

先日は、満月で「中秋の名月」でした。

「松尾大社」では「観月会」が行われており、会社帰りに名月を愛でながら、素晴らしいひと時を過ごさせて頂きました。

お酒の神様ならではの「月見饅頭と月見酒」にて接待いただき、「京文化」ならではの「名月と風雅」を同時に楽しめて、とても幸せなひと時でした。

「幽玄な雰囲気の存在のエネルギー」と「背景から脱け出たかの様な、冴え渡る月の光」に照らされながら、「文化の神髄」を体感させて頂き、感激で胸が熱くなりました。

さて、ここ日本には、天皇家を中核とした「文化外交」なる言葉があります。

また天皇家は、過去において「政治利用」されて来た歴史があり、その「存続」を巡って、賛否両論があるのは確かです。

また日本人は過去において、「天皇中心の文化を全否定しなかった」歴史もあり、それが「互いの信頼感」と「太平の維持」と共に、日本自体を形作っているのも事実なのです。

大陸ではイデオロギー(思想)により「自らの文化を全否定した」過去を持つ地域もあり、それが「互いの信頼感」と「太平の維持」に、大きな影を落としています。

ここ日本もドイツと同様に、「政治の本質」と「文化の本質」を「混同した歴史」があり、それが過去の戦争に「天皇の政治利用(神格化)」として明確に現れています。

またドイツでも、「フォルク」の解釈を巡って、「ハイデガーの思想」の中に、無意識の影を落とします。

それが、「欧米文化」としての「ヒューマニズム(人間中心主義)」の無自覚の影響が、「フォルク」の思想の中に、影を作り出すのです。

「右翼(コンサバ)」も「左翼(リベラル)」も、それぞれが「相手の中の影」を見て、「自らの影」を認知出来ず翻弄されて来た歴史があるのです。

単にそれは、次元(時限)水平の「時空間に縛られた意識の統制」である「科学主義」と「政治の本質」であり、これを称して「全体主義」と表現します。

そして、次元(時限)垂直の「時空間からの意識の開放」である「精神文化の本質」は、「科学万能主義」を超えて、奇跡(偶然)を伴って「時空間に縛られた意識の統制」を打ち破るのです。

これらの統制を半田広宣氏の「ヌーソロジー」では、「プレアデス的統制」と言い、私の「言葉」では、『「関係の意識」の思考(相対意識の鳥籠)』と表現しています。

私はこれらを、「関係の意識」による「イデオロギー(思想)」の論理や理解のみを基に目指した訳ではなく、「場の意識」による「文化的な共鳴」と「心情的な信頼への意図」から目指しているのです。

これを「アリストテレス哲学」や半田広宣氏の「ヌーソロジー」では、「能動的知性」と言っている様に思われます。

「政治の本質」とは、「力」であり「理性の対立(立場の違い)」なのです。

そして、「文化の本質」とは、「方向性」であり「感性の共鳴(共感)」なのです。

そして理性による「力動」と、感性による「方向性」が「数多くの人の間」で極まると、「場の意識」はシフトを引き起こし、「関係の意識」に反転が起こるのです。

つまりこれらの「能動的知性」の活用には、「覚醒(目覚め・意識のシフト)」が不可欠なのです。

これをハイデガーの思想では、「現存在の本来性への回帰」とも言うのです。

なぜ現在、世界的に見ても、「日本の文化や人々のなかに」、多くの「卓越した才能」が、育まれて居るのか。。。。。

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