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「超越的なもの」との関係を保っている生(本来性)とは。

引き続きハイデガー(1889年9月26日 - 1976年5月26日)です。

私は、この現実には、「人間の意識(生死)」を超えた「存在」が関与するはずと、かねがね思って来ました。

それは、「先人の思想」と言うより、「自身の体験」によるところが多くを占めます。

そんな中、「ハイデガーの思想」との出会いは、それを補強する材料を示してくれます。

それでは引き続き、「ハイデガーの思想」を「アシスト」として、更にその先へと進みたいと思います。

先のブログで、ハイデガーは「信仰」と呼ばれる枠組みの中で語っていると書きましたが、後に彼は「キリスト教」への信仰を捨てており、「宗教的な信仰」の枠組みの中に納まって考察していたとは決して思いません。

でもこの「信仰」と言う何かは、「宗教に限らない」はずです。

私もそうですが、ハイデガーも何がしかの「信仰心」が有るからこそ、この様な哲学的な命題に真正面から取り組めるのだろうと思います。

「欧米文化」である「哲学」は、全ての物事を理詰めで突き詰めて、矛盾を排除し真摯に取り組む強力なメンタリティーを有します。

ハイデガーも心の奥底に「(理性に対する)信仰」を育むからこそ、こう言った取り組みを生涯を掛けて実践出来たのです。

「科学的合理性」もこう言った「(理性に対する)信仰心」の一つの現れだったはずです。

ハイデガーの言う『「超越的なもの」との関係』は、『「科学的合理性」を超えて、更に深まる「存在」との関係』を目指すものと考えられるのです。

そして、この様な『「超越的なもの」との関係』は、「エルアイクニス(性起)の進化」とも呼ばれる「現存在(人間)の成長進化の過程」により生まれるもののようです。

そう言った意味でも、私はハイデガーを、「大先輩」と感じていますが、一つだけ大きく異なる点は、「信仰」の対象が、「理性」だけに留まらず「感性」へも向けられたところでしょうか。

私は以前、「科学に対する信頼」以外に特に「信仰」と呼べるものはないと書きましたが、「理性」が、『「関係の意識」の文明』における「信仰心」の「究極的な発露」とするなら、『「場の意識」の文明』にも、同様の「究極的な発露」が存在するはずだと思っていました。

そこで思い至ったのが、以下の「発露」と呼べる様態でした。

私は、「人生の暗黒期」の、闇落ちの真っただ中で、ある「(感情的な)思い」を抱いていました。

それは、かつてのブログにも書きましたが、平原綾香の「ジュピター」で歌われていた、「愛に対する強烈な思い」でした。
『平原綾香「Jupiter」』 <youtube/歌詞>


今思い返しても涙が出る程の「強い思い(希求)」でした。
出来事の詳細に興味のある方は、私の過去ブログをご覧ください。


そして今現在、その「聖なる歌声」は、偽りではなかったと、確信する様になりました。誰にも気付かれることのない、あの孤独な闇落ちのさ中、この「歌姫のCD」を、これが擦り切れる程、繰り返し、繰り返し、聞いたのを思い出します。

これを「思い(希求)」と呼ぶべきか「信仰心」と呼ぶべきか迷うところですが、確かにそれは、存在しましたし、今でも私の中に息づいているのです。

これらは、「信仰するものの段階」ではなく、既に「体験するものの段階」に至っている「存在者と現存在との関り」だったのだと確信する様になりました。

それではハイデガーの思想の中の、現存在(人間存在)を「非本来性」から「本来性」へと至らしめる「思考の過程」を、「轟孝夫氏」の先の著作の【ハイデガーの哲学『存在と時間』から後期の思索まで】から更に引用してみます。

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ハイデガーは「存在への問い」 の着想に至ったとき、人間をとおして世界へ、というそれまでの哲学の典型的な手続きに則ってその問いを定式化しょうとしていた。

つまりまずは現存在の存在を押さえたうえで、そこに 「存在」がどのように現れているかを現象学的に記述するという仕方で「存在」という事象を明らかにしようと試みたのだった。

しかし現存在を起点として 「存在」に接近するというこの方法を取ったことにより、「存在」を主観的意識の構成物とする超越論的哲学との違いが見えにくくなってしまった。

そもそも「存在」という概念は、決して主観には解消されない「この世界」そのものの生起を捉えようとするものだった。

しかし『存在と時間』 の手続きでは、そのような「存在」 が主観的意識の産物であるかのような印象をやはり与えかねないのだ。

「存在への問い」を主観性の哲学から明確に区別し、その固有性を際立たせようとする努力は、すでに『存在と時間』刊行直後から始まっていた。

この時期から、彼は「存在」を現存在の実在論的分析を介さずに直接的に示すことを試みるようになったのだ。

そのために、語り口も『存在と時間』とは大きく異なるものとなった。

このように、主観性の哲学からの脱却は1936年に突如、起こったわけではなく、むしろそれ以前からの漸進的なプロセスの帰結と捉えるべきである。

現存在がその本質において「存在」の生起する場であることは、これまで何度も触れてきた。【中略】現存在にとっては本質的なこの「存在」への関係性を、現存在が「存在」へと超え出ていくことと捉えて、それを「超越」と呼んでいる。したがって 「超越の解明」とは、実質的には「存在」そのものの解明の事を意味している。

ハイデガーは「超越の問題は時間性への問い(中略)へと引き取らなければならない」と指摘し、そして「そこからどのように超越そのものに(中略)圧倒的なものとしての、神聖性としての存在の了解が属しているのかがはじめて示されうる」と述べている。

前章で見たように、「時間性」は「時間」の拡がりとして生起する「存在」へと脱自する現存在のあり方を捉えたものである。

したがって「超越」の問題を「時間性」への問いへと引き取るということは、「超越」を「存在」への「超越」として捉え直すことを意味している。

この引用では、この意味における「超越」が超え出ていく先としての「存在」が、「圧倒的なもの」、「神聖性」であることが示唆されているのである。

以上の解釈が正しいとすれば、『存在と時間』において「超越」や「脱自」という神学的背景をもつ術語が用いられていたのも、その段階ですでに「神」との関係が視野に入れられていたからだと考えられるだろう。

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如何でしょうか。

ところで、「現存在(人間)」から「存在」を定義しようとする試みは、「論理の循環」を作り出し、結局その試みを断念することになります。

そして、「超越の解明」つまり思考によって、直接的に「存在」への接近を試みるなか、『「時間性」は「時間」の拡がりとして生起する「存在」へと脱自する現存在のあり方を捉えたものである』との結論に至ります。

つまり、私の「体験との符合」で言えば、「偶然の巡り合わせ(時間性の超越)」と共に、「奇跡的な喜びの発現」として、『「存在」へと脱自する現存在』をこれと捉えるのです。

次回へつづきます。。。

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